第18話 白の騎士 1

 落ち込んでいた環を笑わせることに成功したヴィラードは、隣室にいたマディリエに後を任せて、気分良く一階下の仕事部屋へと帰還した。


 別れ際の環は、どことなくすっきりした顔になっていたし、不安を取り除く目的は大成功と言えよう。

 死人のような顔色になるほど呪いは進行していて体は辛いだろうに、気丈にも不安を見せないように振る舞っていた環に、ヴィラードは心の底から同情していた。


 仕事部屋に入ると、正面の執務用の机がまず目に入る。ヴィラードはそこには向かわず、窓の近くにある応接用のソファにもたれてぐったりしているギムレストに声をかけた。


「喜べギムレスト。タマキが笑ってくれたぞ」


 ギムレストの前の低いテーブルに効果の切れた翻訳のネックレスを置いて、自身は向かい側に二つ並んだ一人掛け用のソファに腰を下ろしながら、意気揚々とヴィラードは告げた。


 ひじ置きに乗せた手で頭を支えていたギムレストが、うつむいていた顔を重たげに動かした。癖のない長い青銀色の髪がさらさらと流れて、青い瞳に影を作る。憂いを帯びた吐息が唇からこぼれて、億劫そうにヴィラードを見上げた。


「それはなによりでした」


 ギムレストはそれだけを言って口をつぐむ。喋るのもやっと、といった風情だ。


(……疲労の色が濃いな。明日の翻訳術は無理か)


 環も認識していたようにギムレストの疲労は深い。原因はヴィラードが頼んだ対応のためだった。


「疲れているところに無理をさせて悪かったな。体調はどうだ?」

「……ご覧の通り、よくありません」

「実は明日も翻訳の魔術を使って欲しかったんだが……」


 ギムレストがすっと青ざめた。


「タマキがそれは気の毒だと言ってな、止めておこうかと思う。彼女は優しいな」

「そうですか、気を遣わせてしまいましたね……」

「その代わりといってはなんだが、俺が行って慰めることにした」


 安堵の息をつこうとしていたギムレストが動きを止める。


おさ、慰めるとは、具体的にどのような方法で……?」


 ヴィラードは上機嫌に笑った。


「手を握ったり側に寄り添うだけなら、翻訳の魔術は必要ないだろう?」


 ギムレストが再びぐったりと顔を手の平に伏せてしまった。


「……おさ、それだけは止めて下さい。お願いです」


 絞り出てきた声には疲労が強くにじんでいる。ヴィラードは不満な表情を浮かべた。


「いい考えだと思ったんだが……」

「今のタマキさんに、これ以上の精神的負担を強いるような行為は避けるべきです」

「ふ、負担だと……?」


 環と打ち解けられた自負のあるヴィラードの顔が引きつる。なんとか体を起こしたギムレストは、言い聞かせるように続けた。


「ただでさえ生贄の呪いで魔物になりかけているのです。不安と恐怖に支配されたら一気に進んでしまいます」

「む……」


 自分が寄り添うことが、環に不安と恐怖を与えると言われたヴィラードは唸った。


「正直なところ、あれだけの速さで浸食が進んでいるのに、未だに正気を保っていること自体が奇跡のようなものです。

 異界の民の体質なのか理由はわかりませんが、せっかく時間が稼げているのですから、僕が作っている結界が完成するまで、なんとか彼女の精神を安定させ続けてください。短い時間だけしかできませんが、翻訳術は続けましょう」


 ギムレストは覚悟を決めた顔で言った。現在ギムレストは、妖精魔法に由来する魔術を使って、妖精王の隠れ家と呼ばれる結界を作り上げている最中だった。


 襲撃のあった夜に、環の呪いが六大魔に対する生贄であり、進行を止める手立てはないことを告げたギムレストは、ヴィラードに二つの選択肢を提示した。


 最初に提示したのは、諦めて環の命を絶つこと。

 すでに環は呪いから逃れられない。このままだと、やがては自我を失った魔物となり果てて人を襲うようになる。もしくは、それより先に帝国の幽鬼に殺されるかのどちらかだ。

 無残に殺される前に、人間であるうちに、ひと思いに安らかな死を与えることが、せめてもの慈悲だと言われた。


 ヴィラードが他の選択肢はないのかと聞くと、小さく息をついてから、二つ目の徹底的にあらがうことを提案した。

 この場合、帝国の幽鬼を退けつつ、呪いの進行を遅らせるか中断させて、あるかわからない解呪の道を探すことになる。

 帝国の幽鬼に狙われ続ければ、いつかギルド員からも犠牲を出す可能性が高まり、仲間であるギルド員と、行きずりに近い環の命をはかりにかけるなら、冷酷なようだが環を見捨てる選択の方が、仲間の命を預かる者としては正しいと言える。


 それでもヴィラードは二つ目の選択肢を選んだ。

 ヴィラードも元騎士だ。必要とあれば非情な判断を下すこともある。

 今回の決断は環を不憫に思う情に流されたというだけではなく、いわば勘ともいうべき部分が、この事態を看過してはならないと告げていたからだった。


 異界からの召喚術に始まり、すでに外見は魔物のようになっている環が正気を保っているなど、今回は常とは異なる出来事が重なっている。

 仮に環を切り捨てたとして、それで万事解決とはならないような、重大なことを見逃すことになりそうな、そんな得体の知れない予感を感じ取っていた。

 第一、タルギーレの事件から手を引くことは冒険者ギルドの名折れだ。


 ヴィラードの決断を一礼して受けたギムレストは、寝る間も惜しんで大量の文献をひっくり返し、かすかな記憶を頼りに妖精王の結界魔法を探し出した。


 それは六大魔時代より前の時代に、妖精王が傾国の美貌とうたわれたタルギーレの姫をさらった時に使った結界らしい。あらゆる魔術の影響を退しりぞけるそうで、古代魔術に秀でたタルギーレの呪いを振り切ったという。


 神殿に仕掛けられた呪いも、掛けたのはタルギーレの魔術師だ。

 今の段階で呪いを一時的にでも止められる可能性があるのは、この魔術だけなのだということだった。上手く呪いの進行が止まれば、帝国の幽鬼も現れなくなるか出現頻度が落ちる。

 隠れ家が完成したら環をそこに入れて魔物化の時間を稼ぎつつ、本腰を入れて呪いの対処に取りかかる予定でいる。


 ちなみに気になって聞いたところ、タルギーレの姫は自力で帰還したそうだ。この結界魔術も、その姫が持ち帰った結界魔法が原型になっているということで、美貌の姫は随分たくましい性分をしていたと思われる。


「また妖精王ですか……」


 と虚ろな目で呟いたギムレストの諦めた姿が忘れられない。

 以前に妖精魔法は大量の魔力を消費すると聞いたことがあるので、そのことを懸念しているのだろうと思われる。ヴィラードにはわからないが、妖精魔法と魔術師が使う魔術には明確な違いがあるらしい。「理論もない妖精魔法と一緒にされては困ります」と語ったときのギムレストの目は据わっていた。


 ここ連日、ギムレストが限界を超えて魔術を行使してることを知っているヴィラードは、少しでも負担を減らしてやろうと思った上での環に寄り添う発言だったのだが、本人から断られた以上、ギムレストの意思を尊重してやらねばならない。


「その隠れ家はあとどれくらいで完成する?」 


 ヴィラードの確認に、ギムレストは考えるように視線を下げた。


「……あと二日でしょうか。最低限ですが機能面では問題ないはずです」

「ということは、帝国の幽鬼を今日と明日の二夜退しりぞければいいわけだな。よし、なんとかなりそうだ」

「呪いが止まるとは断言できないので、タマキさんには言わないでください。落胆させたくありません」

「落胆もまずいか?」


 ギムレストはうなずく。


「駄目ですね。気力を失ったら進行が早まります」

「厄介だな」

「ええ。現状維持が最良です。少しでも笑わせてあげてください」

「任せろ」

「ところで、タマキさんは食事を取れていますか?」

「ああ、食欲はないそうだが、マディリエが無理矢理食べさせている」


 そう聞いたギムレストが忍び笑いをした。


「彼女は頼りになりますね」

「ああ、たいした女だ。……食事を取らせるのも呪いに対抗するためなのか?」

「ええ、空腹のままにしておくと、無意識でも闇の月からエネルギーを取り始めます。つまり、ますます魔物化が進むわけです。食事からエネルギーを得ることは、人間であり続けるために必要です」

「なんというか、あの手この手で呪いを成就させてやろういう執念を感じるな」

「そういうものですから」


 ギムレストがゆっくりと立ち上がった。


「僕は作業に戻ります。明日また来ますので、それまでタマキさんのことを、よろしくお願い致します」


 優雅に一礼したギムレストが、立てかけていた杖を頼りに慎重な足取りで扉の方へ向かう。ヴィラードも立ち上がった。


「負担かけてばかりですまないな」

「いいえ。これもマンネンヒツを得るための試練と思えば、なんてことはありません」

「マンネ……? ああ、あれか……」

「それでは失礼します」

「気をつけて帰れよ」

おさの方こそ、油断なさらないように」

「わかってる」


 ギムレストを見送ったヴィラードは、テーブルを回って直前までギムレストがいた二人掛けのソファに寝そべり、ひじ置きに足を乗せた。

 今打てる手は全て打ってある。帝国の幽鬼が現れる夕方近くまで、寝不足のギムレストには悪いが仮眠を取るつもりでいた。


 帝国の幽鬼の相手は、ヴィラード以外の腕に覚えのある仲間たちで充分対応できているが、襲撃が一晩に一度だけとは限らないし、騎士が五人もやられた前例がある。

 楽観視できない状況が続いているが、襲撃をしのぎ続けたおかげで光明が差し始めてもいる。

 今が正念場だ。

 環を守ると決めた以上、最後まで戦い抜くためにも、休めるときに休んでおくのがヴィラードのやり方だった。


 そして横になって間もなく、ヴィラードは規則正しい寝息を立てていた。


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 夕方になり、裏庭にヴィラードを含めて剣を得意とする五人のギルド員が集まっていた。それぞれに古い知人に頼み込んで借りた魔剣を持たせている。

 魔剣を任せたギルド員は体を伸ばしたり、素振りをして借り物の剣を体になじませたりと、めいめい時間を潰している。三日目ともなれば帝国の幽鬼の対応にも慣れ、その顔に緊張はない。

 最初の襲撃からいるカイラムは四日目で、元気に長い手足を動かして準備していた。


 通用口の辺りには、さらに三人のギルド員が待機している。交代を想定した対応だが出番が必要になったことはなく、暇を持て余してただの応援団と化していた。


 交代要員を含め、彼らにはもちろん報酬が支払われている。

 その費用を回収するという切実な懐事情も、タルギーレの一味を捕えて騎士団に突き出す強い動機であった。


 そうこうしているうちに、やがて空気が変わったのが感じられた。風が止み、空の色が変わる。


(昨日より早いな)


 ヴィラードはそんな感想を抱いた。

 ギルド員も雑談を止めて庭の影に注意を向ける。警戒する先で木陰が膨らみ、黒い騎士の形を取った。そこまでは昨日までと同じだった。

 いつもと違ったのは、その数が十体を数えたことだ。昨日まではせいぜい五体だったというのに、今日は一気に魔剣持ちの倍の数である。


「やる気がみられるじゃねえか。諦めないのは評価してやる」


 縦にも横にも大きい、普段は大剣遣いのボージェスが刺客を褒め、


「待ってたよぅ。我が家の生活費君たちぃ」


粘り強い観察で攻撃を最小回数に抑えて倒す、神経質な顔つきのマグフィリーは両手を広げて歓迎し、


「一対一では敵わないから数で圧倒すると。うん、いい心がけだね。報酬が増えてオレも嬉しいよ」


虫も殺さない柔和な笑顔で、相手を細切れにしてのけるランスヴィーヴルが明るく微笑んだ。


「おおし、今日もやったるぜ!」


 そして、最後のカイラムの気合が戦いの合図となり、あれこれ好き勝手言っていた魔剣持ちが、それぞれ違う方向に飛び出し迎え撃つ。裏庭に剣戟の音が響き渡った。


「油断するなよ!」


 数が多いのでヴィラードも地を蹴りながら声をかける。手近な一体に肉迫し、あっという間に斬り伏せた。


 別の一体に剣を振るいながら、視界の端に待機組が嬉々として参戦するのを認めた。倒せなくとも、魔剣持ちの手が空くまで足止めするつもりだろう。


(いい判断だ)


 二体目の刺客の手から剣を跳ね飛ばしながらヴィラードは片頬だけで笑う。第二弾が来ないとは限らない。何が起こるか分からない以上、目の前の刺客たちを速やかに片づけるに越したことはない。


 ヴィラードは剣を飛ばした勢いを乗せたまま一回転して、さらに速度を上げた斬撃が刺客の鎧を砕いて深々と胸を穿うがつ。動きを止めた刺客から剣を引き抜き、剣先で軽く鎧を押すと、刺客は音を立てて倒れた。


「ああっ! 酒代が減っていくっ!」

「妻に殺されるぅ……」

「オレの報酬を奪わないでくださいよ」

「はっや! すっげ、はっや!」


 なぜか味方から文句が飛んできた。褒めてくれるのは素直なカイラムだけだ。ヴィラードは苦笑いした。


「もたもたしてると俺が全部片づけちまうぞ」


 そう言いながら、それも悪くないと思った。基本報酬の他に、彼らには一体を倒すごとに報酬が上乗せされるようになっている。しかしヴィラードが全部倒せば、報酬は節約できる。


(これからも続くなら、いっそ、そうするか……?)


 しかし、ヴィラードの言葉に危機感を覚えたギルド員の動きが目に見えて速くなった。


(止めておいた方が良さそうだな……)


 かわいい弟分から、酒代や細君への上納金を取り上げるのは気の毒というものだ。そう考え直して下がろうとしたとき、全身が総毛立つような緊張が走った。


 ヴィラードは苦笑いを引っ込めて前を見た。溶け始めた二体の刺客の向こうの空間が、落ちる影もないのにくらゆがんでいる。

 そのゆがみが陽炎かげろうのように揺らめいて、白い鎧の騎士が姿を現した。

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