1.後見人が来ない

何かがおかしい。いつもと違う。小さくない違和感を覚えながら、何気なくそれをやり過ごし、後から深く悔やむということが人生には時々ある。


この国がスペインから独立してちょうど120年目を迎える西暦1760年8月8日は、アマリアにとって、そんな日だった。



    *



四方の壁に、歴代の王宮香薬師こうやくしの肖像画がずらりと飾られている。33名の物言わぬ賢者たちに見下ろされ、アマリアは薄暗い部屋の窓辺にぽつんと立っていた。


香薬師協会本部の会議室で、ふたりの男が現れるのを待ちぼうけているのだ。約束の時間から15分ほど過ぎているので、室内の様子は見飽きてしまった。


それに、3年ほど前にここで試験を受けたことがあるので、24人掛けの円卓や天井のシャンデリアを見るのは初めてではない。それらは新大陸のブラジルから奪った黄金で贅沢に装飾されていて、香薬師協会の財力の大きさを雄弁に語っていた。


廊下からふたつの足音が聞こえ、窓の外を眺めていたアマリアは室内を振り返った。一番新しい肖像画の人物と目が合ったのはその時だった。


それは入口のドアの横に飾られていた。白髪の老人の肖像画ばかりが並ぶ中で、その人は唯一の若く溌剌とした女だった。ポルトゥカーレ人の多くがそうであるように、小麦色の肌に黒っぽい髪と瞳を持つ女だ。はっきりとした目鼻立ちの顔に、挑むような微笑みを浮かべ、彼女はアマリアを見ていた。


会ったことこそないが、アマリアは彼女をよく知っていた。十数年前に薄毛治療の香薬を開発してポルトゥカーレ中の中高年を狂喜乱舞させ、巨万の富を得た前王宮香薬師だ。彼女はアマリアの育った孤児院へ多額の寄付をしてくれていて、支援者リストの筆頭は常に彼女だった。現在は別の面でもお世話になっている。


「コンスタンサさんって、こんなに綺麗な人だったんだ」


ずきんと痛んだ胸を拳で押さえ、小さく独りごちた時、ドアノブが動いた。


「やあ、待たせて申し訳なかったね、アマリア」


入室するなり、足を止め、そう言ってにっこりと破顔したのは好々爺然とした風貌の男だった。香薬師協会の会長だ。後頭部でまとめた長い髪も、眉も、短い顎髭も真っ白で、顔や手には深い皺が目立つ。


中肉中背の老いた身体がまとう衣服は新しく上等で、白いシャツは襟元と袖口にレース飾りが付属し、グレーのウェストコートとズボンには立体的な花模様の刺繍が施されている。


「ここで君に会うのは2回目だな。覚えていないかもしれないが、君の口頭試問の試験官をしたのは私だったんだよ。あれは何年前だったかなあ? 君の解答は20歳とは思えないほど、実に見事だった」


「3年前です、アルメイダ会長。もちろん、覚えています。その節はお世話になりました」


アマリアは笑顔をつくり、老人に歩み寄った。日々、客商売をしているので相手に自分がどう見えるかはよく分かっている。そばかすの浮いた小麦色の肌も短い金髪や緑の瞳も健康的で精力に満ちているが、残念ながら絶世の美女ではない。


23歳にしては要所への肉づきが悪く、年齢より年下に見られることも多い。身につけた普段着の青いドレスの生地はくたびれ、薬草の汁による汚れや、ほつれを繕った跡が著しいものの、「丈夫で機能的で香薬師らしい」と自分では思っている。


「そうか、もう、そんなに経つかね。仕事には慣れたかい?」


アマリアの仕事とは香薬屋を営むこと。香薬屋とは薬草を焚いて患者を癒す治療院だ。今から3年前にアマリアは香薬師になる試験“香試”に合格し、このポルト市内に香薬屋を開いた。


「ええ、その、何と申し上げたらいいか。今日、私をここへお呼びになったのは、そのこと、ですよね?」


香薬師協会会長から突然に呼び出された理由は見当がついている。アマリアは覚悟を決めてアルメイダの叱責を待ったが、彼は皺だらけの顔に苦笑いを浮かべ、細い指で椅子を指しただけだった。


「まあ、座りなさい」


アマリアは入口から最も近い椅子を引き、素直に腰を下ろす。アルメイダは円卓を挟んだその正面へ、窓を背にして座った。


長身の人物が部屋に入ってきたのはその時だった。西欧風の軍服のような衣服に身を包み、腰に剣と短銃を帯びているが、ゲルマン系の美貌と豊かな胸のおかげで男装している女だとすぐに分かった。彼女は着席したアルメイダと窓の間に直立した。


港町であるポルトでは、異国の傭兵や用心棒は珍しくない。だが、なぜ香薬師協会の会長が傭兵を連れているのかは分からなかった。彼女は頭頂部でまとめた長い黒髪を潮風になびかせ、青灰色の瞳でアルメイダをじっと見下ろしていた。


「滞納金のことは申し訳ありません。……あの、もうすぐ私の後見人も到着するはずなんですが」


怒られる前に謝っておこうと詫びたものの、アマリアは援軍の気配がないことが心細くなった。


「君の後見人は多忙な男だ。彼抜きで話を始めておいてもいいだろう。それに、今日ここへ君を呼んだのは、協会への支払いの滞納について、ではないんだよ」


アルメイダは女傭兵について一言も触れず、表情を引き締めて落ち着きなく椅子に座り直した。反対に、アマリアは拍子抜けしてしまった。


「私、てっきり、お叱りを受けると思ってたんですけど。その、9000エスクードを滞納していること」


香薬屋を営んで3年。商売は軌道に乗り、アマリアの店の評判は上々だ。ところが毎月ほとんど利益が出ず、香薬師協会への支払いが滞っていた。貧しい人々から治療費を受け取ることを拒み続けた結果だった。滞納している9000エスクードはアマリアの小さな香薬屋の家賃1年分に相当する。健康な若者が半年ほど肉体労働すれば稼げる金額とも言う。


「君の滞納金のことは聞いているよ。だが、今日は個人的な話をするために君を呼んだんだ。真実を話し、君の力になりたくてね」


アルメイダはもったいぶった言葉ばかりを並べ、胸を痛めるかのように苦々しく微笑むと、やがて思い切ったように語り出した。


「ずっと黙っていて悪かったと心から思うがね、私は君の実の父親なんだ。君が生まれて23年間、父親だと名乗り出ることもせず、君を一度も抱き上げたこともなく、君を孤児院へ任せきりにしていた私が、今さらこんなことを打ち明けるのはおかしいと思うだろうね」


アルメイダはアマリアの反応をうかがうように首を傾げた。アマリアは椅子に座った姿勢のまま硬直していた。息をすることさえ忘れていた。


「アマリア?」


名前を呼ばれ、アマリアは何か言わなければと口を開いた。だが、思考がまとまらない。


「ええと、あの、何というか、私は12歳の頃からずっと、全く別の人を自分の父親かもしれないと思っていました。ご本人に確かめたことはありませんけど。だから、あなたが私の父親だなんて」


アマリアは物心ついた時から孤児院で暮らしていた。両親の顔はおろか、彼らがどこの誰なのかということさえ知らなかった。己の出自について何も知らぬまま生き、そのまま死ぬことをほとんど受け入れていた。「この人が父親なのかもしれない」という人物に出会ってからも。


「君が生まれた時、私は香薬師協会の理事になったばかりで、自分が父親だとどうしても言い出せなかった。私には妻がいたし、君の母親はまだ若かったんだ。今さら何を言っても言い訳に過ぎないが、本当に申し訳なかった。父親としての責務を果たしてこなかった罪滅ぼしと言っては何だが、君の滞納金を私に肩代わりさせてくれないだろうか? そしてこの先も、資金援助をさせてほしい」


資金援助という単語を聞いて、思考停止していたアマリアの脳はゆっくりと動き出した。もし、アルメイダの話が真実なら、こんなに都合のいいことはない。だが、「そんなおいしい話があるものか」と疑ってかかる程度にはアマリアは世の中を知っていた。


「ご冗談ですよね。だって、もし本当なら、今までどうしてそれを黙っていらしたんですか?」


「君に後ろめたくてね。君の父親であるという事実については、墓場まで持っていこうと思っていた。だが、君が店の経営に困っていると知って、黙っていられなくなった。少し前に妻も死んだし、私自身も老い先は短い。罪滅ぼしの機会を天の神々が下さったと思ったのさ」


自嘲気味に言ってアルメイダは目を伏せた。


「アマリアという孤児はこの国に何十人、いえ、何百人いると思いますけど」


「人違いではないさ。君のことは生後まもなく手放したが、その後もずっと成長を見守っていたんだ。そうだ、背中に、真円の形のオリーブ大のアザがあるだろう? それは生まれた時からあったものだ」


アマリアはごくりと唾を飲んだ。アルメイダの言った通りのアザが背中にある。


「信じられません」


口からこぼれた言葉とは裏腹に、アマリアの心はふわふわと浮き上がっていた。香薬師協会に支払わなければならない9000エスクードをアルメイダに肩代わりしてもらえるのはもちろん有り難い。しかし、もし彼が実の父親であれば、もうひとつ、どうにもならないと諦めていた問題が解決する。アマリアにはそれがたまらなく嬉しかった。


「今まで本当にすまなかった。これからは父親として君を支援させてくれ。ゆくゆくは遺産も譲りたい。そのために、君には私の養子になってほしい」


アルメイダは感極まったように瞳を涙で潤ませていた。彼は椅子を立ち、アマリアの前で片膝をついた。アマリアは慌てて椅子から立ち上がり、跪く老人と目線を合わせた。


「お話はとても嬉しいです。でも、一度、後見人に相談させて下さい」


ポルトゥカーレの法律では、市民は25歳で成年とみなされる。多くの欧州諸国と同じだ。だから未成年であるアマリアは香薬屋を開く時も、店の2階の居室を借りる時も後見人の同意が必要だった。おそらく今回もそうなるだろう。


「彼は、ずいぶん遅いな」


アルメイダはノック音が聞こえたわけでもないのに入口のドアを見やった。足音も聞こえなければ、ドアノブが動く気配もない。


「ええ、そうですね、すみません、もう来てくださるとは思うんですけど。あの人、自分は待つのが大嫌いなのに、結構、遅刻魔で」


アマリアが後見人の悪口をこぼした時、小さな舌打ちが聞こえた。


「誰が遅刻魔だ」

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