第8話 取り調べ3

 環は背中側に置いていたショルダーバッグを膝に乗せた。

 所持品検査についてはやるだろうと思っていたので問題ない。むしろ、疑いの晴れていない時点でよく返してくれたものだと思ってさえいた。

 環はペンポーチとルーズリーフバインダーをテーブルに並べた。バインダーの中から紙を、ペンポーチから鉛筆とシャーペンを取り出す。


「絵なら万年筆よりこちらの方が描きやすいと思います。お好きな方をどうぞ」


 シャーペンを数回ノックして芯を出し、ヴィラードの前に置いた途端、反対側から優美な指がさらっていった。環は手を伸ばしかけたヴィラードと、揃ってきょとんとギムレストを見る。


「おやおや、これは……ほほう、面白いですね」


 ギムレストが高速でシャーペンをノックし、芯がどんどん押し出されていた。目をキラキラさせて実に楽しげだ。数秒前までの超然とした怜悧な雰囲気は欠片もない。


「ど、どうしたんだギムレスト?」


 ヴィラードが戸惑った声を出している。

 一方の環は生ぬるい目でギムレストを見ていた。

 似たような光景を馬車で見たときから、この青年が万年筆に熱心な興味を示していることはわかっていた。なにが琴線に触れたのかわからないが、オタクのスイッチが入ってしまっている感じがする。

 どうやらその興味の対象はシャーペンも含んでいたらしい。紙も要求されたから、ひょっとすると文房具全般かもしれない。


 環たちが微妙な空気で見守る中、ギムレストの楽しい時間は全て押し出された芯が落ちたことにより、早々に終わりを告げた。


「おや?」


 という言葉と共に動きを止めたギムレストの隙をついて、環はシャーペンと芯を回収した。買い替えが出来ないのに壊されてしまってはたまらない。素早く芯をシャーペンに入れ戻し、ペンポーチにしまってギムレストから隠した。そして目を丸くしているヴィラードに鉛筆を差し出す。


「どうぞ、こちらをお使いください」

「あ、ああ、ギムレスト大丈夫か?」


 豹変したギムレストを心配するヴィラードの様子から察するに、普段はあんなふうにはならないのだろう。案じるのも最もなことだ。当の本人は微笑みを浮かべているが、どこか憮然とした空気を感じる。


「タマキさん。そのペンを返してくださいますか? まだ検査は終わっていませんよ」


(検査っていうより、ただの好奇心じゃないの?)


 環はそう思ったが、表面上は営業スマイルを貼りつけている。


「中身の確認までされたんですから、もう充分でしょう」

「いいえ、検査は始まったばかりです。欠片も見逃しがあってはいけません。くまなく確認し、安全を証明することが僕の使命です。それまではあなたにお渡しできません」


 ギムレストは真剣な顔をしているが、話しているのはあくまでシャーペンのことである。環は馬鹿馬鹿しさに脱力しそうになるのをこらえ、青年を黙らせるべく反論を試みることにした。ここで負けたら、お気に入りのシャーペンは奪われ、分解され、元には戻りそうもない。


「ギムレストさん、冷静になってください。これはただの筆記具です。人を害することはできません」

「その判断をするのは僕ですよ。タマキさん、そのペンを渡してください」

「駄目です」

「何故でしょうか?」

「あなたには刺激が強すぎるからです」


 環も真面目な顔できっぱりと断った。内心では、なぜこんなしょうもないことを言わねばならないのかと思っているが、筆記用具を守るためには仕方ない。


「ギムレストさん。失礼ですが、あなたは少々興奮しすぎています。そんな状態の方にはお渡しできません」

「僕は至って冷静です」

「いいえ。とてもそうは思えません。私が検査に応じたのはあなたの好奇心を満たすためではありません。自分の身の潔白を示すため、また、敵意のないことを表すためです。ひるがえってあなたはどうでしょうか?

 検査を盾に、ご自分の好奇心を満たそうとしてはいませんか?」

「……それは心外です。僕は決して……」


 ギムレストは否定するが、少し動揺しているのが伝わる。図星だったのだろう。


「私の国では、おのが役目を理由に私欲を満たすことを公私混同。また、権力や強い立場を笠に着て、立場の弱い者に要求を呑ませることを、職権乱用、もしくはパワーハラスメントと言います。どれも良い意味では使われません。

 私から見て、ギムレストさんは興奮のあまり、その状態にあります。冷静さを欠いている人に、大事な私物は渡せません。検査はヴィラードさんにお願いしたいと思います」

「それは……」


 ギムレストが言葉に詰まる。


「今のギムレストさんでは、興奮でペンを握り潰すか、壊してしまいそうですから。よろしいですよね?」


 「壊してしまいそう」の部分でギムレストがはっと気づいたようになり、無念そうに視線を下げた。


(シャーペンの検査を断っただけで、そんな大げさな……)


「……そう、ですね。タマキさんのおっしゃるように、僕は冷静ではありませんでした。失礼いたしました」


 ギムレストはため息をつきながらそう言って肩を落とした。


「ご理解いただけてよかったです」


 素直で大変よろしいのだが、なんでこんなことで言い争いをする羽目になるのか、環は若干の空しさを覚えながら、ヴィラードにペンポーチを押し出した。


「ヴィラードさん。どうぞご確認ください」

「あ? あ、ああ、その、タマキ」


 呆気に取られていたヴィラードが我に返り、環を窺うように見る。


「なんでしょうか?」

「その、これは俺が触ってしまってもいいのだろうか……」


(そんな危険物を見るような目をしなくても……)


「検査が不要なら、そのまま返してください。必要ならどうぞ確認してください。分解などして壊さない限り、いくら触っても構いませんから」


 環は「触っても爆発しませんよ」と言いたくなるのをこらえて安心させるために言ったが、ヴィラードには逆効果だった。


「ぶ、分解? 分解ができるのか……。それは気をつけないとな……」


 ヴィラードは本当に爆発物を触るかのように、ことさら慎重にポーチに触れた。異文化コミュニケーションは難しい。環はそう痛感する。そんなヴィラードの手許てもとを、ギムレストが羨ましそうに眺めている。


 おそるおそる触っていたヴィラードだったが、次第に物珍しさが勝ったようで、

ポーチのファスナーを興味深そうに開閉させたり、中身を取り出してためつすがめつ観察してから、環に質問を始めた。


「これは何かな?」


 ヴィラードは万年筆を取って環に見せた。


「筆記具で万年筆と言います。ええと、羽根ペンのような物です」

「なるほど、羽根ペンか。インクの瓶はどこに?」

「インクでしたら軸の中に入っています」

「中に? 見せてもらうことはできるかな?」

「はい」


 差し出された万年筆を受け取って、握りの部分を回転して外し始める。


「ところで、そのマンネンヒツとやらの素材についても教えてもらえるかな?」

「はい?」


 環は回転させる手を止めて、きょとんとヴィラードを見た。


(凶器かどうかの確認しているだけじゃないの? 素材の説明って必要?)


 なんとヴィラードはペンポーチの中身全てに対して、万年筆と同じように用途や実演、素材など様々な説明を求めてきた。

 万年筆に始まり、インクカートリッジや消しゴム、シャーペン、ボールペン、蛍光ペン、鉛筆、定規、クリップに至るまで全てだ。


 使用方法はともかく、プラスチックの製造方法や蛍光インクの原料など知らないので、環は思いもよらない展開に頭を悩ませることになった。「たぶん」や「おそらく」などを多用して、迷いながら説明することになったが、ヴィラードはたいして深追いすることもなく、うなずきながら次々に質問する対象を変えていった。


 そんなヴィラードが時間をかけたのが刃物だった。

 刃物といっても、手の平に収まる小さい和式の折り畳みナイフだ。外に出ている小さな突起を押して鞘の中に畳まれていた刃を開いたときに、ヴィラードは身を乗り出した。


「内部に折っているのか、面白い造りだな。触っても?」

「どうぞ。ロック機構がないので、刃先は押さないよう気をつけてください」


 環は持ち手をヴィラードに向けて手渡した。

 鉛筆を削るときくらいにしか出番がないが、刃渡りは五センチもなく、本当に小さく薄いのでポーチに入れても邪魔にならず、切れ味もいいので常に入れっぱなしにしている。

 会社で定期的に受けねばならない英語力テストのマークシートを一度で塗りつぶすために、ある程度先を太くした鉛筆が必要なのだ。二度塗りしている時間の余裕はない。社内メールでテスト受講のお触れが回ると、いつも事前に削って準備している。


 ヴィラードは目線の高さに持ち上げた刃の部分を熱心に見ている。少しずつ角度を変えてじっくり見ているオレンジの瞳は真剣だった。その様子を環は少し落ち着かない気分で見ていた。


(なんでそんなに時間かけて見てるの? 危険物だと思われてたらどうしよう。そりゃあ刃物だけど、鉛筆削り代わりでしかないんだけど……) 


 環に言わせれば、ヴィラードたちが持っている剣に比べたら、環のナイフはおもちゃに等しい。


「タマキ」

「は、はい」


 おもむろに声をかけられて、環は緊張しながら背筋を正した。


「この刃の素材はなんだろうか?」

「え? ええと……はがね、だったような……?」

「鋼か。それだけか? 背と腹の素材が異なるように見えるんだが」


 環は頬に手を当てて考え込んだ。


「複数の……。ああ、もしかしたら、硬い鋼と軟らかい鋼を組み合わせているのかもしれないですね」

「そういう製法があるのか」

「はい。詳細は知りませんが、昔ながらの作り方だったと思います」

「なるほど。硬軟異なる鋼を使う理由について知っていたら教えて欲しい」

「えっ? 理由ですか?」


(なんで、こんなクイズ番組みたいな知識を聞かれているんだろう……?)


 質問の真意がわからず、環は困惑しながら一生懸命に記憶を掘り返した。


「おそらく、耐久性を高めるためだと思いますが……。硬い鋼が切って、軟らかい鋼が衝撃を吸収しているんじゃないかと……」

「……なるほどな。折れにくい構造になっているのか」


 ヴィラードは感心したように言って、うなずきながらナイフをじっくり眺めた。

環はその様子を見守りながら、これ以上変な質問が出ないように願っていた。


「それではタマキ、このナイフの使用目的を教えてくれるだろうか?」


(やっと常識的な質問が来た)


 ヴィラードの問いかけに環はほっとする。


「そのナイフで鉛筆を削っています」


 あっさりした環の回答に、今度はヴィラードの方が軽く瞬いた。


「……その他には?」

「ええと、使ってないですね。他のときには別の刃物を使いますから」

「用途別に刃物を使い分けているということかな?」

「その辺は個人によって違うと思いますけど、私の場合は大体の物にはハサミですね。そのナイフは本当に鉛筆を削るためだけです」

「いいナイフなのにそれだけとは勿体ないな」


 ヴィラードは純粋に惜しそうな表情を浮かべながら言った。環はおずおずと聞いてみる。


「あの、お伺いしてもよろしいでしょうか?」 

「もちろんだ。なんでも聞いてくれ」

「ありがとうございます。あの、先ほどからそのナイフに関するご質問が続いているように感じるのですが、なぜでしょうか? 

 それは刃物とはいえ、ごく小さなナイフですし、そこまで危険とは思いませんが」 


 銃刀法違反にも引っかからない小さいナイフでこんなに時間をかけて調べているのであれば、まだ見せていないサバイバルキットの中のマルチツールナイフを出したら、どれだけ時間がかかってしまうのだろうか?

 疲労で早く寝たい環は、長丁場の予感に不安に駆られて確かめずにはいられなかった。


「いや、すまない。物珍しくてつい質問を重ねてしまった。しかし君は少々このナイフを過小評価していると思う」

「え?」

「確かに小さいが、充分に殺傷能力はある。この長さがあれば喉の血管を裂くことも、眼球を突くこともできる。使い方次第だろうな」

「……そんな、考えたこともありませんでした……」


 突然の物騒な発言に環がどん引きしながら言うと、環の表情を見たヴィラードは苦笑いした。


「怖がらせてしまったようだな、すまなかった」

「いえ、気にしないでください。少し驚いただけです」

「これは返しておこう。機会があれば、また見せてもらえると嬉しい」


 丁寧に刃をしまったヴィラードからナイフを受け取った環は、疑問を投げかけた。


「それは構いませんが、もしかしてこちらには、こういう折り畳みナイフってないんでしょうか?」

「ないな。使っているのはもっぱらこれだ」


 ヴィラードがそう言ってブーツから引き抜いたハンティングナイフが、重い音を立ててテーブルに置かれた。

 鋭利な光を反射する刃渡りは十五センチはあり、優美な曲線を描きながら先端に行くほど細くなり、よく手入れのされた刃は背に沿って長い溝が彫ってある。使い込まれた赤茶色の木のハンドル部分は色が深くて、実用性のみを追求した重厚な存在感があった。


「戦闘、手作業……おお、調理もだな。大抵のことはこのナイフで事足りる」

「器用なんですね」

「慣れだろう。長年使い込んでいるから、何よりも手に馴染むんだ。常に持ち歩いているしな」

「なるほど……」


 新品の包丁よりも使い古した包丁の方が使いやすいのと同じかな、と環は納得した。


「さてタマキ、これの他に刃物があれば、それも確認しておきたいのだが」

「ああ、はい、そうですよね……」


(やっぱり長丁場かな……)


 環は内心で落胆しつつ、刃物類をテーブルに取り出した。


「疲れているところを悪いとは思っている。もう少しつき合って欲しい」

「大丈夫です。凶器につながるような物の確認は当然ですから」


 労りの感じられるヴィラードの声に環はうなずいてみせた。本当に疲れているが、ここで協力的な姿勢を見せておくことの重要性は認識している。


(突発的な徹夜仕事だと思えばいいのよ。年単位で久しぶりだけど、やるしかないわね)


 環を気遣わしげに見ていたヴィラードだったが、テーブルの上に次々と並べられる物品に、次第に目が釘付けになった。


 ペンポーチからは細いカッター、サバイバルツールがまとめてあるバッグの中からは、マルチツールナイフとサバイバルキットが収まっている手の平サイズのブリキ缶を並べる。その缶を開けてワイヤーソウとカミソリを取り出し、釣り針をつまみ上げながら少し悩んだ。


「あの、釣り針も確認なさいま……」


 顔を上げてヴィラードに聞こうとした環は、途中で言葉を切った。ヴィラードの顔が、おもちゃを発見した子供のようになっていたからだ。


「あの……?」

「触っても構わないかな?」

「はい、あの、どうぞ……」


 環が言い終わるやいなや、ヴィラードはマルチツールナイフを手に取った。両手でくるくると回しながら全体をながめた後、ツールの溝に爪を引っかけて最初に引き出したのは缶切りだった。珍しそうにフック状になっている部分を触っているヴィラードを見て、環は嫌な予感がした。


(もしかして缶詰めが存在しないんじゃない? ……缶の説明をしてから缶切りの説明……?)


 ヴィラードは缶切り以外の全てのツールも引き出して環を見ると、軽く苦笑いした。


「安心していい。興味はあるが、一つ一つについて聞くつもりはない」

「そうですか……」


 硬い表情をしていた環は胸をなで下ろした。よほど疲れた顔になっていたのかもしれない。


「これはナイフ類を一つにまとめた物という理解でいいか?」

「そうです」

「なるほど。面白いな」


 ヴィラードは発言通りに簡単な質問に切り替えてくれて、環がほっとしながら答えていると、横からマディリエが口を挟んだ。


おさ、そろそろ時間が無くなりそうですけど。一旦切り上げた方がいいですよ」


 見れば、椅子に座ったままのマディリエが、ギムレストに貰ったネックレスを指差している。気がつけば、五つあった青い宝石のうち四つが鉛色に変色し、残る一つも青い色に灰色が混じり始めている。腕時計を見ると、この部屋に入ってから一時間以上経っていた。その間、喋りっぱなしだ。疲れるはずだった。ヴィラードが額に手を当てる。


「おっと、しまった。つい夢中になって予定を過ぎてしまったな。タマキ、悪いが人相書きを描くので付き合って欲しい」

「わかりました」


(あと少しで終わる……といいなぁ……) 


 環は気力を振り絞ってルーズリーフバインダーから紙を数枚抜き取り、鉛筆と一緒にヴィラードの前に並べた。


(ええと、高笑い男の人相ってどんなだっけ?)


 環がぼんやりとした頭で思い出している間に、置かれた鉛筆を手にしたヴィラードが、何も言っていないのに、さらさらと人物画を描き始める。それはあっという間に微笑んだ環の顔になって、環は目を丸くした。


「……すごい、お上手ですね」


 美化されすぎな気がしたが、特徴をよく捉えている。環が正直な感想を述べると、ヴィラードがフッと笑った。


「タマキの道具が素晴らしいからだ。滑らかな紙もこの鉛筆も。ついつい筆が走ってしまう。描く相手が美しい女性なら尚更というものだ」

「……はあ、そうですか」


 疲れた環には、そうとしか言いようがなかった。ヴィラードの女好きは筋金入りということだけはわかった。

 きっとゼロ歳から百歳まで、女性相手なら誰彼構わず同じことを言っているのだろう。疲れる相手だが、体に触られない限りは病気だと思って放っておこう。

 環は少々、投げやりになっていた。


「それでは思い出せる範囲で人相を教えて欲しい」


 環の絵を丁寧に脇に置いたヴィラードに促され、環は高笑い男たちの特徴を思い出しながら話した。


「ええとですね、高笑いしていた男は目が赤くて、金色に光っていて……」


 話し終わると、ヴィラードからの細かい確認が始まった。


「赤い目ということだが、どのような赤だったか話せるかな?」

「どのような、とおっしゃいますと?」

「赤と言っても、明るい暗い、といった色の違いがあるだろう?」

「ああ、なるほど。……高笑い男は確か、鮮血のような赤で……。壮年の方は深い赤……茶色が入っているような感じの……」

「ふむ」


 この他にも骨格、髪の色、服装、武器防具の種類など、ヴィラードの聞き取りは多岐に渡った。質問は的確で、絵の再現力の高さはさすがと言いたいところだったが、正直、こういう集中力を使うような作業は、先に終わらせて欲しかった。

 そしてようやく、人相書きが出来上がった。


「タマキ、お礼を言わせてくれ。君のおかげで実に詳細な人相書きが出来上がったよ」

「それは何よりです……」


 ヴィラードがそう告げて、環は内心げっそりしながらも会社員スマイルを浮かべた。


「さて、疲れただろう? 今日はここまでにしておこう。マディリエ、頼む」

「はい。ほら立てる? 部屋に戻るわよ」

「ありがとうございます」


(やっと眠れる……)


 環は心の底からのお礼を言った。長い長い一日だった。それもやっと終わるのだ。

 気の抜けかけた環に、ヴィラードが笑顔で爆弾を落としたのはその直後だった。


「明日も移動だ。今晩はゆっくり休むといい」


 きびすを返しかけた環の足が止まる。


「…………移動?」

「ああ、ここは二ビルという町で、我々の本拠地があるレンフィックまであと一日かかるんだ」

「一日……。そ、その移動方法はもしかして、あの馬車ですか?」

「そうか、馬車に酔っていたな。すまないがあと一日我慢して欲しい。環さえ良ければ、俺の馬に相乗りするという選択もあるんだが……」

「…………いえ、結構です。お気遣いありがとうございました」


 あの馬車に乗らないという選択肢は魅力的だったが、馬に乗っても結局は揺れる。それにヴィラードの前だか後ろだかに乗って密着するのは、別の方向で気分が悪くなりそうな予感がした。

 乗ったことのない馬に揺られながら、至近距離で歯の浮くようなセリフを聞かされるのは耐えられそうもない。


(酔い止めならあるし、なんとかなるかしら……)


 環は悲壮な覚悟を決めて部屋に戻った。

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