雪女の氷心《Side: 美鶴木科戸》
気が付くと懐かしい光景が目の前に広がっていた。この光景を夢に見るのは、もう何回目だろう。別に呪いが再現する夢でなくても、何度も何度も繰り返し見てきた。擦りきれるほどに見たのにまだこんなにも鮮やかなリバイバル上映。
もう過去は変わることはないのに、ショート寸前まで考える。
あの日どうすればよかったんだろう、と。
ゴミ袋の山に埋もれて、衰弱と空腹で弱りきった身体は刻一刻と死に向かっていた。一日の内のほとんどは意識を失っていて、目が覚めたとしても最早動くことは出来なかった。身体だけじゃなくて心も重かった。心臓の中に張り巡らされた血管の中には血液じゃなくて、砂でも詰められたみたいだった。重くて息ができないくらいだった。
……どうしてあの日、私は外の声に耳を傾けたのだろう。
それまで意識していなかった、笑い合う子供達の声、我が子に話しかける母親の声、自転車のベル、犬の鳴き声、赤ちゃんの泣き声。そこに自分の居場所があるなんて考えたこともなかったのに。
どうして外に出ようと思ったのか。
死神の鎌に首を切られ、皮一枚を残してギリギリ繋がっているような状態のくせに。
どうして力を使ったんだろう。
祖母と過ごした雪山を離れてから、一度も力を使ったことはなかったのに。
……小さな蝶を作った。
衰弱した身体の中には術力がほとんど残っていなかったから、空気中の水分を凍らせて蝶を作り、自分の口の端にとまらせた。そして溶けだした羽から落ちた水滴を飲んだ。
……どうしてあの日、母親はあのアパートに帰ってきたんだろう。もう何週間も帰ってきていなかったのに。
どうしてあの日。
「何。それ」
感情の見えない平坦な声で母は言った。どう考えてもヒステリックな人だったと思うけれど、あの日は様子が違っていた。
『それ』が指し示しているのは科戸が作った氷の蝶だ。
「あんたが作ったの」
微かに頷くと、母は表情を変えた。
それは……恐ろしい顔だった。
いつも不機嫌な母親の、こんなにも怒った所は見たことがなかった。
「今あんたには術力がないのに、どうやって作ったって言うの」
科戸には説明出来なかった。
衰弱し過ぎて声が出なかったというのもあるが、何よりこれは母親には見せてはいけないと祖母に言われていたからだ。
雪女の異能は自分の術力を氷に変えること、目の前の水を凍らせること。目に見えないもの……空気中の水蒸気を凍らせて扱うことは普通はできない。雪女の一族でそれが出来たのは祖母だけだった。
……母は出来なかった。
そしてその事を何度もなじってしまったんだと、祖母は懺悔した。そしてその力を科戸が使えると分かった時、未来を恐れるように言った。
『幼いあの子の頑張りを全て否定するような言葉を使って、あの子を責め立てたんだ。だからもし科戸が母さんに会うことがあったとしても、絶対にその力を見せてはいけない。あの子はきっと、その事実を許せないだろう』
ガッ、と物凄い力で首を絞められた。
あっという間に酸欠になった脳味噌は視界を赤だか白だか明滅させて警告してくる。息をしろ死ぬぞ息をしろ死ぬぞ、ってチカチカ言ってくる。
その時、首にかかった母親の手に触れたのが……科戸が物心ついてから初めて握った母の手だった。母の手は滑らかで、柔らかくて、祖母と同じように氷みたいに冷たかった。
その手に触れた瞬間、馬鹿みたいだけど、科戸はもういいやと思った。ほんの一瞬、外に出てみたいと思ったけれど。やっぱりもういい。全部私が悪い。
多分この部屋から発見される子供の死因は窒息ではなく、首が折れたことによるものだろうなと他人事みたいに思った。
全部諦めて、目を瞑った。
ピチャッ、と何かぬるい液体が顔にかかった。そっと目を開けると目を見開いた母の顔。
その胸元を細い氷の刃が貫いていた。
「……お母さん?」
母親の手が科戸の首から離れ、後ろにひっくり返るように倒れた。
何で。
科戸じゃない。
科戸は攻撃してない。
胸を貫いている刃に手を伸ばそうとすると氷はすーっと溶けてなくなった。
「……ふっ、ふふふ、あはははははははは!」
突然母が壊れたように笑いだした。口から血が溢れるのにも構わず。手を伸ばす科戸を突き飛ばして。
「あの女!最後まで私の邪魔をする!最後まで!」
立ち上がり、玄関まで歩こうとする。
「一生!死んでも!地獄の底から恨んでやる、絶対に許さない!」
玄関にたどり着く前に転び、そこから動けなくなっても呪いの言葉を吐き続けた。
「私の人生を滅茶苦茶にしやがって!私が誰も愛せないのはお前のせいだろうが!」
母親は虚空を睨み付けながら、まるでそこに誰かいるかのように喚き散らした。
「許さない!許さない!許さない!」
科戸は呆気にとられていた。何が起こったか分からなかった。許さないと叫び続ける母の声が少しずつ途切れ途切れになり、嗄れ、やがて何も聞こえなくなった時。
這って母親の元までたどり着いた時、彼女は絶命していた。
「何で……」
そこに残る微かな痕跡に気付いて、科戸は深い衝撃を受けた。
「……ばあちゃん?」
科戸の祖母の力を感じる。ほんの少し。
しかしそんなはずはない。祖母は何年も前に死んでいる。科戸が死にかけたとしても、いくら祖母が心配性だからといっても、もう科戸を助けることは、
「……」
まさか。
科戸は自分の身体に視線を落とした。
左手の手首に自分の預かり知らぬ紋様が浮かび上がったいた。雪の結晶のような花弁のような複雑で美しい紋様は、目に焼き付ける前に、肌に溶けるようにして消えた。
……祖母は、優れた術者だった。雪女として雪や氷の扱いに長けていた。けれどそれよりもっと巧みだったのは……複雑な術式を織り込んだ時限式の術。
つまり呪術だ。
「……呪い?」
祖母が死ぬ直前に科戸を守るための術をかけた?
科戸を攻撃した人間に呪いが発動する?いや、これまでそんなものが発動したことはなかった。……生死にかかわる攻撃を受けた場合のみ?いや……分からない。発動条件が複雑に設定されている。今分かるのは、この状況をどうにかしないといけないということ。
……祖母の術が、母を殺した?祖母が娘を殺してしまった?
どうにかしなければ。
あの日……惨状を前に科戸の思考を占めたのは、どうにかして隠さなければ、だった。
自分のどこにそんな力があったのか。
歩けないはずの身体を無理矢理引きずって、洗い場を目指す。途中で床に埋もれていたパチンコの景品のライターを拾って握り締めた。洗い場まで到着するとシンク下の扉の取っ手を支えに何とか立ち上がる。水道の蛇口をひねり、ああ良かった水は止められてない……と安堵したのを今でも覚えている。
蛇口から流れる水を凍らせて、氷に頬を寄せた。
そうして小さな音なき声を聞く。
雪山にいた時からそうだった。力を使う時、科戸はこうやって対話する。科戸の知らないこと、分からないことは、いつもこうやって教えてもらっていた。
皆、震えていた。いや、震えていたのは科戸だったろうか。分からない。走馬灯か夢か空想か、それとも死後の世界なのか、もう分からないまま、正気など失ったまま、どうにかしなければという思いに突き動かされて、科戸は力を使った。氷を分解して、水素を取り出した。
そして火をつけた。
白い爆発が周囲を包み込み、科戸の
ぎゃあああああ!と断末魔の叫びが周囲に轟いた。
科戸は目を開ける。
そこは先ほど位空と歩いた迷宮の中。今度こそ現実だろうか?
「どうしていつもそんな無茶するの」
誰かの声がする。凍った心を撫でて甘やかすような、そんな声。
「悪い人を善良な人々から遠ざけたいんです」
答えなければ悪い気がして、科戸は夢うつつで答える。思っていたより頑なな声が出た。
「貴女が怪我するよ」
「私はいいんです、私も罪人だから。私もいつか裁かれ……」
幼子を黙らせるように人差し指が唇に触れた。科戸は瞬きする。指が触れた途端、考えが霧散した。……何の話だった?
「……百足の毒牙を自分に突き刺して呪いを受けたのはどうして?」
話してもいいよと言わんばかりに唇から指が離れていく。するとまた答えなくてはという気持ちになる。
「え……と、呪いというのは立証が困難で犯罪と認定するのが難しい。けど呪術とは決して安全地帯からノーリスクで対象を殺せる術ではなく、失敗すればより大きな反動をもって術者にはね返ってくる」
科戸に誰かと会話しているという認識はあまりなかった。独白に近かった。
「だから姿の見えない呪術師を殺すには自分が呪われるのが一番手っ取り早い。呪いを返せば決着がつく。それにあちらが私を呪ったことが立証できないということは、私が呪いを返して呪術師が死んだとしても証明できない。呪い返しは傷害や殺人未遂には当たらない」
「ああ……この前は一応自死によって呪いを成就させて無効化させたんだもんね?けど今回は
「そうです、それで……。……?」
「ねぇ、貴女は母親を殺したの?」
明日の天気を尋ねるような無邪気な声。私は今、誰と喋ってる?
「私は母親の……」
「うん」
「遺体、を……、っ!」
そこでハッと正気に戻って、目の前の誰かを目一杯の力で突き飛ばした。自分を優しく抱き寄せる腕から逃げようと必死でもがく。
「ああ、急に暴れると危ないよ」
それなのに科戸の力ではびくともしない。位空は科戸が落ち着くのを待ってから、そっと科戸を解放した。
「位空様」
「ねぇ、科戸さん。自分で呪術に打ち勝つ方法を考えて実践するのはとても立派だけど、呪い返しの間、貴女の身体は放っておいていいの?貴女は自分の身を守るということに関心がないから結界も張らないけど、そんな無防備な身体、暗示も洗脳もかけ放題で危ないよ?」
科戸の心臓が大きく跳ねた。
暗示?洗脳?
私は今、取り返しのつかないことを口走ったのか?誰が母親を殺したのか喋ったのか?……いや、言ってない。はず。
「科戸さん?」
「自白剤の使用は非人道的で、無効……証拠にはならない……です」
「はは、少し脳を揺らしながら語りかけただけじゃないか。……ほら、こっちへおいで」
ああ、もう……!
呼ばれるとふらふら足が動いて位空の腕の中にすっぽり収まってしまう。
「いいね」
満足そうに位空が頷く。そのまま科戸を俗にお姫様抱っこと呼ばれる横抱きにした。
「お、おろして下さい」
「何言ってるの。夢かうつつかも分からないくらい、どっぷり呪いに触れてきた後なのに。まともに歩くことさえ儘ならないだろう」
科戸は位空の胸を軽く押す。
「ん?」
「あの、位空様。ありがとうございます。でも私重いので」
「んー……天使みたいに軽いよ?」
それを言うなら羽みたいに軽い、であって天使はそれなりに重量があるのでは?
「放っておいたら直りますから」
「おや。そんな悠長にしてていいの?このかさんを助けにいきたいんだろう?」
「ん……っ」
「今なら
「……お願いします」
「良い子だ」
科戸は観念して、位空は勝利の微笑みを浮かべた。
(あれ?)
ふと胸が締め付けられるような痛みを感じて、科戸は瞬きした。
何だろう。
以前にも位空にこんな風に助けてもらった気がする。
……これも位空の術だろうか?親近感を持たせる為の暗示かもしれない。
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