0話 最後の景色

 あぁ、全くもってつまらない人生だった。正直、こんな人生が終わったところでなんの悔いもない。


 三十二年間、社会の歯車として全うしてきた。


 学生時代はそれなりに楽しかった。学業の成績は中の上。得意科目は歴史、苦手科目は数学。


 ここで文系の大学に進学したのがミスだった。政治や経済について学んでも、それを一サラリーマンが活かすのは難しい。大物政治家や、それこそ中世の王様などにならなければ、実践する機会などほとんどない。


技術者や専門学生に比べて圧倒的に就職に不利。おかげ様で下請けの中小企業の営業。


 酒や女に溺れることもなければ、仕事に熱中することも出来ない。そんな緩やかに下降していくような日々からの脱却は突如訪れた。


 いつものように、満員電車に揺られ会社へ出勤。夜十時過ぎまで残業し、築二十年以上のボロアパートに帰る。


 ネクタイを緩めながら、ひび割れたコンクリートの階段を登っている時だった。


「うっ・・・、あ・・・?」


 なんの前触れもなく胸に鋭い痛みが走った。

 息ができない。


 思わずその場に倒れ込んだ。だが、それがいけなかった。触るのを躊躇うほど錆びた手すりにでも掴まるべきだった。


 倒れ込んだ勢いでそのまま今登ってきた階段を転げ落ちた。視界が何回転もし、最初は自分でもどうなっているのか分からなかった。


 視界が止まったと思うと、頭から生温かい液体が漏れだしているのが感じられた。


 指先から体温が消えていく。心臓の鼓動が弱々しくなってゆく。死がそこに迫っているのが分かった。


 割れてひしゃげた眼鏡と赤く染まったコンクリート。それがこの世界で見た最後の景色だった。

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