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「それじゃあ、お部屋に案内するわね。仁科さんには、お風呂掃除とか買い出しとか、力仕事を主にお願いすると思うけど、それは明日からで。今日はゆっくり休んで下さいな」

「ありがとうございます」


「テレビで見るのとかなり印象が違ったから、最初は分からなかったわぁ」

「テレビに出る時は、もう少し小綺麗こぎれいな格好をさせられますから。ひげっているし」


 実際、この髭面の薄汚れた男を見て、よく居候させる気になったと思う。


「そうね。でも、今だってとっても良いと思うわ。髭は少し剃った方が良いかもしれないけど……ここですよ」


 通されたのは、小さいけれど風通しの良い日の当たる、想像よりもずっと素敵な部屋だった。


「良い部屋だ」

「ふふ、ゆっくりしてね」


 私の呟きに嬉しそうに笑うと、智子さんは静かにふすまを閉めて出て行った。

普通ならここで一息吐いて荷解にほどきを始めるのだろうが、生憎私には荷物と呼べるものが殆どなかった。


 日本に来るまでは、本当に着の身着のまま、アナログカメラ一本で生きてきた。その日食べるものは、その日に調達して、フィルムを買う金さえあれば良かった。

 溜まってしまった撮り終わりのフィルムは、世界中で知り合った友人の元に送りつけて、取って置いてもらえば事足りた。彼らは私の写真を好きになってくれた人たちだから、喜んで手元にフィルムを置いてくれたし、気に入れば現像して飾っているようだった。


 デジタルカメラを買ったのは、日本に来てからだ。電池やら電気やらの消耗が激しいデジタルは、はっきり言って先進国以外では使いにくい。不便だ。

 アナログカメラに利用する電池くらいなら間に合うが、あまり沢山の電池を持ち歩くには重いしカネがかかる。





 何より、昨今はいくらインフラが整備されてきたとは言え、砂漠のど真ん中に電気が通っているはずもなく、それもカメラなんて言う生命維持活動に不必要なもののためにく電力など存在しない。電気がなければ、デジタルはただのゴミだ。

 でも、この国は電気であふれている。目が痛いくらいの煌々こうこうとした都会。田舎の方でも、電気が足りなくて停電なんていう話は災害の時でもなければ耳にしない。


 夜でも明かりが絶やされることはなく、むしろ人工で彩られた極彩色の街は、昼間よりも眩しいような気がした。

 かばんの中にしまいこんであるデジタルカメラを取り出して、ボタンを押して起動させてみる。軽やかな電子音と共にディスプレイが光った。


 画面をスクロールしていくと、過去にさかのぼって今までに訪れた各地の写真が鮮やかな記憶と共に蘇る。便利な機械だ、と思う。

 デジタルに、アナログは勝てない。この言葉が通念として浸透してから、大分時が経つらしい。一目見て、その言葉に抗う馬鹿馬鹿しさを悟った。


 便利なものは、意地を張らずに利用すれば良い。事実、大量のフィルムを用意しなくていいし、それこそ色々と調整の効く点は非常に気に入った。

 ただ、日本のような国でなければ使えないのは確かだ。それなら、この国のどこか誰かのところに置いて出れば良いだけだ。誰かの役に立つなら、それで良い。


 写真だって同じことだ。押し入れに、物置きにしまっておくくらいなら、手にとって見る価値のないものなら、捨ててしまった方がまだマシだ。

 だから、写真を預けたり贈ったりする人たちには、決まって「必要なくなったら捨ててくれ」と言ってある。


 次に訪れた時、彼らがまだ写真を気に入って取って置いてくれているなら、きっとその写真にはそれだけの価値があるのだろう。

 捨てるかもしくは存在すら忘れてしまうような写真だったなら、それはそれだけの価値しかなかったのだろう。


 それはきっと、私の切り取った世界が美しくなかったワケではなく、私の切り取り方が下手くそだったということだ。






 正直、デジタルかアナログかという論争には興味もないし、その時使えるものを使えば良いと思っている。

 世界があって、私があって、カメラはその仲立ちをしてくれるだけだ。写真の出来のしを、カメラのせいにするのは恥のように感じる。


 この国特有の畳の上に寝転んで、深く息を吸い込む。胸に満たされるこの不思議な香りは『いぐさ』と言うのだと誰かが言っていた。

 どことなく落ち着くような、懐かしいような、そんな匂いだ。彼からも、こんな風な不思議な懐かしさを感じた。


 いや、少し違う。彼からは、安心も落ち着きも何もかもが抜けていた。あの世界の静止したような瞬間に、背中を駆け上る高揚感があった。


『帰って来た』と。


 どこに、だろう。遠い砂漠の国で。冬将軍の支配し続ける国で。灼熱の太陽と蜃気楼しんきろうの揺らめく国で。見えない国境線の引かれた海の上で。

 取りかれたように、熱に浮かされたように、それこそ寝食すら忘れるような興奮と使命感だけが私をき動かす瞬間。


 その片鱗を、確かにあの青年の、セナの中に感じていた。


 それを認めた瞬間、先程まで私の中を渦巻いていた、得体の知れないものに対する不安や疑念のようなものが、あっさりと静まった。


 嘘のように。嵐の後の、カラリと晴れ渡るなぎの海のように。船の残骸と、折れたマストだけを残して。


 島は、見つけた。この祖国で、ようやく見つけた。


 後は渡るだけだ。そこに何が待っているのかは未知数だけれど、いつだって何があるのかなんて知らないままに、道があるから歩いてきた。今回も、そうするだけだ。



 私はそもそも、難しいことを考えることが苦手だ。この国に来てから、その難しいことを求められるから、必死に演じていただけだ。


 そろそろ本来の自分を思い出しても良いはずだ。私は仁科克幸。ただの写真家で、本能的に写真を撮る以外のことは何もできない生き物だ。それで、いいんだ。



 偽物の『私』を望む人たちは、もういない。そこから逃げるために、元の世界に帰るために旅を始めた。『ターザン』は、もう沢山だ。


 そう自分に言い聞かせると、気持ちが大分ラクになった。カメラを抱き締めたまま、陽だまりの中で泥のように眠った。







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