未設定。

第1話 蝉

息絶えている。

蝉の亡骸がベランダで倒れ伏しているのを発見してしまい、思わずため息が漏れ出た。別に蝉自体が嫌いなわけではない。虫の死体の処理は難しい。ゴミ袋に詰めるのには多少の罪悪感が伴うしベランダから投げ捨てるのも何か間違っているような気がする。そもそも死に場所を間違えすぎている。なぜこんな高所に上り詰めてから寿命を全うしたのだろうと疑問が尽きることはないがそれに応えるものもない。薄い壁の向こうの住人に聞こえるほどの大声でない限り、独り言が誰かの耳に届くことはない。

一人暮らしとはそういうものだ。

そこに寂しいとかいう感情が割り込むことは、ない。


冷凍パスタが解凍されるまでの時間、今日も家で一人死にたがりの曲を聴く。最近の冷凍食品はよくできている。調理とも呼べない簡単な加熱を施せばそれなりに美味しく食せる上、その分有害な添加物が多く入っているなんてこともなく、それゆえ無理に苦手な自炊に挑戦なんてする必要はない。少食の上に料理をまともにこなしてこなかったからか、ここに至るまでに多くの食材を無駄にしてきたからこそ、余計に自炊への意欲が失われていた。食欲がなかった。空腹でない時に腹に食材を無理やり詰め込む意義がわからなかった。甘いものも食べなくなった。昔はあんなに好きだったのに。

昔?


幸せな物語が嫌いになった。現実はこうもうまくいかない。大団円なんてもってのほかだった。残り数ページでこの人生に怒涛の展開が待っているとも思えなかった。同様に、幸せ全開のラブソングも聴かなくなった。こうやって嫌いなもの、許せないことが増えていくのが大人になるということなら、このまま一生大人にならなくてもいいとすら思えた。

一つ嫌いになるたびに、そんな自分がまた一つ嫌いになってしまうのだから、それなら最初から目を瞑って見なかったことにすればいい。そのほうが楽だし、誰も傷つけなくていい。


昔のことを思い出すことが多くなった。忘れたい記憶のこと。昔の話。

今日も、あの子の神様になれなかった日のことを考える。考える。

蝉の死体は今もベランダの床に転がっている。あれから一週間が経った。

ベランダに広がる雲ひとつない青い空を初めて憎いと思った。

目を閉じればなんでも許される気がした。

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