第38話 『ホント、バカだ……あたしは』
あたしにとって世界はまるで物語の中の世界のように遠く、現実感のないものに感じていた。
海辺から感じる潮風。波の音と、潮の匂いが世界の広さを物語る見渡す限りの水平線。
色とりどりに咲き誇る花畑。蝶が舞い、涼やかな風に揺れる花から香る甘い匂い。
見上げれば広がる満天の星空。その星々は、未だ誰も届いたことのない未知の輝き。様々な神秘がそこにはある。
聞こえのは楽しげな笑い声。奇想天外なアトラクションが人の心を踊らせる。まるでお伽噺みたいな世界。
そのどれもがあたしは知らない。
写真で見ることしか出来なくて、ただそんな物が存在するという事実だけを知っている。
あたしは知っているだけ。ただそれだけ。
百聞は一見に如かず。
まさにその通りだと思う。
人の記憶は五感ととてもリンクしている。
自らの目で、鼻で、口で、耳で、肌で感じることで、記憶は鮮明に、より深く刻まれる。
だからこそ、あたしはこの五感全てで世界を知りたかった。
あたしの身体に刻みたかった。
だけど、あたしには無理。
出来ることといえば、ページを捲り、狭い世界の中で思い耽るだけ。
それだけなんだ。
頼那くんはあたしの部屋にあった旅行雑誌を見たと口にした。なら、あたしがバカみたいに書き込んだ文字だって見たんだろう。
出来もしない夢物語を文字にして書き記す。それがどれだけ愚かで、滑稽なことなのかは自分自身が一番理解している。
別に見られたからといって、何かある訳じゃない。頼那くんはあたしが外の世界に憧れていることを知っている。
諦め混じりで語ったあたしの言葉を彼は聞いているのだから。
それでも幼い頃にただ無邪気に書いたあれを見られたのは……少し気恥ずかしかった。
身体は熱を持ったように熱くなる。視線は彼から逸れて、あたしは自分の靴を眺める。
まるで心臓の鼓動が身体の内側から響き渡るかのように、あたしの身体を熱くする。
明確に自分が今、動揺していることが理解できた。
「沙知……ごめん」
そんなあたしを見かねてか、頼那くんは声を掛けると、謝罪を口にしてきた。
そんな彼の言葉を聞いて、視線を少しだけ上げる。すると彼は申し訳なさそうな顔をしていた。
「ホント、何勝手に見てるんだか……もしかしてあたしのエッチな写真でも探してた?」
あたしはあえて茶化すように言葉を口にする。少しでもこの身体の熱さを冷ますように。
別にあたしは怒ってもいないし、見られたこと事態は気にもしていない。
「そんなわけないでしょ」
すると、頼那くんは呆れたような口調で否定する。その顔を見てあたしは思わずクスッと小さな笑みを溢す。
「冗談だよ、別に怒ってもいないし」
あたしがそう言うと、彼は少しだけ安心したような表情を浮かべる。それから彼は小さく息を吐いた。
「沙知がその旅行というか……どこかに出掛けたいって知って僕は君を映画に誘ったんだ」
「そうなんだ……」
あたしは彼から理由を聞いて納得した。あたしには長距離の旅行なんて無理だ。
だから、こうして移動が少なくて、身体に負担の少ない映画を選んだ。
合理的で現実的な判断。あたしの欲求を満たしつつ、頼那くんはあたしとデートをしたい両者の願いを叶える。
「うんうん、確かにそれなら納得できるね……けど……」
「けど?」
あたしはそこで言葉を区切ると、彼の目を真っ直ぐに見つめる。そして彼にこう告げた。
「それって頼那くんの手間と労力には見合わないよ」
彼の気持ちは嬉しいし、映画に誘われたことも嬉しかった。だけど、それはあたしにとってどうしても都合が良すぎるものだった。
あまりにも不釣り合い。
「あたしにとって、出掛けることはもうテンションがマックスになるくらいのことだよ、だけど、頼那くんは違うでしょ?」
彼にとって出掛けることなんて、何も気兼ねなくできるもの。好きなときに一人だって、何人だって自由に出掛けられる。
ただの当たり前の日常でしか無いから。映画だって別にあたしじゃなくても他の人とだって行ける。
なら、面倒この上ないあたしと行くよりも手間と労力は掛からない。
こんないつ体調を崩すか分からなくて、まともに歩けもしないあたしなんかとじゃなくて。
「あたしのこと好きだからって、あたしが喜ぶことをして、頼那くんに何の価値があるの?」
あたしは冷静に淡々と自分の思ったことを、彼に投げかける。
別に意地悪でこんなことを言っている訳じゃない。ただ純粋に疑問に思ったから聞いているだけ。
彼があたしとしようとしていたデートいうものに、一体どんな価値が有るのかあたしには分からない。
あたしの目から見て、彼にとって何も得がないように思えるから。
そんなあたしの質問に頼那くんはフッと笑みを浮かべる。なぜ彼がそんな表情を浮かべたのかあたしには理解できなかった。
「価値か……」
彼は少しだけ考え混むようにそう呟いた。
それから彼の表情は真面目なものに変わる。そしてあたしの目をジッと見つめる。
あたしはそんな彼の真っ直ぐな瞳をそのまま見つめ返す。
「僕が沙知と一緒にしたいからかな」
「えっ?」
彼の言葉の意味が理解できず、あたしは思わず聞き返すように声を上げた。
そんなあたしを他所に頼那くんは真っ直ぐに、だけど優しい声色で理由を語る。
「僕は沙知のことが好きだから、沙知と一緒に過ごすのは僕にとっても嬉しいことだし、それにさ」
そこで言葉を区切ると、彼は小さく笑みを浮かべる。
「前に、沙知は聞いてきたよね、友だちと恋人の違いってなにって?」
「確かに聞いたけど、それがどうしたの?」
確かに少し前に頼那くんは聞いた。頼那くんと恋人同士になってみたものの、いまいちその違いが分からなかったから。
その時は彼はあたしの質問に答えられなかった。彼もまたあたしと同じで、恋人と友だちの明確な違いを知らなかったから。
「あのときは答えられなかったけど、今日、沙知とデートをしてみてなんとなく僕なりの答えができた」
「えっ? ホント?」
あたしの言葉に頼那くんは深く頷く。そんな彼の姿にあたしは固唾を呑みながら、彼の言葉の続きを待つ。
「友だちと恋人の違いって、どれだけ相手と共有したいことが多いかってことじゃないかなって」
「共有したいこと?」
頼那くんの言葉にあたしは思わず聞き返す。
「うん、別に映画に行くにしたって、ご飯行くにしたって誰と行っても同じことはできるのは事実」
確かにそれはそう。誰と行っても同じこと、同じことなら友だちでも恋人でもできる。
「だけど、そうじゃなくて何をしたいかじゃなくて、誰としたいかの違いがあると思うんだ」
「誰としたい?」
あたしの言葉に頼那くんは頷く。そして彼は真っ直ぐにあたしの目を見つめる。
「沙知と一緒に映画館まで向かって、一緒に映画を観る、それからこうしてカフェでゆっくりする、別になんてことないこと」
そう。普通に一緒に過ごしているだけで、別に特別なことをしている訳じゃない。
ただ友だちとでも同じようにできること。
「だけど、ここに来るまで何を話したか、何の映画を観たか、カフェで何を飲んだかって僕と沙知しか知らないでしょ」
「そんなの当然でしょ、だってあたしと頼那くんしかここにいないんだから」
「うん、そう、今日僕たちが一緒に映画に行ったことは僕たちだけしか共有できないこと」
頼那くんが言っていることはごく当たり前のこと。あたしと頼那くんしかいないから、他の誰もその情報を知ることはない。
仮にあたしか頼那くんが他人に今日のことを話したところで、今日したことを正確に相手に伝わる訳じゃない。
人間は実際に体験していないこと、見ていないものを完全に理解することは不可能だから。
「一緒の景色を見て、一緒の時間を過ごして、一緒の思い出を作る、そういったことを一番多くしたい相手が恋人なんじゃないかって思うんだ」
「そっか……なるほどね……優先順位の違いか……」
友だちと恋人の一番の違い。
それは多くの経験を一番多く共有したい相手が誰かの違い。
心理的に人は他者に共感や理解を求める性質がある。
頼那くんの言ったように同じ物事を体験することで人は他者との共有を図ろうとする。
相手が何を感じ、何を見て何を思い、何を感じたのか。
その共感と理解を他者に求め、人は人との繋がりを求める。
その上で一番の繋がりを持ちたいのが恋人。
同じ時間を過ごして、同じ物事を共有したいと思える相手。
だから、頼那くんにとってあたしはその誰よりも共有したい存在だということ。
「そう……だから、頼那くんは、あたしが面倒で手間の掛かる人でも一緒に出掛けたいって思ったんだ」
頼那くんの考えにあたしは納得した。彼の中であたしの存在は他の誰よりも優先順位が高い。
なら、あたしはどうだろう。あたしにとって、彼の優先順位は一体どのくらいだろう。
考えるまでもない。あたしにとって頼那くんの優先順位はかなり低い。
それは今日のデートが全てを物語っている。
あたしは彼と一緒に出掛けることよりも映画に行けることが楽しみだった。
あたしの人生で唯一、外で出掛けたことのある場所。
もう二度と叶うことの無い家族四人で行った最初で最後の思い出。
それがあたしにとっての映画館という場所。
そんな場所にもう一度足を運べる。あたしの中の人生で、一番楽しかった思い出のある場所に行けるというワクワク感しかなかった。
だから、頼那くんと行ったから楽しいという思考や感情は一切なかった。
あくまでも頼那くんはあたしを映画館に連れていってくれた人。そんなくらいの認識。
そもそも人との繋がりが薄いあたしに、他人と共有したい、他人を知りたいという欲求が極端に少ない。
別に一人で好きなことをして、面白いものを見つけたらただそれを突き詰めていく。
今までそうしてきたから。それで満足してきたから。
例外があるとすれば、お姉ちゃんくらい。
あたしにとっての唯一の存在。明確に他者とは切り分けている存在。
もしも仮に、あたしが二人のどちらかを優先しなければならない状況になった場合、確実にあたしはお姉ちゃんを選ぶ。
それくらい、あたしとってお姉ちゃんの優先順位は高い。
そんなあたしと居て、彼は──。
「うん、沙知とだから色んなところに行きたいって思うし、色んなことを経験したい、そのためだったら例え遠回りでも苦にはならない」
あたしが思考する前に、頼那くんは力強く、はっきりとそうあたしに向かって言ってきた。
優しそうな笑みを浮かべながらあたしを真っ直ぐ見つめて。
その笑みは何一つとして偽りのない純粋な笑み。
本当にあたしと一緒に色んなことをしたい。
どんな些細なことでも共有したい。
そう思っているんだと実感できるほどの眩しいものだった。
そんな彼の表情をあたしは目を離すことができなくなった。
何でかは分からない。けど、あたしは彼の表情に釘付けになっていた。この顔を覚えていたいって思ったから。
彼の表情を見つめていると、不意に、なぜかあたしの心臓はドクン、ドクンと高鳴る。身体も少し熱を持つ。
あたしは思わず、自分の胸を押さえるように手を当てた。
この感覚は一体何なんだろう。
そんな疑問があたしの頭の中を駆け巡る中、頼那くんは再び口を開いた。
「沙知……?」
あたしの反応に頼那くんは首を傾げる。どうやら、彼はあたしが呆然と見つめているのを不思議に思ったらしい。
「あぁ……」
彼の言葉であたしはハッと我に帰る。そして、慌てて視線を逸らすと、残っていたコーヒーをゴクゴクと飲み干した。
コーヒーを飲んでも、あたしの身体の火照りは治まらない。
むしろ更に熱を帯てるようにさえ感じた。
どうしてか分からない。彼の表情を見てから、あたしはずっとこんな感じだ。
「頼那くんは……今度あたしがどこか出掛けたいってお願いしたら、どうする?」
自分のこの謎の症状を治す術はないと判断したあたしは、話しながら落ち着くのを待とうと考えた。
きっと、この症状が何なのか彼に聞いたところで分かるはずもないし。
そんな思惑でした質問に頼那くんは、特に迷いもせずに即答で答えた。
「もちろん君を連れていくよ」
それは、まるで、当たり前みたいな表情と言葉。
「どんなに時間が掛かったって、どんなに遠回りになったとしても沙知が行きたいって言った場所に連れていく」
別に無理をして言っている感じはしない。どこまでも純粋にそう思っている言葉。
どうしてそこまでするのか、あたしなんかの為にどうしてそこまで言ってくれるのか。
理解できないでいると、頼那くんはさらに言葉を続けた。
「僕は沙知といっぱい色んなことをしたい、沙知と色んな経験をして、色んな思い出を作りたい」
真っ直ぐな瞳でそう告げる彼の表情は真剣そのもの。あたしなんかのためにそこまでしてくれるのかと疑ってしまうほど。
「だから、沙知がどこかに行きたいって言うなら僕は喜んで付き合うし、絶対に連れていくよ」
どうして……そんなに……。
あたしは彼の言葉にそう思わずにはいられない。
だって、あたしなんかの為にどうしてそこまでしてくれるの? あたしは何も頼那くんにしてない。ただ一方的に利用しているだけなのに。
そんなあたしに何のメリットもないはずなのに……それでもなんで……彼はここまで言い切れるんだろう。
なんでそんなことを言ってくれるんだろう。
混乱する頭を落ち着かせようと、無意識に髪に手を触れた。すると、指先にコツと、固い感触のものが触れる。
指先に当たったものの正体にあたしはすぐに思い当たる。
それは、頼那くんがあたしにプレゼントしてくれたキリンのヘアピンだった。
「あっ……」
思わず、小さく声が漏れた。そしてあたしはそのヘアピンにそっと触れる。
このヘアピンは彼があたしを想ってくれた証。
その感触に触れていると、彼がこれをプレゼントとしてくれた日を、彼があたしに告白をしてくれた日を思い出す。
『僕は沙知とは別れるつもりがないし……沙知とずっと一緒に居たいから』
『佐城沙知さん、僕はあなたのことが好きです』
そんな彼の言葉があたしの記憶に鮮明に思い出させる。
「あぁ……そっか……」
あたしは何でこんなにも彼があたしと一緒に居たいと言ってくれるのか、ようやく理解する。
彼があたしのこと本当に好きだから。
あたしが無茶振りして、それがどんなに困難でも、彼はバカみたいに、ただひたすらに真っ直ぐにやり遂げようと努力する。
そんなこと知っていたはずだ。だから、あたしは彼と付き合ってもいい。彼と恋を知りたいと、そう思ったはずなのに。
あたしはまだちゃんと彼のことを見ていなかった。彼の気持ちも、彼がどんな人間なのかも、何も見ていなかった。
ちゃんと知ろうとしていなかった。
ホント、バカだ……あたしは。
あたしは自分の愚かさに思わず、笑いが溢れる。
「沙知?」
そんなあたしの反応に頼那くんは首を傾げる。
「いや、何でもないよ……うん」
そう言って、あたしは小さく首を振るとその場から立ち上がった。
「どうしたの? 沙知」
あたしの行動に頼那くんは驚いた表情を浮かべる。急に立ち上がったから、彼がそんな反応をするのも無理はない。
「うん……頼那くん……ちょっと一緒に来て欲しい場所があるんだけど……いいかな?」
あたしは真っ直ぐ彼の目を見つめてそうお願いすると、彼は笑みを浮かべてすぐに立ち上がってくれた。
「うん、もちろんいいよ」
そう言って彼もまた席から立ち上がる。
そしてあたしと頼那くんは店員さんに会計を済ませるとそのままカフェを出た。
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