第19話 白の騎士 2

 ゆがみから現れた新たな刺客は、輝くような純白の板金鎧に、仮面ではなく兜を被っていた。顔の部分は鼻すじを覆っているだけで、すっきりとした顎の輪郭と、固く引き結んだ唇が露出している。

 兜の下に覗いている瞳は磨き上げられたような純金の色で、端正な美貌の青年に見えるが、華やかな外見には似つかわしくない、凍てつくように冷たい、鋭い刃物のような雰囲気をまとっていた。

 抜き身の剣を下げた新たな刺客は、白いマントをひるがえして踏み出した。マントの裏打ちは漆黒で、ひどく不吉な印象を与える。


 金色で描かれた胸部の不可思議な紋様は倒れている帝国の幽鬼の仮面と同じなので、新たな刺客も帝国の幽鬼だと思われるが、その存在感と放たれる圧力は、黒い鎧の傀儡とは比べ物にならない。

 あきらかな理性を帯びた冷酷な眼差しが、突き刺すような意思を持ってヴィラードを捉えている。


「……また派手なのが出てきたな」


 軽口とは裏腹に、ヴィラードは体中がふるい立つような感覚を覚えた。

 鼓動が強くなり、体が熱くなる。反対に頭は冴えわたって五感が研ぎ澄まされていく。戦士としての本能が、速やかに戦いの準備を始めていた。


(こいつは、恐ろしく手練れだ)


 久しぶりの感覚に血がふつふつと沸き立つ。


「似てないが黒い奴らのお仲間か?」


 ヴィラードの問いかけに答えることなく、地に伏した黒い鎧を一瞥もせずに通り過ぎた白い刺客が、右手に下げた剣を少し持ち上げたように見えた。

 次の瞬間、眼前に白刃の閃きが現れる。


 ガガッ――!


 無意識に体が動いて、迎え打った刃から火花が散った。

 重い衝撃で靴が地面に沈む。

 凄まじい勢いで打ち振るわれた斬撃を、ヴィラードはかろうじて受け止めることに成功した。すぐ目の前に冷たく光る金貨のような目が迫る。


「――くっ!」


 斬り結んだ一撃は力比べとなり、食いしばった歯の隙間から息が漏れた。優美な見た目に反し、無表情な青年の膂力りょりょくと速度はヴィラードを上回っていた。


「ハァッ!」


 押し潰されそうな圧力を踏みしめた大地で受け止め、腰に力を溜めて渾身の力で薙ぎ払うように刺客を押し返す。白い刺客は逆らうことなく、背後にトンと軽く跳んだ。


 深く地を蹴ったヴィラードが、放たれた矢のように白い刺客に追いすがり、烈火の勢いで鋭い打突を繰り出す。

 白い刺客は空気を切り裂くようなその切っ先に、流れるような動きで己の剣を重ねるように軽く当て、絶妙な力を加えながら、円を描くように柔らかく受け流す。シャランッと涼しげな音を立てて、ヴィラードの攻撃はいなされてしまった。


 すれ違いざま、優雅な足さばきで体を反転させた白い刺客が、ヴィラードの側面上段から横薙ぎに斬撃を一閃させた。

 とっさに身を沈めて一転したヴィラードの頭上を、唸りを上げて刃が過ぎ去る。逃げ遅れた髪の毛が数本、すっぱりと切られて舞った。瞬きほども遅れていたら、髪の毛の代わりにヴィラードの首が宙を舞っていただろう。


 地を回転して距離を取ったヴィラードは立ち上がる。

 首を跳ね損ねた白い刺客が、わずかに目を細めた。不機嫌になったのか、その逆か、判断はつかない。


「帝国の幽鬼と同類だな。恥ずかしがって口を利かないところなんてそっくりだ」


 ヴィラードは軽い調子で続ける。


「剣の腕は段違いだがな。実に見事だ。さぞかし名をせたことだろう。俺にも聞かせてくれないか?」


 これは本心だった。

 帝国の幽鬼は元々タルギーレの騎士だ。六大魔時代には数多くのいくさがあり、今でも語り継がれる英雄譚がある。

 一番有名なのは、六大魔を退しりぞけてタルギーレを滅亡させた、救世の英雄であるサンティーユの王子の物語だ。今現在サンティーユ王国と絶縁状態にある国の子供でさえ、その王子の物語を聞いて育つという。


 タルギーレの呪いである以上、目の前の白い刺客もタルギーレの剣豪か将軍だった可能性が高い。

 端正な美貌に、この剣の腕前であれば、無名で終わるはずがない。いかに血の帝国側の人間であろうと、吟遊詩人の格好の題材になっただろうに、ヴィラードには該当する人物が思い浮かばなかった。


 もしかしたら、タルギーレが六大魔に屈する前の壮絶な死闘で果てたと言われる将軍の一人かもしれない。彼らが討たれたあと、タルギーレは六大魔の軍門に下った。

 その千年王国の終焉と呼ばれた混乱の時期の記録は、ほとんど残っていないということだが、確かタルギーレの鎧が黒になったのも、瞳の色が赤くなったのも、六大魔の支配からだと聞いたことがある。


 せめて名を知りたかったヴィラードの願いもむなしく、白い刺客は無言のまま悠然と向き直る。露払いをするように軽く剣を振る仕草を見て、問いかけに答える気はないと悟った。


「やはり恥ずかしがり屋のようだな」


 ヴィラードは軽口を叩きながら、口に出した言葉とはかけ離れた事を考える。


(かつて殺された五人の騎士は、こいつにやられたのか?)


 確かな腕前の騎士たちが、たった一人に討ち取られたとは驚きだが、実際に斬り結んだ手応えから恐らくそうだろうという確信があった。


 ヴィラードは使い込んだ愛剣を握り直した。


(だとすると、なかなか厳しい状況だ)


 殺された五人の騎士の腕についてはヴィラードもよく憶えている。いずれも生半可な遣い手ではなかった。

 目の前にいるのはその騎士たちが敵わなかった相手で、しかも斬られても簡単には死なない魔物の体を持ち、話し合いは通じそうにもない。


 ヴィラードも長く騎士団に在籍し、斬り込み部隊という最前線で死線をくぐり抜けて来た。

 敵味方問わず武勇に秀でた者に出会い、命を賭けたやり取りをしてきたが、その中でもこの白い刺客は群を抜いて別格だ。先ほどの推測が正しければ、相手は数百年という気の遠くなるような時を戦い続けているかもしれない存在だ。

 衰えぬ肉体で、ひたすら戦いを積み重ね続けて来たとしたら、目の前の非常識な強さになれるのかもしれない。


 化け物のような存在と対峙している状況は、分が悪いと言っていいだろう。

 しかし、レンフィックの冒険者ギルドのおさとして、気の置けない仲間たちと狙われている環の命を預かっている以上、ヴィラードに敗北は許されない。


 いつの間にか周囲の戦闘は終わっていて、立っている敵は白い刺客のみとなっていた。皆、迂闊に間合いに入れず静まり返っている。


 緊張をはらんだ空気は、電光石火の勢いで飛び出した白い刺客の鋭い斬撃によって破られた。

 初手と同じように突撃を予測していたヴィラードは、紙一重でかわして素早く反撃に移る。

 ヴィラードの連続した激しい斬撃を白い刺客は身をひねって避け、あるいは滑らかに受け流し、あるいは火花を散らして鋭く弾き、舞うような足さばきで巧みに後退したかと思えば、するりと深く静かに伸びた切っ先が首すじをかすめている。


(なんなんだこいつはっ!)


 ヴィラードの体重を乗せた重く速い斬り込みは、白い刺客が迎え打った瞬間に全ての衝撃が消え失せたかのように手応えがなくなる。まるで小枝で水面を叩いているかのようだ。鋭い突きは相手に届く前にくるりと軌道を変えられ、勢いが削がれる。


 ここまで自分の剣が通じない相手は初めてだった。得体の知れない不気味な違和感が募る。白い刺客と己の剣術が根本的なところで異なっているのは感じるが、それがなんなのか掴めない。ただ、一瞬でも気を抜いた瞬間に、命を取られるだろうことは肌で感じられる。


 数十合と打ち合い続けた両者だが、全身から汗を流し、髪の毛の先から雫をしたたらせるヴィラードに対し、白い刺客は現れた時と同じように涼しい顔をしていた。


(これ以上、長引かせることは出来ない)


 体力に制限のない魔物が相手だ。時間をかけるほど、生身のヴィラードは体力が失われる。

 通常の敵では問題にならない程度でも、この白い刺客相手では致命的になる。追い詰められたヴィラードの集中力が、却って研ぎ澄まされた。


「ハッ!!」


 ヴィラードの苛烈を極めた一撃が、稲妻のような激しさで鋭く白い刺客に襲い掛かる。薙ぎ払うように迎え打った白い刺客だったが、受け流し切れずに互いに弾きあう形となった。衝撃で二人とも後退する。


 ヴィラードの左腕の袖が切れ、血が流れた。構わずに刺客を見据えたヴィラードの目が開かれる。白い刺客の血の気のない頬から、一筋の赤黒い血が流れていた。


「――お前、魔物ではないのか!?」


 魔物は血を流さないはずだ。少なくともヴィラードの知識ではそうだった。


 何も答えずに頬に手を当て、ガントレットの先に付いた血を見た白い刺客が、初めて表情を変化させた。口元を歪めてかすかに笑ったのだ。

 すっとヴィラードに流した目の色が深くなり、凍てつくような圧力が凄みを増す。


 ヴィラードは剣の柄を握りしめて、不気味さを増した白い刺客に向き合った。


(この野郎、今までは本気を出してなかったな!)


 恐ろしいほどの圧力に、ぶわりと体中の毛穴が開くような気がした。最大級の警戒をする先で、白い刺客はゆったりと直立し、力を抜いた腕に持った剣先が下を向く。

 ヴィラードの目には白い刺客の重心が、やや後ろに傾いたように見えた。


 ふっ、と白い刺客の姿が消えた。


「――ぐぅっ!!」


 右の脇腹を衝撃が突き抜けてヴィラードは呻いた。目に見えない速さで白い刺客に斬り付けられたのだ。


 いや、目には見えていた。

 白い刺客が地を蹴るのも、無表情に剣を打ち振るう姿も目には映っていた。ただ、脳がそうと認識するよりも速かっただけだ。

 無意識に体が動いて、わずかに体をひねることが出来たおかげで、胴体は真っ二つにならないですんだ。


 遅れて来た灼熱の激痛に襲われ、踏ん張りがきかず片膝を落とす。左手で押さえた傷口から血があふれて、たちまち下半身を血で染めていく。


『ヴィラードさんっ!!』


 くぐもった環の悲鳴が耳に届く。


おさっ!!」


 周囲のギルド員がざわついた。


(くそっ、内臓までいったか……?)


 狂ったように脈打つ心臓の音がうるさい。荒くなる息を抑えて歯を食いしばるヴィラードの前に、白い刺客が立ちふさがった。

 にらみ上げたヴィラードの真上に、無表情のまま剣を振り上げる。


(……俺は、負けるわけにはいかない!)


 指から転げ落ちそうになっていた柄を強く握り込む。


『白の騎士っ! やめなさいっ!』


 バンッ! と窓を叩きつける音と共に、凛とした環の声が明瞭に響く。


(駄目だ、窓を開けるな……気取けどられる……)


 ギムレストが幾重にも重ねた結界が環の部屋には掛かっている。魔物には部屋の存在自体が認識しづらくなっているが、内部から窓を開けてしまえば目隠しの効果は無効になってしまう。


『その人たちに手を出さないでっ! 狙いは私でしょっ!!』


 切迫した環の鋭い声は、ヴィラードには今にも泣きだしそうに聞こえた。


 剣を振り上げたままで環を仰いだ白い刺客が重い衝撃に揺れる。

 低い姿勢から体ごとぶつかるような勢いで突き上げたヴィラードの剣が、白い刺客の腹部に刺さっていた。


「うおおおおっ!!」


 渾身の力を込めて押し込み、背中まで刺し貫く。

 右脇腹の傷口から勢いよく血が噴き出して、ぼたぼたと草を汚した。

 勢いに押された白い刺客が、わずかに後退する。

 ヴィラードは脂汗を浮かべた顔を上げて壮絶に笑った。


「はっ! これであいこだな――」


 しかし、すぐに足を止めた白い刺客が、冷静に眼下のがら空きになったヴィラードの背中に剣を打ち下ろす。


 ガンッ――!


 その切っ先がヴィラードに届く前に、横から滑り込んできた剣が強く弾いた。

 白い刺客が背後に軽く跳躍する。引っ張られる形になったヴィラードは、柄を手放してその場に膝をついた。


「次は俺と遊んでもらえねえか?」


 ヴィラードと白い刺客の間に、剣を弾いたボージェスが割り込んだ。カイラムとランスヴィーヴルは、白い刺客を左右から挟むように位置取っている。

 真横に駆け寄ってきたマグフィリーがヴィラードの傷口を強く押さえ、待機組のガスティンから受け取ったポーションをかけ流し始めた。


 腹にヴィラードの剣を生やしたまま顔色一つ変えない白い刺客は、ヴィラードたちを静かに見回し、環のいる三階を仰ぎ見る。

 そして剣を振ってヴィラードをえぐった血を振り払うと、静かに身をひるがえして陽炎かげろうのようなくらゆがみの中に消えていった。


 小さくなったゆがみが消えて、空の色が元に戻ると同時に誰からともなくため息が漏れた。


「今担架が来ますからぁ、少し我慢してくださいねぇ。ガスティン君、ちょっと代わってくださぁい」


 独特のねっとりとした喋りでマグフィリーが言い、ガスティンがかけ流し係を引き継いだ。毒々しい緑色をしたポーションの効果は絶大で、まず痛みが引いていく。


 もう一本のポーションを取り出したマグフィリーが、栓を抜いた瓶をヴィラードの口に突っ込んだ。


「うぐっ! ごほっ!」


 マグフィリーは、むせるヴィラードの後頭部を押さえながらポーションの瓶を傾けて、有無を言わせず飲ませようとする。


「ごふっ! ぐっ!」

おさぁ、子供じゃあないんですから、大人しく飲んでくださいねぇ。そうしないと出血多量で死にますよぅ」


 わがままな子供を見るような目をするマグフィリーを、ヴィラードはなんとか押しのけてせき込む。


おさっ! 大丈夫っすか?」


 駆け寄ってきたカイラムが背中を支えて、さすってくれた。


「ああ、ごほっ、マグフィリーに殺されるかと思ったが、ごほっ、だ、大丈夫だ、ごほぐほっ!」

「肝臓がやられてますからぁ、大丈夫じゃあないですねぇ。さぁ、いい子ですから、落ち着いたならもう一度飲みましょうねぇ」

「ま、待ってくれ……」

「待てませぇん。ウチの息子より聞きわけが悪いですねぇ」


 またもやマグフィリーに瓶を突っ込まれ、ガチンと歯に当たる音がした。


「うぐっ!」


 ヴィラードはくぐもった呻き声を上げながら、飲むたびに二度と飲みたくないと思う、ひどい味のポーションを嚥下えんげする。


「ぶはっ!」


 飲み干して解放され、途端に目の回るような眠気に襲われて、ぐったりと寝転んだ。一番効き目の良いポーションは一番ひどい味で、そして回復を邪魔しないための眠気に見舞われる。暗くなり始めた空に星が瞬いているのが見えた。


「ザイナブ君、ロッツ君、もういいですよぉ」

「はいっす」

「うわあ、ひどいなぁ」


 担架を取りに行っていた残りの待機組のザイナブとロッツが、ぐんにゃりとしているヴィラードを手際よく担架に乗せて立ち上がる。


 運ばれながらヴィラードは必死に頭を動かし、環の部屋の窓が閉まっているのを確認して、持ち上げた頭を下ろした。マディリエが引き戻してくれたのだろう。


(なんとか、しのげたな……)


 なんとなく、今夜はもう白い刺客は来ない気がする。目を開けていられなくなったヴィラードは深い眠りに落ちた。


==========================


 意識を取り戻したときには、ヴィラードは執務室の隣部屋の、自室のベッドに寝かされていた。廊下が少し騒がしい。それが原因でどうやら目覚めたようだ。

 目を開くのも億劫で、引き込まれそうな眠気に身を任せようとしていると、扉が開く音がした。


「ほらね、大丈夫だから安心なさいよ」

『ヴィラードさん……』


 マディリエと環の声がした。廊下の声がはっきりと聞こえる。


「おい、マディリエ、俺も入れろよ」

「うるさいわね、黙れって言ってるでしょうが」


 パタンと扉が閉じて、マディリエとオックスが言いあう声が小さくなった。

 薄く目を開けると、扉の近くでローブを目深に被った環が一人で立っていた。素早く手元をいじった環が、フードを後ろに落としてベッドの横に膝をつく。気の毒なくらい白い顔の中で、今にも死にそうなほど追い詰められた顔をしていた。


「ごめんなさい、ヴィラードさん。私のせいでひどい目に遭わせて、本当にごめんなさい」


 ぼうっとしているヴィラードには、涙声で謝る環の言葉が理解できることを疑問に思う余裕はなかった。


(泣くなタマキ、泣かないでいいんだ……)


 自分のものとは思えないほど舌が重くて、ひたすら謝り続ける環に言葉を伝えられない。ヴィラードは鉛を流し込まれたかのように重たい指をなんとか動かして、ベッドに頭を伏せる環の髪を指先で撫でた。はっと頭を上げた環の泣きそうな瞳と視線が絡まる。


 環が細く冷えた手でヴィラードの手をそっと取り、額に押しいただく。祈るように伏せたまつ毛を伝って、涙がこぼれ落ちた。


「ごめんなさい。昨夜の内に離れればよかった……。私、私が保身に走って……決断が遅くなって……。そのせいで……」


 震える声は、まるで懺悔のようだ。


(いいんだ、頼ってくれていいんだ。自分を責めるな……。何度でも守らせてくれ……)


 再び眠気が押し寄せてきて、話せないのがもどかしい。


 環が顔を上げて、悲しい顔で微笑んだ。


「本当にお世話になりました。何もお礼が出来ずにごめんなさい」


 そしてもう一度ヴィラードの手に額を寄せて呟く。


「心から、あなたの回復を祈ります。白の騎士はもう現れませんから、どうか、元気になって……」


 別離の言葉を理解したヴィラードは、指の先に力を入れて環の手を握った。驚いたように顔を上げた環と見つめあう。

 ヴィラードの瞳に浮かぶ意思を汲み取った環は笑った。芯の強さを感じさせる優しい顔だった。


(そんな顔をさせたいんじゃないっ!)


 ヴィラードは体の奥から突き上げるような激情に襲われた。

 この顔は過去に何度も見てきた。致命傷を負ったにも関わらず清々すがすがしいほど晴れやかに笑った戦友。身をていして魔物から我が子を庇った母親が、子供に向けた最期の微笑み。

 迷いがなく凛とした、死を受け入れた顔。

 その記憶が次々によみがえってくる。

 この顔を見るたびに、ヴィラードはおのれの無力さを痛いほど思い知らされた。


 突き動かされるように環の手を強く握ろうとしたが、上手く力を込められない。

 環はそんなヴィラードの手に自分の手を重ね、なだめるように撫でてから、ゆっくり引き抜きベッドの上に戻して立ち上がる。追いすがって伸ばされたヴィラードの手の届かない距離まで離れた環が、出会ってから何回も見てきた親し気な笑顔を浮かべた。


「ヴィラードさん。本当にありがとうございました。いつまでもお元気で。……さようなら」


 そして見たこともないきれいな仕草で、深く深く頭を下げた。


「……い、く……な……」


 ヴィラードは顎に貼り付いたような重い舌を、やっとの思いで動かして必死に引き留める。ゆっくりと頭を上げた環が困ったように微笑んだ。

 そのとき、タイミング悪くマディリエが扉を開けて顔だけを覗かせる。


「まったく、オックスのせいで……。タマキ、気が済んだでしょ? 戻るわよ」


 環が素早く指から何かを引き抜き、フードを深く被る。それから少しだけヴィラードを静かに見つめてきびすを返した。

 いつも余計なことまでよく気がつくマディリエが、この時に限ってヴィラードを一瞥もせずに、うつむく環の方を気にしながら扉を閉めてしまった。


(くそっ! こんな時にっ!)


 無理矢理起き上がろうとして目眩を起こし、倒れ込むようにヴィラードは意識を落とした。


 そして次に目を覚ましたときに、環が姿を消した事を告げられた。

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