第5話 白い悪夢

 環は白い闇の中に立っていた。

 風は無く、木の影も見えず、鳥の声も聞こえない。

 視界一面が白くて、天も地も区別がつかなかった。


(ガスが濃いわ……。今、どこにいるんだっけ?)


 高度と位置を確認しようと左腕を上げて、身に着けているのが登山用のデジタルウォッチではなく、両親から贈られた、普段使い用の腕時計であることに気づいた。

 よく見れば服装もスーツ姿で環は困ってしまった。


(私、こんな格好で遭難したのかな? 普通は動かないのが鉄則だけど、濃霧で体を冷やしたくないし……。でも、これだけ見通しがきかないんじゃ、迂闊に歩けないわ……)


 辺りを見回し一歩踏み出したときに、足元からパシャンと水音が上がった。


「ん?」


 視線を下げると、動いたことで纏わりついていた霧が薄れている。環は裸足だった。ごく浅い、指が隠れるかどうかの水溜まりか池の中に立っているようだ。


「なに、これ……」


 水は流れておらず、一見すると黒く見えるが、指の上を覆っている部分は赤い。まるで血の色だ。

 環はぞっとした。


(なにこれ、気味が悪い、離れないと……)


 移動先を探してきょろきょろと見回す。その時、背後に気配を感じて急いで振り返った。

 視界には誰もいない。

 最初に気づいたときと変わりのない、動かない真っ白い濃霧が拡がっているだけだ。


 だけど、その向こう側に、何かの気配を感じる。

 その何かは、明らかに環を見ているとわかった。


 環はコクリと生唾を飲み込む。

 全身に鳥肌が立ち、心臓が早鐘を打ちはじめた。


 不意に視界の奥で、濃霧がゆらりと動いたように見えた。

 環は弾かれるように、反対側に駆け出した。


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 ブーン、ブーン、という低い振動音が聞こえる。スマートフォンが鳴っていた。環はバチリと目を開けた。


『なんの音っ?』


 驚いたような女性の声が聞こえる。

 膝に立てたショルダーバッグに頭を伏せていた環は、ガバっと身を起して急いでスマートフォンを探した。マナーモードとはいえ、電車の中では迷惑行為だ。早く止めなくては。

 パタパタとスーツの上からポケットを叩き、車輪が石を踏んだ振動で体が跳ねて、とっさに座席にしがみつく。


「あ……」


 ようやくここが、通勤電車の中でないことを思い出した。馬車の振動を電車の振動と勘違いしていたようだ。


(そうだ、私、確か、別の世界にいるんだった……やっぱり夢じゃなかったのね……)


 向かい側にいる紫髪の女性が、手に環のスマートフォンを持っている。今にも落としそうな様子に、環は無意識に身を乗り出して、スマートフォンを取り戻した。

 起動していたアラームを止める。時刻は午前四時半になっていた。

 環の起床時間である。いつの間にか眠っていたらしい。この絶え間ない振動の中でよく眠れたものだと思うが、年齢のせいか、環境のせいか、全身がどんよりとだるく、疲労が取れていない。

 なんとなく夢見も悪かったような気もする。


 環はスマートフォンを内ポケットにしまおうとして、はた、と動きを止めた。


(スマホ、取り上げられてたような……)


 ぎこちなく頭を巡らせて、女性を見る。

 紫髪の女性は、手にスマートフォンを持った格好のまま、驚いたような顔をしていた。

 隣に座っていた美青年も、少し離れた位置から環を見ていた。組んだ足の上に、バインダーを乗せて書き物を続けていたらしい。すっかり慣れた様子で、万年筆を握っていた。どうやら環が寝ている間に、ピアスの検査は終わっていたようだった。


「あの、これ、返してもらってもいい、でしょうか……?」


 環が半分内ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して、おずおずと尋ねると、紫髪の女性が我に返った。


『あ、ああ、そうだったわ、武器じゃないなら持ってていいのよ。返すの忘れてたわ』


 女性が腰の小さなポーチから、環のハンカチも取り出して渡してくれる。これで環の私物が全て戻ってきた。


「ありがとうございます。助かります」


 環は笑顔で礼を言った。この様子なら、多少荷物を触っててもお咎めはなさそうだ。


(喉が渇いてるのよね。飲んでもいいかしら……)


 ショルダーバッグの中には手つかずのミネラルウォーターが二本入っている。

 災害大国日本で、全てのインフラが止まり、帰宅難民になったことがある環のバッグの中には、非常事態に備えてサバイバルグッズが常備されていた。


 今履いているトレッキングシューズもその一つだ。

 会社から自宅のアパートまで十五キロある道程を、ハイヒールで歩いた恐ろしい過去から学んだことだった。血マメだらけになった足と体力の必要さを痛感した環が、体力をつけるべく山に登るようになり、テントを背負って縦走するまでになったことは余談である。


 環が思案していると、御者席との間の布がめくられ、御者が顔を覗かせる。


『もう少しでニビルに着くぞ。そろそろ支度しとけよ』

『やっとね』

『解析はここまでのようですね』


 女性が伸びをして、青年が書く手を止める。車内アナウンスを受けて降車準備をする人のようだ。

 目的地に着いたならありがたい。クッションのない木製のベンチに座り続けてお尻が痛い。それにいい加減、揺れで気分も悪くなっていた。


 停車を期待する環に、青年が紙を除いたバインダーと万年筆を差し出してくる。


『ありがとうございました。一旦、お返しします』

「あ、どうも。お役に立てたならよかったです」


 青年は多分お礼を言っているのだろう。

 環も言葉を返して筆記具を受け取った。受け取るときに若干の抵抗を感じたが、気のせいだろう。


 環はバインダーをショルダーバッグにしまい、万年筆はスーツの胸ポケットに差した。青年の目が、じっと環の胸を見ていることに気づく。


(何? え? 万年筆? 万年筆を見てるの? どんだけ万年筆が気に入ったのか知らないけど、変態じゃないんだから胸元を凝視しないで欲しいわ)


 内心ドン引きしているのを、表情に出さないよう注意しながら、体勢を変えて青年からさりげなく万年筆を隠す。青年は諦めたようにため息をつき、荷物をまとめ始めた。


 馬車の速度が落ち始め、外から喧騒が聞こえ始める。どこかの市街に入ったのかもしれないと思った。少しして外の雑音が少なくなり、やっと馬車が停止した。女性と青年が腰を浮かせる。

 環は大きく安堵した。


(やっと着いたみたいね。助かった……)


 女性が環を手招きする。


『降りるから、こっち来て』


 環はよろよろと立ち上がった。おぼつかない足元を、女性が手を貸してくれる。地面に降り立っても、まだ揺れが続いている気がした。

 馬車に手をつき、何度か深呼吸を繰り返した。


『大丈夫ですか?』


 労わるような声がして顔を上げると、美青年が覗き込んでいた。

 視線がチラチラ万年筆に向かっているが、環のことも心配してくれているのだろう、たぶん。環はうなずいてみせた。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 環は馬車に寄りかかって、ショルダーバッグからサーモボトルを取り出した。

ロックを外して、残り少ないお茶を飲む。

 いざというときのミネラルウォーターは、まだ取っておいた。


「ふぅ……」


 やっと人心地つけた気がした。この馬車にはもう乗りたくない。

 サーモボトルに青年の視線が突き刺さっていることに気づいたが、環は無視をした。今は吐き気をこらえるのに精一杯で、対応する余裕がない。

 環は自分がいる場所を見回した。


 馬車はどこかの建物の敷地内に停まっていた。

 二階建てに見えるレンガっぽい建築で、一階の中央辺りに片開きの扉が付いているが、表口というより勝手口のような印象を受けた。庭は塀に囲まれていて、開いた門扉からは同行していた人達が騎乗したまま入ってきている。

 片手に空馬の手綱を引いた黒髪の青年も姿を現した。紫髪の女性に手を上げて、そのまま建物の角の方へと去って行った。

 紫髪の女性も軽く手を上げたが、そのままここに残った。おそらく、環についている役目があるのだろう。


 空は夕焼けに染まり、陽が傾き始めていた。環の腕時計は朝五時だったが、疲れすぎていて、すぐにでもベッドに倒れこみたい衝動でいっぱいだった。

 今なら秒で眠れる自信がある。馬車がこんなに辛いものだとは思いもよらなかった。


 勝手口らしき扉が開いて、リーダー格の男性が出てくる。笑顔で環を見たかと思うと、眉をひそめて大股で近寄ってきた。


『どうした? 真っ青になってるじゃないか』


 紫髪の女性に話しかけ、女性が環を見る。


『馬車に酔ったみたいです。乗ってしばらくしたら、ずっとこんな顔色してましたから』

『そうか。気の毒な事をしてしまったな……』

『休憩もなかったし、馬車に不慣れなようだし、吐かれなかっただけ上出来だと思ってください』

『ああ、タルギーレの襲撃も想定していたからな。強行軍になったのは悪かった』


 リーダー格の男性が痛ましげに環を見た。どうやら環の話をしているらしい。


『休ませたほうが良さそうですけど、どうします?』

『そうだな。ん? 荷物を彼女に渡したのか?』


 リーダー格の男性が、環のショルダーバッグに目を止める。


『ええ、あたしの判断です。返しても問題はなさそうなので。駄目ですか?』

『いや、マディリエがそう判断したなら構わない。君の観察眼は信用している』

『それはどうも』

『部屋は用意してある。マディリエ、引き続きで悪いが……』

『はいはい。同室でお守りでしょ? わかってますよ』

『ああ。助かるよ』

『そう思うなら、いい加減、女の団員を増やしてくださいよ』

『ど、努力しよう』


 紫髪の女性に何かを言われて、リーダー格の男性が若干うろたえた様子になった。


『部屋はどこです?』

『二階の一番奥だ』

『あら、いい部屋じゃないですか。さすが女に甘いですね』

『それから、疲れてる彼女には悪いが、少し時間を貰うぞ』

『あたしに言われても』


 リーダー格の男性がローブの青年に顔を向けた。


『ギムレスト。彼女と話がしたい。準備をしてくれ』

『承知いたしました。少々時間をください。しかし、今日は長時間は無理ですよ』

『お前も疲れているのにすまないな』

『いいえ、僕も彼女と話をしたいので、頼まれなくてもやるつもりでいました』

『お前が女性に興味を持つなんて珍しいじゃないか』


 リーダー格の男性が驚いたように青年を見て、女性が軽く噴き出す。


『ぷっ。興味は興味でも、ねぇ。ギムレストらしいというか、なんというか』

『なんだ? なんの話なんだ!?』

『それでは僕は準備に移りますので、失礼を』


 リーダー格の男性に一礼した青年が環を見下ろして、見覚えのある真摯な表情になる。


『少々離れますが、後ほどお目にかかります。改めて、じっくりお話をさせてください』


 凛々しい表情で、熱心に何かを言い募っているが、万年筆を意味ありげに一瞥している。たぶんまた、万年筆を貸して欲しいとか、そんなところだろう。


(どんだけ気に入ったの……)


 名残惜しそうに建物に消える青年を見送った環が、少々呆れてしまうのも無理からぬことだった。


『マディリエ、ギムレストは一体どうしたんだ?』

『くくく。どうしても欲しいものを見つけたみたいですよ。ふっ』

『欲しいもの? それはどういう意味で?』

『さあ? さて、あたし達も一息つくわよ。お腹空いたわ。ほら、ついて来なさい』


 環の手首を掴んだ女性が、後ろで何かを言っているリーダー格の男性を無視して、建物に向かって歩き出す。


『おい、マディリエ。馬車で何があったんだ!?』


(無視していいのかしら? リーダー格の人だと思うんだけど……)


 環にしてみたら、上司を無視するなんて有り得ない。

 しかし彼らは打ち解けた様子で話していて、上下関係はあまり感じられなかった。気安い間柄が窺える。


 手を引かれて入った建物内はほの暗かった。

 少し広めの廊下には、両側に扉が並んでいる。壁に掛けられた燭台が、等間隔に灯りを作っていた。


『こっちよ』


 女性は環に声をかけると、ずんずん奥に進んだ。すぐにホール状の空間に出る。

 正面には両開きのドアがあって、環たちはホテルのようなカウンターの横に出た。

内側には五十代と思われる男性がいる。どうやらここが、本来の玄関ホールのようだ。

 正面玄関の向かい側にカウンターがあり、その左側に環たちが出てきた裏庭に続く通路、右側には上階へ続く階段、そして階段から少し離れた壁には扉くらいの大きさの切り欠きが空いていて、奥から食べ物の匂いと、話し声が流れ込んでくる。

 食堂らしき奥の空間には扉は無く、腰の高さのスイングドアで仕切っているだけだった。環の場所からは中は見えない。


 紫髪の女性は環の手を放すと、カウンターに向かう。


『マディリエよ。おさに用意してもらってる部屋の鍵を出してもらえる?』

『ああ、聞いている』


 カウンターの男性が、鍵を渡しながら環を見る。


『あちらは?』

『あんたが知る必要はないわ』

『そうかい』


 それきり男性は黙った。

 鍵を手に戻ってきた女性が、再び環の手を引いて階段を昇り始める。折り返しながら階段を上がり、二階の突き当りの部屋に入ると、室内はツインルームになっていた。

 壁際にはベッドが二つ、間隔をあけて並んでいる。唯一の窓近くに置かれたテーブルには椅子が二脚あり、入り口の扉とは別に、側面の壁にもう一つの扉が付いていた。

 女性がその扉を開いたり、窓から外を見下ろしたりしている。そうして環を振り返って、奥のベッドを指差した。


『大丈夫そうね。あっちを使って』


(あのベッドを使えって事よね?)


 環はそう解釈してベッドにショルダーバッグを下ろした。腰かけようかと思ったら、女性が別室の扉を開いて環を手招く。

 別室はバスルームになっていた。壁に洗面台が備え付けられており、平たい桶と、水差しが置いてあった。


 左右には別々に扉があり、片方はタイル張りのおそらく浴室で、反対側の扉の奥は洋式タイプのトイレのようだ。天井から紐が釣り下がっている。


(洋式タイプのトイレ? ああ、おまるとかじゃなくてよかった……)


 環は小さく安堵の息を漏らした。


『手洗いと浴室よ。好きに使ってて。あたしは夕飯を調達してくるから、あんたは部屋から出ないようにね』


 話しながら部屋に戻った女性が、バスルームと自分と部屋の扉を順に指差していく。最後に環と床を指差した。


(なんとなくだけど、お前はここにいろって言ってる?)


 一生懸命推測している環を残し、女性はスタスタと部屋から出て行ってしまった。

鍵がかかる音がして、環一人が部屋に残される。


「ええと……」


 環は意味もなく部屋を見回してから、試しに女性の出て行った扉のノブを回してみたが開かなかった。鍵穴はあるが、どうやって内側から鍵を外すのかわからない。


「……私が出れないってことは、鍵がないと外からも入れないわよね」


 他人がやすやすと入ってこれないと理解して、深い息をついた。やっと一人になれて少し気が抜ける。

 環はショルダーバッグからサーモボトルを取り出して、残りのお茶を飲み干す。そしてベッドに腰を下ろした。ベッドにスプリングの反発はないが、マットレスを重ねているのか、寝るには十分な柔らかさだった。


「あー、このまま寝てしまいたい……」


 強烈な睡眠の誘惑に駆られながらも、まだそうはいかないだろうことは理解している。

 環は大きくなる誘惑を跳ねのけてショルダーバッグを開け、化粧用ポーチからハンドミラーを取り出した。比較的明るい窓辺の椅子に座り、髪の毛を耳にかけ、鏡の中を覗き込む。

 そこには、真紅に染まったピアスが映っていた。


「……なにこれ?」


 環がつけていたのは、爽やかなマスカットグリーンのペリドットだったはずだ。それが鏡の中では、両耳とも赤珊瑚のような透明度のない真紅の石に置き換わっている。

 いや、ファセットカットのデザインはそのままだから、石が置き換わったのではなく、ペリドットだけが色を変えたとしか思えない。


 環は宝石が光を反射するときに放つファイアが好きなので、赤珊瑚のようにとろみのある色合いの宝石は持っていない。特に、こういう血色は好みではなかった。

 大体、赤珊瑚だったらファセットカットではなく、丸みのあるカボションカットだろう。デザイン的にもこのピアスは有り得ない。


「気味が悪い……」


 環はピアスを外そうと試みたが、どうしても外せない。キャッチ部分が本体とくっ付いてしまったかのように、耳ごと引っ張られてしまう。


(……ちょっと、冗談じゃないんだけど)


 ますます気味が悪くなって、焦りが湧き上がってくる。そのとき鍵が回る音がして、紫髪の女性が戻ってきた。


 環はずいぶんと情けない顔をしていたのであろう。部屋に入るなり、食事の乗ったトレーを持った女性は、眉を上げて環に近寄ってきた。

 両手でピアスを外そうとする姿を見て、訳知り顔になる。言葉に直せば、「気づいたか」とでも言いたげな感じだ。


 女性は環の肩を叩き、テーブルにトレーを置いた。

 環の目の前に、見た目シチューと、見た目は丸パン、そして見た目お茶の入ったコップが並べられる。


『後で説明できると思うから、今はご飯にしましょ。お腹も空いてるでしょ?』


 態度は素っ気ないが、声色は心なしか優しく感じられた。女性が向かい合って席に着く。


『温かいうちに食べなさいよ』


 女性は環の見た目シチューを指差して、自分の食事を開始してしまった。

ご飯を食べろと言っているのだろう。確かにお腹は空いている。

 環はピアスを外すのを諦めて、スプーンを手に取った。

 口に運んだ半日ぶりの食事は、知らない味付けなのにどこか懐かしく、素朴で温かかった。

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