地獄と地獄。

畔 黒白

第1話 期待の新人

 ゆっくりと瞼が開く。


 そこは真っ白な空間だった。


「お、来たね。期待の新人。」


 目の前に座るスーツを着た三十代くらいの白眼鏡の男が言った。社長が使うような木製のデスクが男を囲んでいる。


「ここはどこだ? 俺は誰なんだ?」

 訳も分からず俺はそう言った。


「ここは''地獄''。君は新人。」


 男の言葉に俺は口をぽっかり開けたまま何も言えなかった。


 すると男はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、デスクに肘付き手を組んだ。


「まあ最初は何が起きたか分からないよな。ざっと説明するからそこにかけてくれ。」


 男の指さす方に目をやると、診察室に置いてあるようなキャスター付きのスツールが置いてあった。

 とりあえずそこに腰掛ける。


「君は死んだんだ。」


 言われてみれば、死んだ。そんな気はする。でも……


 男は眼鏡をかけ直す。

「現世での記憶がないだろう。''地獄''に来るものは全員現世での記憶を抹消することになっている。こんなところに来るような奴の現世での記憶なんてたまったもんじゃないからな。まあ厳密に言うと抹消というよりも記憶に厳重に鍵を掛けているという感じなんだが。」


 俺はその男が先程「ここは''地獄''。」と言っていたことを二度目の''地獄''を聞いたところでようやく知覚した。どうやら冗談でも、比喩でもないようだ。


「俺は一体現世で何をしたんだ?」


 男は慣れた手つきでデスクに開かれたノートをパラパラとめくる。俺の現世での情報が書かれているのだろうか。


「うーん、あまり詳しいことは記憶を戻す足掛かりになってしまうから言えないんだけど、簡単に言うと君は人を殺してるんだよ。」


「人殺し……」


「うん。一人だけどね。基本的に地獄に来る基準は人を殺したかどうか、それだけなんだよね。じゃないと判断基準が曖昧になって振り分けが面倒になるから。だから大半は天国に行くよ。」


 現世の俺、一体何やってんだ。


 突然男はなにか思い出したような表情で立ち上がる。


「そういえば自己紹介がまだだったね。私の名前はカナタ。第827代閻魔大王だ。気軽に閻魔と呼んでくれ。」

 男改め閻魔は慣れたように右手を胸に当て、執事のようなお辞儀をした。


「閻魔大王!?」


 閻魔はにっこりと笑みを浮かべ、元の椅子に腰掛ける。


「もっと怪物みたいなのだと思った?実は閻魔は人間がやるんだ。」


 こんなサラリーマンみたいな人が閻魔だなんて想像もしていなかった。

 それに、ここは俺のイメージする地獄とあまりにもかけ離れている。


「俺はこれから、舌を抜かれるのか?針山を登るのか?」


 率直な俺の言葉に閻魔は一瞬目を点にした。そして体をのけぞり、高らかな笑い声を天井にぶつけた。


「ないないない。」

 閻魔は肩を震わせながら顔の前で手を振る。

「さっきも言ったように、君の現世の記憶は今ないんだよ。罪を犯したのは''現世の君''で、今の君に罪はない。身体はまだ現世のままだけどね。君は今転生する準備の段階なんだ。転生先が見つかれば君の身体も記憶も完全にリセットされる。」


「あの地獄のイメージは嘘だったのか?じゃあなぜ天国と地獄に分ける必要があるんだ?」


「現世では地獄を拷問で血の海の世界として描かれるようにしてるんだ。そしたら少しでもここに来る奴が減るだろ?それに、あんな惨いことしたって転生する時には結局全部リセットするのだから反省も後悔もクソもない。無意味なのさ。」


 閻魔は広げていたノートをぱたんと閉じる。表紙には閻魔帳と書かれていた。


「天国では記憶に鍵は掛けられない。現世の記憶を持ったままなんだ。だから家族が天国に居れば会うことが出来る。ここが大きな違いだろうね。そして天国の人はいつまでもそこにいていいし、好きなタイミングで転生が出来る。反対に地獄に来るやつは人間の失敗作で、転生先が見つかればすぐにリセットされてまた新しい人生を始めてもらうんだ。再出荷。」


「じゃあ俺もすぐに転生するんだな。」


 俺の一言に、閻魔は足を組み替える。気がつくと閻魔の顔は神妙なものになっている。


「そこでなんだけど。君に少し、いや、結構な頼み事があるんだ。」


「頼み事?」


「まあ詳しくはまた今度。メンバーが揃ったらここに呼ぶね。それまでこの地獄を楽しんできてよ。」


 閻魔は手元のボタンを押す。すると俺の足元に黒い穴が開く。間もなく俺はその穴に吸い込まれていった。

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