彩づく想い

吉永綸子

彩づく想い

 田んぼの中心を真っ直ぐに伸びる畦道あぜみち。そよ風で波打つ田んぼを、僕は海を割るモーゼのような気分で歩いていた。


 紗鞍町さくらちょうは豊かな自然をたたえる小さな田舎町だ。特に紗鞍山をキャンバスにして四季が織りなす鮮やかな色は壮観だ。春は桜が咲き誇り、夏は生命力のある緑に輝く。秋には紅葉が真っ赤に燃えて、冬には薄っすらと雪化粧。


 僕はこの紗鞍町が大好きだ。だけど、この町がもうすぐ完璧ではなくなることを思うと、やはり胸が痛んだ……いや、正確には背中に何かが当たった。


「いたっ……」

「たっくん、何してんの?」


 後ろを振り向くと、同級生のかえでちゃんが立っていた。どうやら楓ちゃんの手に持っている体操服袋きょうきが飛んできたらしい。


「ぼんやり歩いてると邪魔だぞ、たっくん」

「ごめんごめん……」


 僕が物思いにふけって一人幅の畦道をのろのろ歩いている間に、後ろから来た楓ちゃんが道につかえていたようだ。


 僕と楓ちゃんは菱木ひしき高校の同級生で、畦道の向こうの集落に住む幼馴染だ。通学に近道のこの畦道は土が柔らかく自転車では通れないため、僕たちはいつも田んぼの手前の駐輪場(と言っても空き納屋だけど)に自転車を置いてこの畦道を歩いて帰る。


「そういえば、たっくんは、高校卒業したらどうするの?」

「僕は一応、県立理科大を目指してる……」


 紗鞍町には中等学校以降の教育機関はなく、紗鞍中学の生徒はみんな隣町の菱木高校へ進学する。そして高校卒業後にとうとう地元に残るか、離れるかの決断を迫られるのだ。気が向いたら気軽に帰省できる距離の大学は、ここから電車を乗り継いで一時間半の県立理科大だけ。これが僕の選択肢だった。


 一方で楓ちゃんは東京の大学に進学する。東京で一人暮らしの叔母宅から通える名門大学を目指しているのだそうで、きっと楓ちゃんの成績なら申し分ないだろう。


「あ、そうだ!久しぶりに秘密基地に来る?」

「うん、行きたい」


 とは楓ちゃん家の築90年の「蔵」のことだ。文化財と言われれば信じてしまうような立派な木造の蔵には、所々その雰囲気にそぐわない楓ちゃんのファンシーな私物が置いてある。そういえば中学生の頃まではよくこの秘密基地で一緒に漫画を読んでいたな。高校に進学してからは、お互い部活動で忙しくて秘密基地で遊ぶことも減ったけど、こうして下校中に会った時は一緒にご飯を食べたりしている。


「いつもの、あるよ」


 そう言うと楓ちゃんは、木棚からカップ麺を二つ取り出した。赤いきつねと緑のたぬき――これが僕たちの定番だ。毎回例外なく僕が赤いきつねで、楓ちゃんは緑のたぬきを選ぶ。


「天ぷらとそばの相性が一番なのに」

「いや、フカフカのお揚げこそが至高だよ」


 楓ちゃんがかやくを入れている間に、僕は楓ちゃん家の居間で電気ポットを拝借して、二つ並んだカップにお湯を注ぐ。知り合いの家に勝手に入るのは紗鞍町では当たり前の光景だけど、楓ちゃん、東京でお隣さん家に勝手に入ったりしないだろうか、知り合ったばかりの人のドアノブにおすそ分けを掛けていったりしないだろうか……なんて心配をしていたら、あっという間に5分経っていた。


 ふわっと白い湯気と共に、香り立つかつおだし。フタを開けると赤いきつねのお揚げが姿を見せる。楓ちゃんは既に食べ始めている(緑のたぬきは熱湯3分待ちだからね)。天ぷらが崩れないように、そばを器用にスルスルと薄桃色の唇に吸い込んでいく。


「ああ、美味しい~」

「僕もいただきます」


 ゆるやかなちぢれ麺をすすれば口の中にかつおの風味と旨味が運ばれてくる。お揚げをむ度にだしが溢れ出てきて「幸せしみる」とはまさにこのことだと思った。


「東京に行ったら味も変わっちゃうね」

「どういうこと?」

「赤いきつねと緑のたぬき、地域によってだしが違うんだって」

「へー、じゃあ東京のを送ってあげるね」

「楽しみにしてます」


「たっくん、東京23区と全国の政令指定都市の人口の合計って知ってる?」


 楓ちゃんが突拍子もないことを聞いてくるのは昔からだ。


「知らないけど……」

「だいたい3600万人だって」

「そうなんだ」

「つまり日本人の3.5人に一人は都会人なんよ」

「うーん、全部が都会ってわけでもなさそうだけど……」

「嫌味かね、この都会育ち!」


 二度目の体操服袋きょうきが飛んでくる。僕は横浜で生まれたけど、その翌々月には紗鞍に引っ越してきたぞ。


「……でもさ、紗鞍みたいな蛍の棲む川とか、満天の星空とか、彩(いろ)づく山が見られる場所に住んでいる人は、きっと一握りしかいないと思うんだよね」


 楓ちゃんは蔵の小さな窓から外を覗いている。その先にはきっと僕の見えない景色が見えているのだろう。


「私、紗鞍町の環境を守りながら、日本一有名な観光地にするんだ」

「日本一?」

「東京で環境生物学とエコツーリズムを学んでくるから」

「エコツー……?」

「エコツーリズム。とにかくそれを勉強して帰って来るから」

「帰って来るって……紗鞍に?」


 楓ちゃんは視線を窓からこちらに移して、コクッと頷いた。窓から差す光に照らされた楓ちゃんは、桜の精のように美しかった。


「やっぱり紗鞍がいいよ。自然はあるし、たっくんもいるし」

「へ?」

「だからそれまで紗鞍を頼んだよ、たっくん」



「うん、任せて」


 それから僕は照れ隠しをするように、カップに顔をうずめて麺をすすった。紗鞍町さくらちょうはきっといつまでも変わらずに完璧な町に違いない。

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