第3話 洞窟の外
『手首にも何か……装飾品? まあいいか。何かあったらアレな
環に襲いかかった時の鋭い調子とは打って変わって、どこか投げやりな口調になった紫髪の女性が、環の拘束を解いてくれた。
身体検査の結果、どうやら犯罪者の疑いは晴れたらしい。スマートフォンだけでなくハンカチまで取り上げられてしまったが、少し安心できた。
縛られていた手首は赤くもならず無傷だった。拘束した黒髪の青年が気を遣ってくれていたのかもしれない。
手首をさすりながら腕時計を見ると、文字盤は十一時を回っている。住宅街からこの洞窟に来て何時間も経ったように感じていたが、実際には三十分も経っていなかった。
(なんでこんな目に……)
スマートフォンをリーダー格の男性に見せて報告している女性を見ながら、環は我が身の不幸を嘆いた。
(これは実は夢で、気づいたら部屋のベッドで眠っていただけ。とかだったりしないかしら……)
環は疲れ切った頭でぼんやりと現実逃避した。頭の片隅では、これは現実だと理解している。
天災であれ、人災であれ、日常というものは一瞬にして壊れ、往々にして元には戻らないということは身をもって知っている。さすがに別世界に来るとは思ってもいなかったが。
(あれこれかけてきた保険料無駄だったな……。異世界迷い込み保険とか無いし……)
間の抜けた考えに、ふっ、と自嘲が零れたとき、目の前に大きな手が差し出された。環が顔を上げると黒髪の青年が屈託なく笑いかけてくれている。
『拘束解けてよかったなぁ。ほら、立てるか?』
この青年は凄くお人好しなのだとわかる。裏表のない、爽やかないい笑顔だった。体育会系の好青年という印象を受ける。最初からずっと朗らかな態度で接してくれている。
(この人、若そうなのに立派だわ)
世間に揉まれ、身も心もすっかりすり切れてしまった三十代の環にはできない表情だ。打算のない笑顔になれたのは遠い昔のことで、そつのない会社員用営業スマイルが標準装備になっている。
環は諦めに似た気持ちで異世界にいる現状を受け入れた。
大学生くらいにしか見えない若者が気を遣ってくれているというのに、社会人の自分がいつまでも優雅に落ち込んでいるわけにはいかない。
どんなにしんどくても、座っているだけでは嫌な状況は変わらない。嫌なことを変えるためにはは、自分で打開しないといけないのが社会人の常だ。
(落ち込むのは自宅に戻ってからにしよう)
息をついた環は、気持ちを切り替えて自分の状況を整理した。
(帰宅中に突然拉致? されて……。
犯人と思われる男たちは逃げて、追いかけていると
問答無用で殺されたりするよりマシな状況よね……)
環は少しでも気持ちを浮上させようと、前向きな理由を探した。そして会社員として磨き上げた営業用スマイルを瞬時に浮かべて好青年を見る。
現地人と友好的な関係を築くのはとても大切だ。
「ありがとうございます」
環は青年の厚意を無にしないため、差し出された手を取った。もしかしたら帰る手段だって当たり前のようにあるかもしれない。
(まずは状況把握と意思疎通よ。敵意がないことを示し続けなきゃね……)
環を軽々と引き起こした青年が、リーダー格の男性たちの方を見る。
『もう少しで終わると思うから、そこで待ってな』
青年は何事かを告げると、少し離れたところで控えてしまった。
(……待ってろってことかしら?)
拍子抜けした環は、ポツンと残された場所で、膝と腰に付いた汚れを払い、さっきまで
(このピアスの、何がそんなに気になったんだろう?)
身に着けているのは、ブラウスに合わせたマスカットグリーンのペリドットだ。小さなダイヤモンドが上に二石配されている、よくあるデザインだが、お気に入りのものだった。
価値でいえば縦に三石並んだダイヤのネックレスの方が余程高価なのに、ローブの青年はこちらには目もくれなかった。
その青年はリーダー格の男性と何かを話しあった後、再び台座に戻って鉛色になった元水晶を熱心に覗き込んでいる。
彼が目の前に来た時はびっくりした。
顔立ちの秀麗さと青銀色の髪色もさることながら、一番驚いたのはその瞳の色だ。深く澄み切ったブルーサファイアの青に、瞳孔が金色に光っていて、まるで最高級のスターサファイアを見ているようだった。
それだけでなく、ぶつぶつ呟いたと思ったら、今度は瞳全体が金色に光ったものだから、ますます驚いた。
至近距離に迫られ、無表情にじっと観察されて、正直少し怖かった。頭を押さえられて逃げられなかったが、動けたら逃げ出していたかもしれない。
触ったピアスの石が外れた感触はしないし、環には何がおかしいのかわからない。
そして中空にあった魔法陣と青い切れ込みは、きれいさっぱり消えている。
(本当になんだったんだろう?)
せめて高笑い男たちが何を喋っているか理解できていたら、少しは状況が理解できたかもしれない。こういう、とっさの場面で動画撮影ができるタイプでなかったことが悔やまれる。しかし誰でもいきなり高笑いする男が目の前に現れたら、驚いて固まると思う。
リーダー格の男性は抜け道から奥に行ってしまったし、紫髪の女性はローブの青年と一緒に周辺の確認をしていた。さしずめ黒髪の青年が、環の監視役といったところだろう。
しばらくの間待っていると、やがて抜け道から話し声が聞こえ始めた。リーダー格の男性を先頭に、数人の男性たちがぞろぞろ出てくる。
そこには例の高笑い男たちの姿は無かった。
(ああ、捕まえられなかったみたいね……)
リーダー格の男性が環を示して何かを言い、男性たちの視線が集まる。
(……この世界って本当にすごい色彩してるわ……)
男性達は物珍しそうに環を見ているが、環の方こそ彼らが珍しかった。
髪の毛が青や緑や黄色(金色ではない)だなんて、子供向けのなんとか戦隊ができそうなカラフルさだ。ここからは見えないが、きっと目の色も色彩豊かなのだろう。
(私みたいな黒髪黒目なんて、地味すぎて背景みたいなものね)
下手に目立ってしまうより、その方がいいかもしれない。そんな事を考えていると、男性たちが最初になだれ込んできた入り口の方へ歩き始め、リーダー格の男性だけが環の方へ歩いてくる。
その途中でローブの青年や紫髪の女性に声をかけた。
『ご苦労だった。撤収しよう』
『ではこの石は持って帰ります』
『頼むぞ。さて、お嬢さん』
リーダー格の男性が環の背中に手をまわし、もう一方の手で入り口を示す。
『大変な目に会いましたね。もう大丈夫ですよ、ここから出ましょう。さあ、私が案内します』
環はキョトンとして、にこやかな男性の顔と示された入り口と、背中に当てられた手を順番に見る。
(……移動するってことみたいね)
「……あそこから出るんですよね? わかりました」
環は背中に当てられた手から逃れるように一歩離れ、入り口を指差してうなずき、返事を待たずに歩きはじめる。
リーダー格の男性は宙に浮いた自分の腕と環を見比べた後、咳払いして横に並んだ。背後から微かに女性の含み笑いが聞こえた気がした。
もしかしたら失礼な態度だったのかもしれないが、環としては距離が近すぎて嫌だった。海外赴任から日本に帰ったときも、広いパーソナルスペースにホッとしたものだ。
洞窟のホールから通じる通路は比較的広かった。相変わらず岩自体がほんのり明るく、灯りを必要としない。
やがて突き当たりの頑丈そうな扉をくぐると、天然の岩壁から、磨かれた石積みの暗い通路に変わった。
先に出て行った青い髪の男性が、二つ持ったランタンを一つ差し出す。
『
『おお、ご苦労。さ、足元は暗いですから気をつけて』
エスコートを無視したにもかかわらず、めげずに愛想良く笑って環の足元を照らしつつ歩いてくれるリーダー格の男性に、さすがに環も礼を言った。
「どうも、ありがとうございます」
会社員スマイルで微笑むと、リーダー格の男性は満足そうに笑った。お礼が通じたようだ。
おそらくこの男性も親切な人なのだろうと思う。多少の下心は感じるが。権力者とは適切な距離を保ちつつ、良好な関係が築けたら一番いい。
右も左も分からない環にとっては、親切な協力者を得られるかどうかで、帰還にかかる時間が変わってくるだろう。すぐにでも帰ってベッドにダイブしたいが、急がば回れだ。
(慌てず、騒がず、落ち着いて行動しよう)
内心の緊張を押し殺して、環はそう自分に言い聞かせた。
環たちは通路から狭い階段を経て埃っぽい室内に出た。どうやら物置部屋のようだ。
出てきた通路のすぐ横に古びた棚があり、促されて部屋から出るときに振り返ると、黒髪の青年が棚を動かして地下通路を塞いでいた。
(……隠し通路ってやつかしら? 初めて見たわ)
そんな感想を抱きつつ、部屋の様子を憶えておこうと良く観察した。
部屋を出ると廊下は左右に延びていた。古い建物特有の、淀んだ空気が漂っている。リーダー格の男性が迷いなく進む方向に環も従いつつ、頭の中でひたすら地図を描いていく。
もしかしたらこの場所に戻ってくることがあるかもしれないからだった。幸いなことに建物の造りは難しくなく、程なく環たちは両開きの扉から外に出た。
扉の向こうはバルコニーのようになっていて、数本の太い石柱が天井を支えていた。正面から階段で下に降りるようになっており一段一段が広い。
その下は車寄せなのか広場になっていたが、雑草が伸び放題の広場になっていた。周囲は森に囲まれていているが、広場には陽光が差していた。環の時計は真夜中前だ。時ならぬ日の光が疲れ目に沁みる。
階段を降りながら振り返って見上げると、出てきた建物は重厚な石造りで、欧州の古い修道院にありそうなロマネスク建築に似ていた。
歴史を感じる壁は苔むしており、蔦が覆っている。そして雑草で茂っている広場には、数頭の馬と、幌付きの馬車が停まっていた。
環の思考が数秒停まる。
(……馬? 馬だわ、馬がいる……馬車も……)
環はまじまじと観察した。
(……あら? ここって別世界じゃなっかった? なんで人間の色彩はあれなのに、植物とか馬とか普通にいるの?
ええと、環境がとてつもなく地球と似てるってこと?
それとも、別の進化を歩んだもう一つの地球? パラレルワールドっていうんだったかしら?
ファンタジーじゃなくてSFだったの? ファンタジーとSFの違いってなんだったっけ?)
頭の中を疑問符が埋め尽くし、思考が混乱し始めた。
『どうかしましたか?』
そんな環に、数段下からリーダー格の男性が声をかけた。
環は改めて男性を観察した。頭の天辺から足の先まで人間に見える。他の人も髪と目の色以外、違和感を感じない立派なホモ・サピエンスだ。
(……深く考えるのは止めよう。そもそも知的生命体がいて、呼吸できる環境なこと自体がすごいことだったわ)
環は頭を振って歯止めが利かなくなりそうな考えをストップした。
(ジュラ紀にタイムスリップするよりマシよね)
そう自分を納得させる。意思疎通ができそうな知的生命体がいるだけで御の字だ。
広場に降りると、弓を背負った藍色の髪の男性が寄って来て、リーダー格の男性に報告か何かを始めた。
環は邪魔にならないように少し離れたところで馬を眺める。環の知っている馬よりも、若干足が太めな気もするが、馬について詳しいわけではない。
(……馬に乗れとか言われたらどうしよう? 乗馬なんてブルジョワな趣味はないんだけど。相乗りもご免だわ。見ず知らずの他人と密着なんて通勤電車でも嫌なのに……。
いや、それよりも、あの馬車で運ばれる可能性の方が高いか……)
環は馬車に視線を転じた。
環は車業界でメーカーの下請けとして仕事していた。所属は調達部だが、製品を理解するために入社当初は工場で経験を積み、その後は設計部でも補助業務に携わってなんでもやらされてきた。
そんなわけで業界柄、車の足回りには興味が湧いた。それが例え馬車であっても、つい気になってしまう。
馬車は二頭立ての四輪で、前輪の方が小さい。背骨部分に当たるシャシーを挟んで、上に箱が据え付けられ幌がかかっている。
下に渡した車軸の両端に木製の車輪がついているが、車軸とシャシーの間隔が狭く、ここからでは板バネもサスペンションも見当たらない。ブレーキもなさそうだ。
環は首をかしげた。
(……どうやって衝撃を減衰させてるんだろう?
未知の構造だったら、日本に帰ってから仕事に生かせるかもしれない。下を覗いてみたいわ……)
そう思った環は人目を確認しようとまわりを見て、馬に荷物を括り付けていた男性たちが手を止めて、環を見ていることに気づいた。値踏みしているような顔で、合流した紫髪の女性や黒髪の青年と何かを話している。
同じ黒髪の青年もいることだし、この髪が珍しいということはないだろう。となると、黄色人種が珍しいのかもしれない。
注目を集めているさなかに、いきなり馬車の下を覗き込むのはいい選択とは思えない。
(……残念だけど今は止めとこう。後で人目がないときにじっくり見れるといいな)
環は馬車を観察するだけにとどめておいた。藍色の髪の男性と話し終えたリーダー格の男性が、まわりに指示を出し始める。
『マディリエ、彼女と一緒に馬車へ乗ってくれ、荷物も頼む』
『ああ、はい。それじゃカイ、あたしの馬頼むわ』
『はいよー』
紫髪の女性が環のバッグを受け取っている。
『他は馬だ。今夜はニビルに泊まるぞ』
『
『ギムレストか。どうした?』
『呪いの内容をもう一度確認しようと思いまして』
『……まあ、いいだろう。怖がらせないようにな』
『ご心配には及びません。指一本触れませんよ』
一瞬渋るような顔になったリーダー格の男性に、ローブの青年が苦笑いする。
『そうね。べったり張りつくだけよね』
『仕方ないでしょう。近づかないと読めないのですから』
『ぬぬ……俺も乗るか……』
『いや、鬱陶しいことになりそうなんで、やめてください』
『俺をなんだと思ってるんだ。無礼を働くようなことはしない』
『しつこい男は嫌われますよ。さっきも嫌がられてたでしょ?』
『そ、そんなことは……』
『ほら、
『僕は
『知ってるわよ』
リーダー格の男性と紫髪の女性と、ローブの青年で少し揉めたように見えたが、
女性とローブの青年が近づいてくる。
リーダー格の男性は不満げな顔をしていたが、環が見ていることに気づくと笑顔になった。
(……愛想のいい人よね。営業向きだわ)
環がそんな感想を抱いていると、紫髪の女性が話しかけてくる。
『アレは気にしないでいいわ。ほら、出発するわよ。こっち来て』
「えと、あの?」
リーダー格の男性をひと睨みした女性が、勝手に環の手首を掴んで馬車の前方に歩き出す。引っ張られながら目の合っていたリーダー格の男性に会釈をして、環は後に続いた。
どこから乗り込むのかと思っていたら、御者席の横から荷台に入れるようになっていた。天井はあまり高くない。両側面に木のベンチが置かれていた。片側三人くらい座れそうだ。床には小ぶりの樽や木箱、荷物と思われる袋がいくつか並んでいる。
『好きなところにどうぞ』
紫髪の女性はベンチの中央に腰を下ろし、環に対面のベンチを示した。
真正面から少し外れて座った木のベンチは硬い。
しかし、疲れが溜まっている環にとっては座れるだけありがたかった。
環の荷物は女性が自分の傍らに置いていた。
少し遅れてローブの青年が乗り込んでくる。青年は迷わず環の隣に座った。
『どうぞよろしくお願いします』
環と目が合うと、何かを言って微笑んだ。
「あ、どうも、よろしくお願いします」
なんと返せばいいかわからず、当たり障りのない言葉を返す。この青年も距離が近いのを気にした様子を見せない。場所を空けるために環は少し奥の方へずれる。
リーダー格の男性といい、ためらいなく環の手を掴んだ女性といい、この世界はパーソナルスペースが狭いのかもしれない。
やがて御者席にがっしりした体型の男性が腰を下ろした。この人は明るい茶髪に、メッシュのように所々が黄色くなっている。目の色は逆光でよくわからない。
『それじゃあ出発するぞ』
『頼むわね』
『よろしくお願いします』
御者の男性が声をかけると、女性と青年が返事をする。御者の男性が、御者台と荷台の間を仕切る布を下ろした。これで荷台の中は外から目隠しされた状態になった。
ややあって、ゴトリ、と重たげな音を立てて、馬車が動き始めた。
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