毒と薬《side:深際このか ・玄葉ナキ》

 靄のかかったような意識の中で、ぽたりと何かが唇に落ちてきた。無意識に舐めとってみれば、それはとても甘い。

 一度口にすれば強烈に喉に渇きを覚えて、一滴などでは我慢出来ない。

(いいのですよ、我慢しなくて)

 誰かが囁く。

 唇に垂らされた蜜と同じ、甘い声で。

(本能のまま、啜ればよいのです。ここにはうじゃうじゃと餌が群がっているのですから)

 餌?

 ここ、って何処?

 夢うつつに屋敷を抜け出して、声に導かれるまま見知らぬ車に乗り込んだ気がする。そうしてふらふらとここまで来た。

「……」

 何か、とても大切なことを忘れている気がする。このかの根幹に関わるような、とても大事なこと。

(本能に従って)

(私が助けて差し上げます)

 そう囁く声。

 このかを甘やかす言葉。

 ……従って、いいのかな。本当に。

(このか様。とても喉が渇いているでしょう?本能に従えばよいのです。喉を潤してその渇きが満たされた時、貴方が吸血鬼として目覚めることができるかどうか……。もし覚醒しないのなら私が葬り去って差し上げますわ。今度こそ永遠に。あの方の血を……)

 あの方?

 ああ、頭が痛い。ズキズキとした痛みが深い思考の邪魔をする。

(このか様、力が必要でしょう?力がなければ何も守れませんわ?家族同然だという使用人も、大切なお友達も)

 力……?

(そう、無力なお嬢様。守られるばかりで、何も守れない。貴方が力を得る為には……他者から奪わなければ)

 違う。駄目、そんなこと。自分の為に他の誰かを犠牲にするなんてことは。

(貴方に力が無いが為に傷付いた人達のことを忘れてしまったのですか?)

 そう言われて、このかは目をみはった。

 そうだ。

 どうして忘れていられたんだろう。

 私が子供で、無力だから、科戸は危険な目に遭った。私にお父様のような吸血鬼の力があれば。

(かわいそうに。あの娘は呪翁の怒りを買ってしまいましたわ。今度こそあの娘は助からないでしょう。でも貴方に力がありさえすれば……奇跡を起こせるかもしれませんよ)

 奇跡……。

(それにもうすぐ貴方の使用人達が巣穴から出てくる。貴方を探しにね。強固な結界の外に出た者を一人、また一人と狩ってあげましょう……)

 止めて!

(さぁ、お嬢様。よく考えて下さい、大切な人達を守るためにはどうすればいいか!)


 本能のまま欲し、心の示すまま力を振え。


 耳元に毒を流し込まれて、このかは悲鳴を上げた。

 その瞬間、心の中で赤い炎が爆ぜた。



 ナキが植物園の中庭でこのかを見つけた時、このかは意識が混濁した様子でふらふらと歩いている所だった。

「……」

 様子は明らかにおかしいが、とりあえず姿を確認できたことに安心して、ほっと息を吐く。

 位空の暗示の効果で園内をうろつく人間はおらず、このかに声をかける者は誰もいなかった。しかしそれは彼女にとっても通行人にとっても幸いだったと言えるだろう。

 このかは遠目からでも分かるほど瞳を赤く充血させていた。

 これは飢餓状態の吸血鬼の特徴だ。

 こうなると手当たり次第、目についた者に襲いかかる。まぁ、その理屈でいうと遭遇したナキはミイラになるまで血を吸い取られる訳だが。

「よぉ」

 ナキはこのかに声をかけた。

 反応はない。 

 今、少女の心には他人の悪意の炎が燃え移っていて、彼女は逃げ惑っていた。悪意の炎の合間に助けを求めるこのかの小さな手が見える。

 ナキはこのかの前に立ち、その頭を乱暴に撫でた。

「何探してんだ。俺も探してやる」

「……え、さ?」

 幼い子供のような口ぶりで、このかが言った。

「餌?ここら辺の飯屋は今日は全部閉店だ。位空が客も従業員もみんな帰しちまったからな」

「……」

「たくさん、食べて強くならないと……。私のせいで、みんな死んじゃう……ママとパパみたいに……っ」

「死なない」

 ナキはそう言うがこのかは首を激しく振って、その場に踞った。膝を打ち、地面に擦れて身体中に擦過傷ができるのも厭わず、激しく首を振り続ける。

 もがけばもがくほど、このかの心の状態も悪化している。真っ赤な爆発がこのかの心を焼いている。このままでは少女の自我が崩壊してしまう。

 ナキは少女の傍に跪き、その手を取った。それからそっと自身の耳に当てる。

「あんたの言い分、全部聞いてやる。辛かったことも、怖かったことも、嫌だったことも、何でも。だからもう一人で泣くな」

 微かにこのかが目を見開いた。

 しかしその瞬間だった。ねっとりした女の声がした。

『あらあら、いけません。吸血鬼として覚醒するかどうかのイイトコロなのに、正気に戻されては困ります』

 声はこのかの肩の辺りから聞こえた。目を凝らすとこのかの肩に小さな蜘蛛が一匹とまっている。

「誰だ」

『ふふ、私は裁定を行い、そして見届ける者です。瑶一郎様の血の行く末をね』

「蜘蛛……貴島か」

 先程位空から伝えられた情報から推測すると、蜘蛛はため息を吐いた。

『情緒のない方ですわね』

「……ナ、キさま?」

 ややはっきりした声でこのかがナキを呼んだ。

「このか、大丈夫か。俺が分かるか?」

「ナキさま……お願い、駄目。早くここを離れて、ここにいたら貴方まで傷付けてしまう……」

 蜘蛛が肩から胸元に移動して糸を垂らす。

「私、今おかしいの。頭の中にたくさん声がして……痛くて、考えてることもバラバラで、おかしい……。誰も傷付けたくないのに、皆のこと餌だと思ってる自分もいる。首筋に牙を立てて、血を吸わないと……って。おかしい。嫌なのに、でも考えちゃう。自分が自分でなくなってくの」

『素晴らしいですわ、お嬢様』

 蜘蛛は小さな体から出したとは思えないほどの糸をどんどん吐き出している。空中をうねうねと漂う姿はサナダムシみたいで、気色悪いことこの上ない。

 寄生虫いとは大きな渦を描くみたいに旋回するとシュルシュルとこのかに纏わり付いた。

 首に、腕に、腰に複雑に巻き付き、ぴったりと乙女の身体を覆っていく。そしていつしかドレスになっていた。

『はぁ……』

 が溜め息をついた。

『こんなにも近くに瑶一郎様の血を感じることができるなんて……。ああ……でも今のお嬢様には白ではなくて……』

 ドレスが端から黒色に染まっていく。

『ああ……やっぱり!とてもお似合いですわ!』

 腹立たしいことにその言葉だけはナキにも否定できそうになかった。羽化したばかりの蝶が羽を広げるかのような瑞々しさと女王のような気品が混ざりあったこのかの姿は神秘的とすら感じる程の美しさだった。

『さぁ……お嬢様。吸血鬼の本能に従ってください。急激に成長した身体は何を欲しがっていますか?』

「……」

『うふふ、まだお分かりになりませんか?』

「!」

 ドレスから伸びた糸が素早く動きナキに襲いかかった。咄嗟に後ろに飛びすさるが腕に薄い線のような傷と微かな痛みが残った。

 糸は先に着いた新鮮な血を、今度はこのかの唇に塗りつけた。

『どうですか?』

「……」

『本能に従ってください。さぁ……』

 ちろりと動いた舌が唇にのった赤い汚れを舐め取った。 

「甘い……」

『そうでしょう?もっと食べたいですか?』

「ん……」

『では私の声を聞いて下さい。私の声だけを……』

「おい、勝手に舐めるな人の血を」

「あ……」

『酷い人ですわね。こんなにも貴方がお腹を空かせているというのに、こんな美味しいものを食べてはいけないと責めるなんて』

「このか。あんたには晩飯を食う場所がちゃんとあるだろ。帰ってやれよ、心配してんぞ」

『吸血鬼が本能のまま血を喰らうのは楽しくて、とっても気持ちいい事なんですよ。私ならそれを邪魔したりしませんわ。私は困っているこのか様を助けてあげたい……空っぽの貴方を満たして差し上げたい……。勿論私の血も飲んで。溢れる程グラスに注いで、心ゆくまで飲み干して下さい』

 ゴクリと、このかが喉を鳴らした。



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