雪女の氷心、さとります。

のむらなのか

ベッドサイドの吸血鬼《side:玄葉ナキ 》

 妖怪と呼ばれる存在が闇に潜んでいたのは、今は昔の話。

 いつの間にか妖怪は人の世に紛れ、時に害をなし、時に助け、争い、戯れ、迫害され、崇められ、交歓し……そしていつしか契りを交わした。

 いまや人口の半数に何らかの妖怪の血が混じっていると言われる時代である。

 『混血ミックス』と呼ばれる人々は普通の人間とほとんど変わりはない。その大半は高い妖力を持たず、ささやかな異能は個性として許容されている。


 けれど時折、危険な異能を発現させる者もいる。


 濃い妖怪の血が流れる彼らには定期的な診察と抑制剤の服用が義務付けられているが……それでも妖怪の本能が人の理性を食らう時、を受けることとなる。



 泥のように眠っていた。

 夜の海に沈んで、沈んで、沈んでいく心地。

(…………)

 もっと深く沈んで、どんな光も音も届かない海底まで落ちていきたい。

(…………)

 と、思うのに。

(……うるせぇ)

 声が聞こえる。

 眠くて、身体が重くて、いつまでも貝のように閉じていたいのに、はらはらと降ってくる声が眠りを妨げる。

玄葉げんばさーん」

 無視するに限る。

「玄葉さーん?」

「……」

「ねぇねぇ、起きてください」

 無視するに限る……が、くそ。駄目だ。うるせぇ。

 意識が無理矢理浮上させられていくのに比例して深いしわが眉間に刻まれていく。しかし声の主がそれを察して、自身の行動を反省して、立ち去る気配はなかった。それどころかこちらの反応を面白がっている。

 舌打ちをして、玄葉げんばナキは仕方なく目を開けた。

 すると視線を彷徨わせる必要もなく、ベッドの端に腰を下ろしてこちらを見下ろしていた少年と目があった。

 人間が想像で天使を描いたらこうなるだろうというような顔。よく見知った顔だった。

 そう頻繁に会いたくもない顔でもある。

 十歳程に見える少年だが濃いグレーのスーツを身に纏っていて、そしてそれが癪に障ることに当然のように似合っていた。

「やぁ」

 ナキは身体を起こし、ガシガシと頭を掻く。室内は冬の冷たい空気に満ちていた。

「何が『やぁ』だ。朝っぱらからうるせぇな」

「嫌だなぁ。うるさいと言う程騒いでないよ。玄葉さんが快適に目覚められるように枕元でドナドナを歌っていただけさ」

「いや、それがうっせぇんだわ」

 ふふ、と少年が笑った。すると陽光で染め上げたような神々しい金髪がさらりと揺れて、ぞっとするような美貌にようやく柔らかさが加わった。

「ちょっと待て。存在の全てが非常識過ぎて見過ごしそうになった。何でここにいるんだ、位空いそら

 九堂くどう位空、という名のこの少年の入室を許可した覚えはなかった。そもそも自宅に招いた記憶もない。勿論玄関も窓も施錠していた。

「でも僕この家の合鍵を持ってるからね。施錠してもね?」

「おい。渡した覚えはねぇぞ」

「渡したつもりはなくてもいつの間にか奪われている……か。恋みたいだ」

「純粋に犯罪だろうが。アンニュイに言って誤魔化すな、返せ馬鹿。そして出ていけ。二度と来るな」

「では返そう」

 位空はジャケットの胸ポケットから鍵を取り出し、とくに勿体ぶる様子もなくナキの掌の上に落とした。

「まぁ合鍵は何本でもあるから」

「おい」

「さて、鍵は返した。君の願いを聞いてあげたんだから今度は僕の言うことを聞くべきだよね?」

「狂ってんのか?」

 ナキはげんなりとした気分になる。

 どんな超理論だ。自分の家の鍵を取り返しただけで対価を要求されるとは。サイコ野郎の脳の構造は奇っ怪である。

 すると位空は何が面白かったのか……口の端を少し上げて微笑の気配を漂わせた。

「まぁまぁ細かいこと言わずに」

「……」

 この少年の周囲をうねうねと取り巻く腰巾着連中ならば、ここで陶然と頷くのだろうか。

 確かに細かいことを曖昧にして、どうでもよいと感じさせてしまう程の麻薬みたいな微笑であったのかもしれない。

 向ける相手が間違っているが。

「その詐欺師みたいな笑顔を俺に向けんじゃねぇ」

「僕にそんな口を利くのは君ぐらいのものだよ」

「言ってねぇだけで思ってる奴は腐るほどいるからな絶対」

「うん。だからね、普通は言わないんだよ?心で思ったことをそのまま口と表情には出さない。社会性って知ってる?君って言語を獲得したばかりの幼児くらい素直だよねぇ。あ、褒めてるよ?」

「いちいち腹立つなお前は!」

「君が一番知っているはずなのになぁ、って。人間の建前と本音が違うなんてことは。さとりなんだからさ」

「……」

 ちっ、とナキは舌打ちを返した。

 そう、ナキはさとりの混血だ。しかも一般的なさとりのように他者の心の声を『聞く』だけではなく、他者の心を『視る』ことができる。

 それはより精度高く他人の心中を知れるということを意味している。

 心の声を『聞く』だけで全てを知れるような気がするが、そうではない。例えば心の中で「死ね」と呟く者は多いが本当に心の底から死ねと思っている者は少ない。それは瞬間的な感情の発露であって本心という訳ではないからだ。

 心は幾層にも重なっていて、他人を知るにはまず観察し、深く潜り、味わい、解き明かしていかなければならない。それには心を視る力が必要不可欠である。

「……何で人間が本心と建前を使い分けるか知ってるか、位空」

「ん?」

「人間関係を円満かつ円滑に進める為だ。俺はお前とそうなりたいなんて全く思ってない。そんな訳でお前に対して取り繕う態度なんぞ持ち合わせてねーわ」

「つまり……やはり君は僕にとって貴重な宝石という訳だ。嬉しいな」

「お前とは全く会話が成立しねぇな」

「え?してるよ?」

「今だかつてお前と話が噛み合った覚えはない」

「じゃあ奇跡だね。それほどまでに反りが合わない僕らが十年以上一緒にいるんだから。それって奇跡だし、運命的とさえ呼んでいいかもしれない」

「目的が同じってだけだろ。好きでつるんでる訳じゃない」

 ナキは胡散臭そうな視線を少年に向けた。

 本当に見た目だけは、背中に真っ白な羽がないことが不思議に思えるほど清らかな雰囲気持っている。ただし……中身までそうとは限らない。

 溜め息をついて、目を閉じた。それからゆるゆると目蓋を持ち上げる。

 景色が一変した。


 漆黒だ。


 無垢な純白も、鮮血のごとき赤も、太陽を思わせる金色も。

 何もかも塗り潰す……夜を煮詰めたかのような漆黒。

 それをこの少年は纏っている。覆われて、隠されて、どこに心があるかも分からない。

この少年は……いや、少年に見える生き物は吸血鬼ヴァンパイアと呼ばれる特別な妖怪だ。

 ナキは視線を外しながらうんざりと呟く。

「数百年生きるとこうも歪むもんなのか……。もう手の施しようがねぇな」

「聞こえてるよ。失礼だな」

 勿論心を剥き出しのまま生きている人間はいない。どんなに無邪気そうに見えても多少は武装して他人に対峙している、誰しも。しかしこいつの場合は武装どころではない。

 隠して隠して……他人がその心に触れることは不可能……それどころかもはや位空本人さえ心の所在を把握していないのではないか。そう思う時すらある。

 ナキほどの力を持つさとりであっても、この吸血鬼の心を見つけるのは容易な作業ではない。何しろあのヘドロみたいな重い闇をかき分けていかなければならない。迂闊に心を読もうとすれば迷って帰ってこられなくなるか、窒息して死ぬんじゃないかと思う。

「……」

 ナキは再び目を閉じた。

 そうして目を開けた時、闇は見えなくなっていた。目の前には美しい少年がちょこんと座っているだけである。

「勝手に僕を『視て』、失礼な評価を下していたように見えたけど」

「いや、別に?」

 体内を流れる妖怪の血の濃さによって多少寿命が延びることはあるが、基本的に『混血』は人の範疇を超えることはない。老いて、百年ほどで死ぬ。

 しかし吸血鬼は違う。

 彼らの寿命は五百歳ほどと言われている。なかでも特別な古い血を受け継ぐ吸血鬼は千歳を越えることもあるとされ、彼らの始祖である吸血鬼はなんと三千年もの時を生き永らえたという。

 位空が何歳なのか、ナキは知らない。少年の姿をしているが外見から推測される年齢など吸血鬼には無意味だ。こいつらは姿などいくらでも変えられる。

 吸血鬼は混血ミックス溢れるこの世界で特別な役目を担っている。

 吸血鬼はこの世に平穏をもたらす存在。

 しかしナキは吸血鬼が死ぬほど嫌いだった。

「なぁ……」

「ん?」

「用がないならとっとと帰ってほしいし、用があるなら済ませてとっとと帰ってほしいんだけど」

「君って時々身持ちの固い……というか、自意識過剰気味に男を警戒する生娘みたいな反応をする時があるよね?」

「無駄口叩くなら帰れ」

「あ、うそうそ。用ね。勿論あるよ」

 にっこりと笑う位空を見て、ナキは嫌な予感しかしなかった。



「えーと用件というのはね、いかがわしい商売をしている玄葉さんに依頼を持ってきてあげたんだよ」

 身支度を整えたナキが探偵事務所としても兼用している応接室に顔を出すなり、位空はそう切り出した。

「へー」

「おや?『いかがわしい』は否定しないの?」

「俺がやってるのはただの探偵業。それがいかがわしくなるのは胡散臭い依頼人がいかがわしい依頼をもってくるからだろ。お前を含め」

「今回の依頼人は僕じゃないのさ。僕は仲介を頼まれただけ」

「ああ、いかがわしい筋の……」

「失礼だな。ないよ、そんな筋」

 むしろ無いわけないだろ、と思いつつ、ナキはキッチンで用意してきたコーヒーを片手にソファーに腰を下ろす。向かいに座っていた位空が首を傾げた。

「僕の分は?」

「吸血鬼様にインスタントコーヒーなんて飲ませる訳にはいかないという俺の気遣いだろ」

「なるほど。じゃあコーヒー以外のものをいただこうかな」

 吸血鬼の、にこやかだが隠しがたい冷たさを宿した瞳がこちらを見た。視線の先にあるのは自分の首に巻かれたチョーカーだろう。

「それを外してごらん。噛んであげる」

 ズズズーとナキはコーヒーを啜る。

「知ってる?血って一人一人味わいが違うんだよ。甘み、濃度、コク、まろやかさ、香り……君は甘さはないけどコクと香りが素晴らしい。珍しく僕が美味しいと感じられる一品です」

「一品とか言うな」

「吸血行為の際はね、牙から鎮痛効果と多幸感を得られる麻薬のような成分が出てる。君も何度も噛まれているからその感覚は知っているでしょう?敏感な子は噛まれた瞬間に身体をビクビク痙攣させて、背中をしならせて、噛み殺せなかった嬌声を唇から溢す」

 位空の翡翠色の瞳が微かに赤みを帯びた。

「首筋を垂れる血液を舐めとって、指先で背中をなぞれば、それだけでもう立ってはいられない……」

 にこっと位空が笑った。

「どう?噛まれたくなった?」

「いや、ただただ殴りたくなったんだが…」

「えー何でだろう?やっぱり君って変わってるなぁ……絶対首から吸わせてくれないし。君はいつも手首からだ」

「当たり前だろ。気色悪い。現代の吸血鬼が首から血を吸うのは原始的な行為の名残っつーだけで合理的な理由は何一つないだろ。お前らのご先祖様が地上という狩猟場で無双されてた頃は、首から仕留めて素早く獲物の息の根を止めるのが目的だったんだろうけど。

頸椎の離断、窒息、動脈損傷……あらゆる可能性を握られてるってのは気分が悪い」

「君って難儀な性格をしてるんだねぇ……」

「お前にだけは言われたくねぇんだよ」

「まぁそんなに心配しなくても大丈夫。僕らも長い生の中でそれなりに進化をしてるから。先程話した牙から特殊な成分を出すこともその一つ。恐怖にひきつった血は舌触りが悪いことを学んだわけだ。気持ちよくして蕩けさせた方が甘く香り高いとかね」

「……」

「それに人間社会と共生していく為の努力もしているでしょう?僕らは血を飲むけれど、それは社会から許された……むしろ相手からお願いされての行為なんだよ?」

「俺は全く頼んでない」

「そう、君はいつも無理をする。頑張り屋さんだからね。でも人の心を悟りすぎて辛い時は僕に言ってくれていいんだよ?そうしたら君の中の妖怪の血を少し抜いてあげる」

「……」

「いい具合に鈍くなれると思うけどな」

 そうだ、こいつら吸血鬼という生き物はかつて無慈悲に血を奪ってきたくせに、今は社会から有り難がられている。混血ミックスの中でも妖怪の血が濃すぎて他人に害を及ぼす者達から、妖怪の血だけ奪うからだ。そうすることで正気に戻し、社会の敵を取り除く。それができるのは吸血鬼だけ。こいつらはいつの間にかそういうことができる立場を確立して、有り難がられて、崇拝すらされている。

 けれど、とナキは思う。

「お前らは血を啜る時、相手の思考を溶かす。快楽を植え付けることで、また噛まれたいと思わせようとしている。お前はそれを進化と言ったが、俺から言わせれば吸血鬼は血を啜るだけに飽きたらず脳みそを溶かして啜るようにもなった、というだけだ」

「ふふ」

 相変わらず何が楽しいのか、どこが笑うポイントだったのか、位空が笑い声を溢した。

「……君達が全身美味しくなったのが悪い」

 本気とも冗談ともつかぬ口調でそう言って、胸ポケットから取り出したスマホの画面を眺めた。

「あ、到着したみたいだよ」

「何が」

「今回の依頼人」

「もっと早く言えよ」

「説明しようとしたのに。玄葉さんと話してると無駄話が長くなる。君は理屈っぽいから」

「お前がまわりくどい上に余計な一言が多いんだよ」

 ピンポン、と間の抜けた音で依頼人とやらの来訪が告げられた。

「さぁ、お客さんだよ。出て出て」

 促されて、納得いかないもののナキは立ち上がった。

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