中途採用アラサー魔術師

湯豆腐

第1話 異世界へ


 人生が一変する瞬間というものがある。

 天変地異や事件事故、はたまた宝くじで億万長者になる人もいるだろう。

 木津きづたまきの場合、それは地面からあふれ出た真紅の光だった。


 環はどこにでもいる会社員だ。今年で三十一歳。適度にくたびれた勤め人である。

朝起きて一日働き、休日は趣味にいそしむ。そんなありふれた独身者だった。

 

 この日は勤務先に他事業所の偉い人たちが来て一日中会議だったため、服装は常にないスカートスーツ姿だった。

 オフホワイトのサマージャケットと同色の膝丈のマーメイドスカート姿に、ジャケットの中は明るい緑地に細い白のストライプブラウス、空いた首筋には慎ましいダイヤのネックレスをしている。ピアスはブラウスに合わせて明るいペリドットを付けていた。

 ショルダーバッグを肩から下げ、ロッカーで履き替えたトレッキングシューズという、歩きやすさ優先のあまり人目を気にしない格好で、金曜の夜ということも相まって、若干の解放感と共に住宅街を歩いていた。

 ほどいた髪が生ぬるい風に揺れ、首筋を風が流れていく。


(ああ、疲れた……)


 今日が金曜でよかったと心から思う。

 会議が抜けられないために溜まった仕事を片づけていたら、いつの間にか十時を回っていて心身ともにくたくただ。 


(寝よう。帰ったらシャワーだけして寝ちゃおう……)


 夕食は会社のデスクで済んでいる。

 環が自室のベッドを思い浮かべながら歩いていると、自宅のマンションまで残りわずかという地点で、突然、足元から目が眩むほど強い真紅の光が噴き出てきて環はたじろいだ。


「なに……?」


 手をかざして目を庇いながら一歩下がって避けたが、またたく間に同心円に広がった光が環を飲み込み、そのまま夜空へと立ち昇った。

 目を開けていられないような強い光に、環はたまらず目をつむる。それでも目蓋の裏まで真紅に染まっていた。

 

 徐々に光が収まり目を開くと、景色が一変していた。

 夜道にいたはずの環は、ドーム状の広い洞窟に立っていた。赤色の岩肌全体が内部から光を放っているように明るい。

 そして、妙な格好をした数人の男たちが環の前に立っていた。


 環はきょとんと目を瞬いた。状況が上手く把握できない。

 ほんの数歩先に、環と同年代と思われる男が杖を両手に持って高く掲げ、興奮した笑い声を上げていた。


『やった! ついにやったぞ! ついに異界の門が開いた!! ふ、ふはははは、あーっははははは!!』


 長い灰色の髪を振り乱し、赤い目を血走らせ、聞いたことのない言葉で高笑いをし続けている。環の見間違いでなければ、男の赤い目の瞳孔は金色に光っているように見えた。裾の長い黒いローブ姿という服装も、時代錯誤で尋常ではない。


(……なに? 突然なんなの? この人たち誰? まわりに誰もいなかったのに……)


 環は突如現れた目の前の奇人に唖然として上手く反応できなかったが、高笑い男の背後の三人も、環と同じように唖然としていた。


 高笑い男と環は、膝丈くらいの高さがある円形の舞台上の中心で、淡く輝く赤い円の中にいた。

 その舞台のすぐ外側には、高笑い男と似たローブ姿の五十がらみの男がいて、この男も目の色が血のように赤く中心が金色に光っており、長い黒髪をしている。

 残る二人は少し離れた場所にいて、一人は金の短髪で皮か何かの鎧のような胸当てを着けたがっしりした体型のいかつい男と、すらりと背の高い、革ベルトで弓を背負った、淡い色をした長い髪の鋭い目つきの男がいた。

 全員まるで指輪物語のようなファンタジー映画の格好だ。


『オルドデューヴ! 貴様一体、何をしでかしたのだっ!?』


 五十がらみのローブの男が、高笑い男の襟元を掴んで食ってかかる。

 その声に我に返った環は、離れようと後ずさりして、腰が何かにぶつかった。

 振り返ると黒い石柱の台座だった。小玉スイカくらいの大きさの水晶のような丸い石が乗っている。

 その水晶の内側は禍々しい赤い色が渦を巻いていた。赤い渦の中心から赤い煙のようなものが上へ伸びている。赤い煙を視線でたどり、環は目を疑った。


 高い天井との中間あたりに、数メートルはありそうな円形の陣が描かれていた。四方と中央に何かの図形があり、それぞれを幾何学的な記号がつないでいる。それらを見たことのない言語が、線のように縁取っていた。

 まるでファンタジーものの映画で見るような魔法陣が、中空に浮いてゆっくり回転している。


「……なにこれ?」


 思わず呟いた声はかすれていた。

 住宅街に取って代わった洞窟、ファンタジー映画のような衣装、奇声を上げる変人、宙に浮いた魔法陣。


 環は手の甲をつねって夢でないことを確認した。これが夢でないなら、環がここへ現れたことになる。


(……異世界召喚、ってやつ?)


 そんな単語が思い浮かんだ。


(魔王を倒せとか言われたりする? その前にこれ誘拐じゃない? それに来週はちょっと忙しいんだけど……)


 まだ現実感が湧かない環は、上手く考えることができなかった。


『くっくっく。エーベリュック殿、ご覧の通り召喚術だよ。どうだ素晴らしい出来だろう。あっははは』

『予定していた魔術はどうしたっ!? なぜここに人間の女がいるのだっ!?』


 首を揺さぶられるままになっていた高笑い男が、眉を上げて馬鹿にしたような表情を作る。


『予定の魔術? 愚かなことを。この偉業がわからないのか? 異界からの召喚、遺失魔術の復活だぞ?』

『貴様、謀ったな! ただでは済まさんぞっ!!』


 顔を真っ赤にして激怒している五十がらみの男が渋い声で叫んだ。よくわからないが仲間割れをしているようだ。

 わかることは、およそ歓迎されているようではないこと。落ち着いて現状の把握をするためにも、ここから逃げた方が良さそうだ。訳もわからず殺されてはたまらない。

 環はそう考えて、目の前の二人から注意を逸らさないようにしつつ逃げ道を探す。


 その時、ずっと黙っていた弓の男が背後を振り返った。背負っていた弓を下ろし、矢を二本つがえる。いかつい男も腰裏から大振りのナイフを抜いた。

 環が二人の視線の先を見ると、矢の狙う先の岩肌にぽっかりと通路が口を開けていた。


(もしかして、この人たちを越えないと逃げられない感じ?)


『そこまでだ。追手が来たようだぞ』


 弓の男が、口喧嘩している二人に冷静な声をかけた。五十がらみの男が振り返る。


『くっ、撤退だっ! もうここに用はない! 全くの無駄足だった!』

『この女はどうする? 殺すか?』


 弓の男の問いかけに、怒り心頭の様子の五十男が憤懣やるかたない様子で環を見る。その視線の強さに環は身を硬くした。


『ふん、捨て置け。時間が惜しい。どうせ何もわかるまい』

『おい、ふざけるなっ! それは私の貴重な研究体だ!』

『黙れっ、貴様は審問にかける。ただで済むと思うな馬鹿者っ! タントルーヴェ、拘束しろっ』 


 口論していたかと思うと、いかつい男が突然、高笑い男を後ろ手に拘束した。


『何をする! 離せっ!』


 いかつい男は、わめいて抵抗する高笑い男の抵抗をものともせずに手際よく縄をかけていく。


 同時に岩肌に空いた通路から、武装した男たちがなだれ込んできた。

 その集団に向かって弓を構えていた男が立て続けに矢を放つ。続いて五十がらみの男が何かを呟いて杖を振るうと、黒い炎が杖の先から飛び出して、通路に向かって鞭のように襲いかかった。

 なだれ込んできた男たちは慌てて通路に戻ったり、横に飛んで黒い炎を回避している。


『退くぞ』


 五十がらみの男が声をかけた後、いきなり始まった戦闘に目を点にしている環を一瞥してから、舞台の斜め後ろに向かって駆け出す。

 その後ろを、わめく高笑い男を担ぎ上げた、いかつい男が続いた。

 最後のダメ押しとばかりに、弓弦を鳴らして複数の矢を放った男が素早く走り去っていく。

 そして男たちは広間の端にあった岩の切れ目のようなところに消えて行った。


(……え? ちょっと待って。なにこれ? 私どうしたらいいの!?)


 あざやかな逃げ足で、あれよあれよと男たちがいなくなってしまい、置き去りにされた環は我に返って慌てた。


(私も逃げた方がいい? それとも残って助けを求め……て大丈夫?)


 環は高笑い男たちが逃走した先と、新たになだれ込んできた一団を忙しなく見比べた。

 この新たに現れた男たちはまともだろうか? それとも逃走した男たちよりもっと危険な集団だろうか?

 判断する材料を持たない環がおろおろしているうちに、新たに現れた十人ほどのうち、三十代後半くらいの男性が指示を出して、半分以上が逃げた高笑い男たち追って行った。


 広場には指揮をしている男性の他に三人が残った。

 指揮をしているのは、背が高く首筋まである濃い金髪の男性で、たぶんリーダー格だろう。会社員である環のセンサーが役職持ちの雰囲気を感じ取った。

 濃緑色のマントと腰まである茶色のチュニックをベルトで絞め、右手に剣を下げている。下にはベージュ色のズボンを履き、足元は皮のブーツでキビキビとした歩き方をしている。


 その後ろには二人の若い男女がいた。

 一人は紫色の髪をした若い女性で、細い剣を持ち、上下ともにぴったりした黒い服のおかげで抜群のスタイルをしていることがよくわかる。胸と手首には革製らしい部分鎧をつけている。太ももにはベルトを巻いて、くないの様なダガーナイフを何本も下げていた。なかなか見ないくらいの美人だが、環はその奇抜な髪の色の方に気を取られた。


 女性の横にいるのは黒髪で背の高い青年で、リーダー格の男性よりもさらに背が高い。こちらは長い手足に見合った長い剣を持っていた。

 女性と似たような黒を基調とした服装をしている。ただしダガーは持ってなさそうだ。


 一番後ろには逃走した高笑い男と似た杖を持ち、ライトグレーのローブを着た、優雅な足取りの青年がいた。青みがかった銀色に見える長い髪の持ち主で、遠目にも秀麗な顔をしているのがわかったが、環はやはり青年の髪の色の方に驚いた。

 もう驚きすぎて何に驚けばいいのか、わからなくなりつつある。


 四人が環を見ながら小声で言葉を交わした後に、リーダー格の男性が呼びかけてきた。


『お嬢さん。その円陣から出てくるんだ。大人しく投降すれば手荒にはしない』


 よく通る声に威圧感はなく、高笑い男たちよりも話し合いができそうな気配を感じ取れるが、心から残念なことに、環には男性が何を言っているのか一つもわからない。首をかしげるしかなかった。


 その様子を見たリーダー格の男性が若者二人に声をかけ、短く答えたその二人が剣を下げたまま近づいてきた。そのむき出しの鋭利な刃物の光に環は怖気づく。


(これは、逃げた方がよかったかも……)


 今さらだが逃げ遅れたことが悔やまれる。無意識に後ずさった環は、存在を忘れていた台座にショルダーバッグをぶつけて止まった。


「あ……」


 一瞬だけ注意が逸れた直後、


『死にたくなければ動かないことね』


冷たい声音が耳元でして、首筋に冷たいものが押し当てられた。

 反射的にピタリと動きを止めた環は、ゆっくり視線だけを動かし、視界に細い剣を握る手と紫髪の女性を確認した。薄いアイスブルーの瞳が、無表情に環を見据えている。

 瞬時に距離を詰めた女性に、細剣を突きつけられていた。


(い、いつの間に……?)


 冷や汗が流れて、環は生きた心地がしなかった。身動き一つできず、さーっと血の気が引いていくのを感じる。


『マーティ、少し抑えろよ。殺気駄々漏れてんぞ。怯えてるじゃないか』


 緊張感のない場違いな明るい声が反対側からした。黒髪の青年だ。長剣は下げたまま、こちらもいつの間にか、すぐ近くにいる。


『ふん、投降しない相手に容赦しろっての? あんた馬鹿でしょ』

『お前の場合はさ、手加減してようやく普通の脅迫になると思うんだよ、俺は。今は殺害宣告にしか見えないんだよなぁ』


 ぽんぽん言葉を交わした後に黒髪の青年が環を見る。そこで青年の目が若葉色をしていることを知った。


『よう、あんた。悪いが拘束させてもらう。暴れないでくれよな』


 相変わらず一言も理解できないが、紫髪の女性より、まだこの青年の方が交渉の余地がありそうだ。そう判断した環は慎重に口を開き、刺激しないようゆっくり喋った。


「あの、私は怪しい者ではありません。気づいたら突然ここにいて……」

『あん?』


 青年が目をパチクリさせ、女性と顔を見合わせてから後ろを振り返った。


『おーい、ギムレスト。なんて言ってるかわかる?』


 声をかけられた銀髪の青年が首を振る。


『いいえ。聞いたことのない言語ですね』

『そっか』

『カイ、気をつけろよ』

『うっす』


 リーダー格の男性に言葉を返して、黒髪の青年が環に向き直りつつ、長剣を納めた。


『あんたの荷物を預かって、そんで手を拘束する。こうだ。いいな?』


 環のショルダーバッグを指差し、肩から降ろす仕草をした。次いで自分の両手首を何度か打ち合わせて見せる。

 環は殺されないために必死で青年のジャスチャーを推理した。


(たぶん……バッグを下ろして、手を拘束するって言ってる、のよね?)


 環の予想は当たりだった。

 青年がゆっくりショルダーバッグを触り、慎重に肩から外す。それから背後に回り、両手首を紐か何かで縛っているのがわかった。

 その間中、環は大人しく従った。

 首に刃物がある状態では抵抗しようなんて思いもしない。強盗に遭ったら大人しく財産を差し出す。海外出張する会社員の常識だ。


『おーし、そのまま大人しく歩こうか』


 青年に軽く肩を押されて舞台の端まで歩かされ、そこで床に膝をつく格好になった。滑らかに見える石床は冷たくて硬くて、ストッキングだと痛い。

 そうしてようやく首から細剣が離された。環は強張っていた肩の力を抜いて、震える息をついた。


(このまま痛い目に遭いませんように……)


 不安な面持ちで見守っている前で、赤い光が消えつつある円の中に、リーダー格の男性とローブの青年が入ってくる。黒髪の青年からリーダー格の男性にショルダーバッグが渡され、ローブの青年は真っ直ぐに台座の水晶に向かった。

 その様子を目で追っていた環は目を瞬いた。


(赤かった水晶が灰色になってる……)


 赤い色が渦巻いていた水晶らしき石が、ただの鉛色の石に変わっていた。環を捕まえた二人の若者は、環の両脇に立っている。


 リーダー格の男性はショルダーバッグを物珍しそうにしげしげと観察した後、近づいて来て片膝を落とし、環と視線を合わせた。

 濃い金髪に、まるで果物のオレンジのような色の瞳をしている。男性の精悍な顔が、気さくな笑みの形を作った。

 近くで見ると整った顔をしているのがわかる。美形というより男前という言葉が似あう容貌だ。環も通常なら会社員の心得である営業スマイルを返すのだが、非常事態の今はそれどころではなかった。


(……目の色がオレンジ色……)


 環は取り繕えずに落胆し、それと同時に確信した。

 赤い目の男たちといい、やはりここは別の世界だ。メラニン色素の働き具合が、地球とはかけ離れている。


『俺はレンフィックのギルドをまとめているヴィラードという者だ。ここら辺じゃ見ない格好だが、お嬢さんはどこから来たのかな?』


 リーダー格の男性は低い優しい声で環に話しかけた。尋問という感じはしない。環はぐっと顔を上げ、言葉が通じないのは承知で無実を訴えた。


「私は怪しい者ではありません。気づいたらここにいたんです。本当です」

『タルギーレの連中と何処で知り合った? それとも無理矢理連れてこられたかな?』

「先ほどまでいた赤い目の男を連れてきてください。彼が事情を知っているはずです」

『話さないなら、拷問して吐かせなくちゃいけないが、ひと思いに殺されるのとどちらがいい?』

「私は彼らとは関係ありません。ただの日本人です」

『うーむ。なるほど……』


 わかっていたことだが、言葉が通じた様子はなかった。環を推し量るように見ていたリーダー格の男性が、諦めたように立ち上がった。


『これは駄目だな。少しも理解できない。彼女も理解していない。つまりお手上げだ。というわけでギムレスト』

『お待ちください。こちらを調べる方が先です』

『わかりそうか?』

『……なんとも言えません』


 リーダー格の男性が、台座に張り付いているローブの青年の方へ行ってしまった。その後ろ姿に、一週間分の疲労も積み重なっていた環は、思わずため息をついた。

 言葉が通じないのは参った。無実の訴えができないではないか。


(ほんとになんなの? もう疲れた。寝たい……)


 黒いローブの男たちは犯罪者で、今いる彼らは警察のような立場なのだろうか?

 そう仮定した場合、犯罪者たちと一緒にいた環は仲間だと疑われているだろう。言葉も通じないのにどうやって身の潔白を証明すれば良いのか?

 下手をすると裁かれてしまう。それよりなにより、日本に帰れるのだろうか?


 次々に湧き上がる不安の中で、不意に環は刺すような強い視線を感じた。はっとして天井を見上げ、そこに見つけたものに体が固まる。


 中空に浮いていた魔法陣っぽいものは消えかけていたが、その魔法陣の中央に一本の青く光る線が現れていた。

 青い線は中心部分が左右に開かれていた。反対側から差し込まれた真っ白い人の手によって。

 開かれた向こう側は深紅の闇が広がり、そこから誰かが覗き込んでいるのがわかった。白い手の持ち主は見えない。だけど確かに、何者かの視線を感じる。


(殺される……?)


 環は理屈ではなく、本能的にそう感じた。見えないのが不思議なくらい強烈な殺気を受け、肌が粟立つ。

 一気に背筋が凍りつき、喉が干上がった気がした。喉元に刃物を突きつけられた時よりも強い恐怖に襲われる。震える足で無意識に下がろうとするのを、黒髪の青年によって止められてしまった。


『おっと、動いちゃ駄目だ。……ん? 大丈夫か?』

『どうしたのよ? あらら、真っ青じゃない』

「あ、あ、あれ、天井から、誰かが……」


 手が使えないので、覗き込んでくる青年と女性に目で訴えた。二人が環と視線の先を見比べ、不思議そうな顔をする。


『何もない、わよね?』

『ねーよな? どした大丈夫か?』


 二人の態度に環は不安になる。


(……もしかして私以外に見えてないの? それともこの人たちにはありふれた光景なの?)


 もどかしい思いの環をよそに、女性がローブの青年へと話しかけている。


『ちょっと、ギムレスト。彼女がずいぶん怯えてるんだけど、天井になにか見える?』

『天井ですか? おや?』


 ローブの青年が顔を上げて、疑問符を上げた。


『うっすらと儀式陣のようなものが……。何が描いてあるのかまではわかりませんが。ふむ、初めて見る魔術ですね。興味深い』


 上を見たローブの青年がなにやら感心しているように言うので、環はますます不安になった。


(あの人見えてるみたいよね? なのに平気そう。やっぱり、ごくありふれた光景なの?)


 本当はローブの青年にも見えていないのか、それとも想像通り彼らには当たり前の光景で驚くに値しないのか……。

どちらにしろ環にとってはなんの解決にもならない。


 唐突に恐ろしい視線を感じなくなり、環が恐る恐る見上げると、白い手も、深紅の闇もなくなっていた。

 ただ名残のように青い線が一本残っており、やがてそれも次第に薄れていく魔法陣と共に消え失せた。

 環は力なく座り込む。


(なんなのよ、もう……)


 環はうなだれて深い息を吐きだした。緊張の糸が切れてどっと疲れが両肩に圧し掛かっている。


(いっそただの夢ならいいのに……。憶えてないだけで実はもうベッドの中とか……)


 現実逃避だとわかっている自分が憎くて環は肩を落とす。心の底から家に帰りたかった。


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