ClearQualia ~白紙の少年~

nekomiti

序章

プロローグ

1

 夜の海のように全てを飲み込む星幽せいゆう深淵しんえん

 その水底から、ゆっくりと意識が浮上していく。


 無限に続く暗闇に溶け込んで、まるで世界の彼方にまで薄く広がる液体に希釈きしゃくされたようだった自意識が、少しずつ固体へと凝固して、緩やかな覚醒を始めた。


 それに伴い、思考が少しずつ明瞭めいりょうになってくる。


 そこで初めて、自覚することが出来た。



 ────今、僕は目を覚ましたのだ、と。



 やがて目を開いて、戸惑いつつ周りを見渡してみると、そこは不思議な部屋だった。


 その部屋は巨大な書斎のようで、壁に造り付けられた本棚には”ぎっしり”と言う表現でも足りない程に、これでもかという量の本が詰まっている。


 どうにも文字が読めず、それぞれの本の表題タイトルは分からないけれど、数え切れないほどの本、本、本…………。

 何千冊、なんて言わない。

 何万、何億冊でも済まない本が、大凡おおよそ人間の背の届く範囲など軽く無視して並んでいた。


 そして部屋の中央には円形の、周囲よりも一段高く作られただんのようなものがあった。


 けれど、小さな劇場で歌手が歌うためのお立ち台のようにも見えるそこにいたのは、見目麗しい歌姫ディーヴァなどではなかった。

 巨大で荘厳な、天球儀セレスティアル・グローブだった。


 その巨大な金属で出来た骨組みの球の内側と外側を、様々なサイズの金色の球体が縦横無尽に駆け巡る。

 その天球儀セレスティアル・グローブが従えた金色の球体はにぶく輝きながら回転していた。

 音を立てずに静かにゆっくりと、しかしその足を止めることはない。


 巨大な機械というのは、見ているだけでも心がおどるものだ。

 所謂いわゆる男の浪漫ロマンが詰まった高額な代物しろものだと言える。


 そうして次に上を見上げれば部屋の天井の骨組みは半球状で、硝子ガラス張りの天窓をかして、満点の夜空を眺めることができた。


 これは────そう、プラネタリウムのようだ。


 しかも夜空を天井へと投影した”ただのプラネタリウム”ではなく、硝子ガラスを通して夜空を眺める、天然のプラネタリウムだ。

 そんな天井を覆う夜空は確かに素晴らしい眺めなのだが、平地にこの豪華な書斎を建築したにしては、やけに空が近く見える。


 こう言う部屋を作りたいと思っても、普通は室内であればプロジェクション・マッピングの技術を応用した投影機を使う気がする。

 なにせこういう部屋を建築するのと、高性能プロジェクターを買うのとでは、かかる値段が段違いなのだから。

 どこの会社のものかは忘れてしまったけれど、人工知能AIが自動的に部屋の壁を走査して、設置するだけで部屋の全面をディスプレイのようにしてくれる製品もあったはずだ……。


 そう考えると、この硝子ガラス張りの意図はなんだろう。

 ……と悩んだ所で、その答えに思い至った。


 天文台だ。


 星が見えれば良いのならプロジェクション・マッピングでいいが、実際の星を観測したいのならそうはいかない。

 ここはやはり、天文台のような施設に見える、ような気がする。

 それにしてはこの数え切れない本の数々は良く分からないけれど、ざっくり図書館と天文台の特徴を持った部屋だと思えばしっくりくるものがあった。


 ここで何かしらの知識を持っている人なら、星の位置から現在位置や方角が分かったのかも知れないけれど……生憎あいにくとそのような技術を僕は持っていない。

 確か、天測航法てんそくこうほうとか言う名前の航海術だった気がする。


 けれどそれもGPSの発達により無用の長物と化してしまった。

 船と船の衝突事故はとても悲惨な事故になりがちなので、人が運転すべきではないという意見が主流の今は、ほとんどのタンカーが港を出た後は人工知能AI制御の自動運転になっていると聞いた。


 現代では、一体どれだけの人が天測てんそく出来るのだろうか。

 星を眺めたり、その名前を調べたりという事は好きだったけれど、その星の位置から何事かを調べて情報を集めるというのは完全に門外漢もんがいかんだ。


 なので、これ以上星を見上げていても分かる事は何もないだろうと、空の観察を切り上げる。



 ざっと部屋を見回して分かったのは、この部屋の持ち主が天文に関する職についているか、それに類する趣味を持っているかという事ぐらい。

 その上で、とんでもない読書家ということだろうか。


 後は……そう、部屋の内装に使われているのが胡桃ウォールナット材に近い気がする、とか……?

 まぁ、こんな情報は役に立たないか。

 けれどその木の温かみは、サナトリウムの無機質で無表情な内装を見慣れていた僕にとっては、思わず頬擦ほおずりしたくなるほど有機的で心地が良い質感だった。


 シックなデザインで高級感が漂いつつも、嫌味な派手さはない家具や調度品の選択チョイスは一般人の自分にも心地が良い。

 総評。

 個人的な感想としては落ち着く部屋だと思った。


「気に入って貰えたかな? この部屋」


 突然の声。

 驚き、弾かれるようにそちらを振り向く。


 するとそこには、青い髪の人懐こそうな顔つきの少年が立っていた。

 自分の目線の高さに相手の目があるので身長は同じくらい、というかほぼ同じかも知れない。


 彼の手にはランタンかカンテラか何かがぶら下がった巨大な木の杖があり、その服は北方の雪国の服のような毛足の長いファーがついた裾の長いローブだった。

 足元は膝丈ほどの革のブーツだが、膝や足元には鋼鉄製の部分鎧のような装甲が付いており、ロシア連邦や北欧でも見ないような、どうにも現実感のない服装だった。


 いや、その子の容姿の事はひとまず良いのだ。


 そんな事より、いつの間にそこに、という疑問の方が大きい。

 僕はたった今、この部屋を見回したはずなのだ。

 その時には確かに……この部屋にいたのは僕一人だったのだから。


 その少年の表情はまるで遊び相手に自分の宝物を見せる子供のような、ほんの少しだけ意地の悪い、それでいて不快感は不思議と感じない笑顔だった。

 相手の反応を楽しみにして”にやにや”と笑っている……ひとことで言えば"いたずら小僧"、そんな感じの印象を受けた。


 どこからともなく僕が部屋を見回す様を眺めては、部屋の持ち主としての優越感にひたっていたと言う所だろうか。


 確かに、この部屋は素敵だ。

 彼が持ち主であるのならば、この部屋の内装を自慢したくなるのもうなずける気がする。


「やぁ、ここでは初めまして、だよね? 僕の名前はオルバース。家名ファミリーネームはないから、オルバース、って呼んで欲しいな」

「うん。……ええっと、初めまして。僕は……あれ……?」


 うん……?

 名前が出てこない。


 自分の名前だというのに……どうしてだか記憶が曖昧だった。


「ああ、君の名前は聞かなくても分かるから名乗りはいらないよ。だって────ここに招いたのは僕なんだもの」


 そうは言われても、困るものは困るものだ。


 問題は、名乗れるかどうかじゃあないのだから。

 名前も思い出せないなんて……これは、あれだ。

 記憶喪失、というやつだろうか……。


 それは本当に困ってしまう。


 それに目の前の少年────オルバースは自分が招いた、と言ったが、僕にはそんな記憶はさっぱりない。

 よくよく思い返しても、先ほど目覚めるまでの記憶がごっそりとない気がする。

 最後に、眠る前に何をしていたか、その記憶すら曖昧あいまいだった。


 ……よく思い出せない。


 仕方がない。


 考え続けても思い出せる訳もないし、ひとまずは目の前の少年だ。


 少年はこの部屋の感想を、わけ知り顔で自信ありげに求めて来た。

 つまりそれは、彼がこの部屋についての疑問を解決できるような、そんな人間だという事だ。


 疑問というのは勿論もちろん、ここがどこか、なぜ自分はここにいるのか。

 そして、それともう一つ。


 信じられないが、一見するとこの部屋に入り口がない事についてだ。


 一体どこから帰ればいいのか、自分はどこから入ってきたのか。

 書棚自体は四方八方に、まるで無限とも呼べるほどに続いているので、そこのどこかに出入り口があるのかもしれないし、中世西欧ヨーロッパの城のように隠し扉になった戸棚があるのかも知れない。


 けれど、最悪の想像として、閉じ込められてしまっているパターンも考えておかないといけない、とも思う。


 でもその答えもやはり、彼から引き出すしかないようで。


「君が呼んだっていうけれど……、ここはどこ?」

「ここは星幽アストラル領域の境界面だね。君の魂と僕の本質が重なっているごく狭い領域。ここでなら”今の”君と会話もできるからね」

「……うん……?」


 星幽アストラルと聞いて、少し琴線きんせんに触れるものがあり、思い出そうと頑張ってみた。


 そのような単語には、覚えがある気がする。

 確か神智学しんちがくの用語だったと思う。

 ……のだけれど、その単語がこのタイミングで飛び出してくると思わなかったな。


 神智学については、本で読んだだけだった。

 聞きかじりの僕には全く理解ができない。

 ……いや、僕の知識なんて、ほとんどが本で読んだだけなのだけれど。


 そのせいで、相手にちゃんと返事をする事すらできていなかったようだ。

 そんな戸惑っている僕に、オルバースは困ったように笑いかけた。


「そういえば君は"神無き世界"の人だった。僕達の所では知ってる人間も多いんだけれど、分からないのも仕方ないか」


 そう言うと彼は、鷹揚おうように両手を広げた。

 そしてそのまま、ひらりと舞い踊るような足どりで部屋の中央の一段高くなっている飛び乗った。


 跳ね上がった勢いを殺す事なく”くるり”と一回転したオルバースは、長いローブの裾をはためかせて杖を掲げる。


「じゃあこういう事にしよう……これは夢────君が見ている夢だ。さっきのは吟遊詩人ジョングルール空々そらぞらしくうそぶく、ただの意味深な言い回しさ。忘れてくれて大いに結構。……それならどうかな?」


 小首を傾げて「どうかな?」と顔を覗き込みつつも、彼には早く話を進めたいという明確な圧があった。


 自身の失言しつげんを勢いで丸め込もうという魂胆が見える。


 けれどまぁ、夢なら入り口がない部屋にも頷ける……のだろうか。

 ……夢の中の登場人物がこれは夢だなんて説明をしてくるかについてははなはだ疑問だが、そこは明晰夢めいせきむという現象もあるので、そういう事にしておこう。


「……夢、か。まぁ……それなら良いのか、な? ええと……オルバース?」

「そうだよ。オルバース! 僕の名前は、オルバース!」


 その少年は僕に呼ばれた瞬間からしばらくの間、楽しそうに自分の名前を反芻はんすうしていた。


 名前を覚えた自信がないから確認しただけだったのだけれど、自分の名前が大好きとかそういう人なんだろうか……?

 語尾に”音符”がつきそうな程に”にこにこ”としているオルバースは、放っておけば永遠にでも独り言を続けていそうだった。


 けれど、いつまでもこのままという訳にもいかない。

 ひとまず今の状況についての疑問を解決しにかかる。


「それで……オルバース、はここで何をしているの?」

「ああ、そうだそうだ。君を待ってたんだ。ずっと……ずっとね」


 そう言うと、彼は笑顔で僕に微笑んだ。


 その笑顔は途方もない親しみに満ちていて、明らかに初対面の人間に向けるそれではない。

 けれど……僕と彼とは面識はないはずだ。

 オルバースなんて人とは会ったことはなかったはず、だった。


「……待ってた? ……僕達、会った事どころか、知り合いですらないと思うんだけれど……」


 僕のその言葉を聞いたオルバースは、少しばかりはかなげに笑った。


「そうかも知れないね。君は僕を知らないはずだから……」


 でも────と彼は続け、壇の上から僕の目の前に飛び降りた。


 少年のローブがふわりと蒼くひるがえり、金色の装飾が”からから”と涼しげに鳴く。


「僕は君が最初に見つけてくれたその日から、ずっと、こうして君と出会えるのを待ってた。だから君と話がしたいんだ。────……ここに来れてしまうという事は、きっと君にとっては良い日ではないんだろうけれど…………」


 その言葉の最後は、”ぼそぼそ”とした小声になっていてよくは聞こえなかった。


 けれど、言葉面だけならば、なんだかとてもロマンチックな口説くどき文句のように聞こえる。

 そして自分でも不思議に思うけれど、なぜだか、彼の言葉への警戒心は全く湧いてこなかった。

 まるで、血の繋がった肉親の言葉のように、疑う事もなくすっと腑に落ちる、そんな感じだったのだ。


 きっと彼は思った事を思ったように口に出すタイプなのだと思うし、こちらも警戒するだけ無駄な気がしたのは、僕だけの秘密にしておこう。


「うん……。なんとなく分かった。この夢は、君と話をするための夢って事だよね?」

「そう、そうなんだ。……とは言っても、突然話そうって言われても困るだろうと思ってね。七十三年間、今日この日のために話を考えてきたんだ」


 そう言ったオルバースは、”びしり”と僕に向かって人差し指を立てた。


「七十、三年…………」


 すっかり忘れかけていたが、彼の当初の意味不明な発言に対する疑念が突然、「七十三年」という発言でブーメランのように綺麗な弧を描いて帰ってきた。

 夢の中の会話にしては、ときおり妙に具体的過ぎる単語が出てくるものだから何とも言えない。


 いまいち没入感に欠ける夢だと思った。

 けどまぁ、これは夢だから、きっとこの数字にも大した意味はないはずだ。

 ……ないよね?


 とかなんとか考えているうちにも彼の発言は続く。


「という訳で……じゃん! テーマは、幸福しあわせについて!」

「重いね……」


 重かった。


 少なくとも初対面の相手と親睦を深めるためのテーマではないと思う。

 どうして夢の中にまできて、哲学をしなければならないのか。


 なにより僕はきっと、世間一般で言う『幸福』というものには縁がなく、特にうといと言うのに……。


 ……ん?


 どうして”疎い”んだろうか?

 肝心な、そして大事なことなはずなのに、やっぱりよく思い出せない。


「えっ、そうかな……? 『これだ!』って思ってたのにな……。というか『権能』の説明にもこれがぴったりだし……う〜ん」


 オルバースは思いっきり頭を抱えてしまう。


 正直、ここまで考え込んでしまう程の気合で選んだテーマだったとは思わなかったな。


 そこまで頭を抱えられるとこちらとしても申し訳ない気分になってしまうな。

 彼のことだから、それが僕を困らせるための演技ではないことも確かだ。


 兎にも角にも、夢から覚める為には彼の話は聞く必要があるのだろうし、ひとまずは妥協するしかなさそうだった。


「あー……えっと、あの……もしかしたら、やってみればそんなに難しくないかもしれないし。まずはオルバースから話してみるっていうのでどうかな……?」

「本当!? それでいいよ!!」


 彼は叫ぶように了承の意を示した。

 そして僕の提案を聞くやいなや、先刻さっきまでの思い詰めた様子が嘘のように目をきらきらと光らせて、”ずいっ”とこちらへ迫ってくる。


 オルバースには本当に打算がなく、感情と言動が直結しているようだ。


 果たしてそれが誰にでもそうなのか、僕にだけなのかは分からないけれど。

 気持ちが良いほどに”くるくる”と表情が変わっていく。


「それじゃあ、最初は僕から話すね。きっと長くなると思うから、そこに座っててくれる?」


 そう言うとオルバースは部屋の片隅のソファを指差して座るように促し、自分はまた中央の壇の上────天球儀セレスティアル・グローブのもとへ飛び乗った。

 そして彼はその天球儀セレスティアル・グローブの周りを歩きながら、まるで指揮者が指揮棒タクトを揮うように、中空に向かって人差し指を”くるくる”と回し始めた。


 それに合わせるように、部屋全体に変化が起きる。


 まるで、彼の指揮に合わせて演奏の調子を変えるように、中央の天球儀セレスティアル・グローブが立体的に展開し、その惑星を模した黄金の球が走るレールがその円周を大きく拡大する。

 球が周る速度もまた、レールの拡大に合わせるように加速を始め、縦横無尽に天球を駆け巡る。


 何よりもすごいのは、明らかにその天球儀セレスティアル・グローブの動きと同期して、この部屋の天井から覗く星空が回転している事だった。

 天文台のように夜空が見える硝子ガラスの天井なのかと思っていたが、もしかすると極大有機ELディスプレイを敷き詰めた、想像すら出来ない額をかけた部屋なのかもしれない。


 そんな変化の数々を引き起こしているのが、オルバースであることは明らかだ。


 彼は考えている事が色々とあって、どれにしようか迷っている────そんな時にするような仕草で、中空とにらめっこをしていた。


「どうしようかなあ。最初の話は大事だよね……」


 そう呟いて、こちらへと視線を投げたオルバースと目が合った。


 ────瞬間、部屋の空気が一瞬で変わった気がした。


 彼のまとう雰囲気が、これまでの人懐こそうな少年の”それ”ではなくなったように感じたのだ。


 先ほどまでは『柔らかい袋に体温ほどの温度の液体が詰まった』ような印象だった。


 だが今は『無色透明で僅かに粘性のある液体、しかも袋から解き放たれて一気に空間中に拡散している』ような印象だった。


 言葉にすればそれほどの違いがあったのだ。


 まるで冷水を水風船にパンパンに詰めて、お湯の中に沈めて割ったような感覚────と言って伝わるだろうか……?

 とにかく、オルバースの存在感が一息ひといきに部屋中に拡散し、空間そのものが彼の手足となったような、そんな感覚だったのだ。


「よし……決めた!」


 そう声を上げた彼は、自分の目の前にある、見えない本を読むように表紙を開いた。


 彼の手には何もない。

 そのはずなのに、無性にそこに何かがあるように感じてならなかった。


 だが彼は、そんな僕の戸惑いを置き去りにして、一つの物語を紡ぎ始めた。


 彼の語り口は、この世に存在する森羅万象をる絶対者のような超然とした様子だった。

 それはまさに、つい先ほど彼が引き合いに出した吟遊詩人ジョングルールのようだ。


 自分という『個』を捨てて物語にじゅんじて、舞台装置の一つと化した、語り部かたりべとして最適化された存在。


 今の彼は、きっと『語り部』だ。


 彼が語る言葉の一つ一つが、まるで映像を見ているかのようにその情景を伝えてくる。


 芸術家の絵筆のように、鮮やかで繊細な筆致ひっちで世界を描き出している。


 僕はいつのまにやら、彼の語る世界に────彼が形作る世界に、夢中になっていた。

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