第22話 独りの少女
湖畔に一人の少女が佇んでいた。普段は彼女を護るために控えているはずの女騎士の姿はどこにもない。正真正銘、彼女は独りであった。
「結局、まだ何も出来ないまま……」
だから、これはただの独り言。
「『自分が動いたからと言って、周りがそれに合わせてくれるわけじゃない』っか、お父様の言っていることはわかっていたつもりですが……今になってようやく理解できました」
少女は呟いた後で俯くと、湖に映る自分の姿が目に入った。
「ほんとに、見た目が良くて成績も優秀、さらには公爵家の生まれだっていうのに、私の手からは何もかもがこぼれ落ちて……」
はぁ、と吐いたため息は水辺独特の冷えた空気に混ざって消えた。
「婚約者に、学園での評判、それから自身。ほかにも色々と失くしましたけど……」
少女はすっくと立ちあがり。
「まだまだこれから、ですわ!」
気合を入れなおすように小さく両の拳を握りしめた。
そうして彼女は、水を汲んでから野営地へと戻り始めた。
今日は王立学園の遠征日。彼女たち学園の生徒たちは、ルダス湖の
監督やいざと言うときのために教師はいるが、護衛や使用人は一切連れてくることが出来ない。
だから彼女もテントを一人で張って、湖で水を確保し、少し休んでから魔物を狩りに行くつもりだった。
少女が水瓶をテントに置いて腰を落ち着けたところで、俄かに野営地が騒がしくなった。
テントから顔を出したところ、野営地の一角に人が集まっている。それに興味を覚えぬ少女ではなかった。何事かと近寄ったところで、何人かの生徒が声をかけてくれる。
「あら、ベルタ様もこの騒ぎが気になりまして?」
少女―ベルタ・ファルツ嬢の登場に多くの生徒が気づき、皆が道を譲る中、それについて前行こうとする図々しい女生徒がわざとらしく声をかける。
「なんでも、物珍しい魔物が狩れたらしいですよ」
「トカゲをでっかくして頑丈にしたやつだとか」
「いや、あれは手足の生えた鎧蛇といったところだろう」
その声に反応して道を開けてくれた男子生徒たちが口々に説明してくれる。
「おお! ファルツ公爵令嬢!! どうかご覧ください!! この俺!! エーベル・レンバハの仕留めた珍しき魔物を!!」
ようやく最前列に来たベルタが目にしたのはおよそこの国では見ることの出来ない魔物だった。
「その魔物……」
見たことの無い魔物だった。頭の先から尻尾まで含めて人の身長と同じくらいの大きさだ。大型のトカゲと言われればそうだが、トゲトゲとした鱗に、長く大きな口、そして短い手足に、どっしりとした平べったい胴体に力強そうな太い尻尾。
だが、ベルタはその正体を知っていた。
「ボレアダイル、と言ったはずです」
「おお! ご存じなのですか!?」
「ええ、南方の沼地に住む魔物です。本でしか見たことはありませんが人を丸呑みに出来るほど大きく、生命力がとても強くて首を斬り落としても頭だけでも動くと記されておりましたわ」
その言葉にどよめきが生まれるが、仕留めた生徒はむしろ胸を張って堂々と。
「はっ、そのような魔物であっても私からすれば武勲の一つでしかないというところでしたね」
言い切った瞬間。ぱちり、とボレアダイルと呼ばれた魔物が目を開いた。
「ほおおあああああ!!!???」
途端に腰を抜かしたようにスっ転んだ生徒を横目に、ボレアダイルは鳴いた。ティウン、ティウンとまるで誰かを呼ぶように鳴き続けていく。
「あら、意外と可愛らしい声ですわね」
女子生徒の誰かがそう言ったのを皮切りにどこか弛緩した空気があたりを支配し始めた。
「ほおおああ、だって」
「う、うるさい!! 死んだと思っていたものが生きていたのだ! 驚くだろう!」
「それにしても、これだけ傷だらけでよく生きてられるよなあ」
「もしかして痛すぎて泣いているのか?」
「ふん! 今度こそ確実に息の根を止めてやる!」
そう言って、ボレアダイルをここまでひっぱて来た生徒が剣を引き抜いた。
「ゴオオオォォォ」
そこに低く重たい声が響いた。
「おい、何の音だ、今の」
「水辺の方から聞こえたぞ」
口々に話す声が聞こえ。
「きゃああああああ!!!!」
「うわああああああ!!!!」
すべてが悲鳴に塗り替わった。
水辺の方からここにいるボレアダイルの十倍は大きな姿が群れをなしてやって来ているのだ。
ベルタもその光景を見て大声を出しそうになったが、グッと堪えた。
「みなさん、逃げてくださいませ!! 逃げて!! このことを教師へと知らせるのです!! 急いで!!」
その一言が引き金になった。
生徒たちはワッと一斉に動き始めた。そのせいで、あちこちでぶつかったり、転んだりして逃げ遅れる生徒が出始めるのをベルタは見た。
あっと、思った時にはもう遅い。
ボレアダイルの群れは大きな体のくせに俊敏で一気に距離を詰めて来ており、今から立ち上がって逃げ出したのではとても間に合わない。
そう思った時にはベルタは腰に差していた杖を抜き放っていた。
「炎よ!! 眼前の敵を貫きなさい!!」
直後、槍と化した炎が幾本もボレアダイルの群れの前に突き立った。地面から炎が立ち上がり、群れの足をわずかばかりに止めて見せた。
「早く!! お立ちになって!!」
稼ぐことの出来た貴重な時間で、ベルタは地に伏せていた生徒たちに声をかけた。
「あ、ああ」
「ありがとうございます、ベルタ様!!」
「お礼はいいですわ!! 早くお逃げになって!!」
「でも、ベルタ様は!!」
「大丈夫、これでも私、ちょっとは戦えましてよ」
いつも通り大胆不敵に笑って見せてベルタは正面を向いた。その背後では先ほどまでいた生徒たちが駆けて離れていく音が聞こえる。
「上手く笑えていたでしょうか」
婚約者が他の女に声をかけられても、婚約者が居なくなった後でも余裕を持って笑えていたのだから、きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて、ベルタは杖を握りなおした。
「薙ぎ払いなさい!!」
群れの前で燃え立つ炎に命じると、地を這う群れを横薙ぎにせんと炎がその形を変えた。刃となった炎はその身体でボレアダイルを引き裂こうと迸る。
対してボレアダイルの群れは足を止めたまま、何頭かが口を大きく開いていた。そして炎刃が斬り付けるその瞬間、ボレアダイルの口から大量の水が噴き出した。
ボンッ!!!! と巨大な音とともに水も炎もたちどころに消えてなくなり、代わり大きな衝撃が生まれてあたりを打ち据えた。
「きゃあ!!」
それは離れていたベルタを吹き飛ばすには十分な威力を持っていた。衝撃に薙ぎ払われて宙に浮いたベルタは受け身の取り方をよく知らなかった。
「かっ!!」
だから、無様に背中から落ちた。肺に残った空気が無理矢理排出されて、背中から落ちたショックで空気が取り込めずにぱくぱくと口を開け閉めすることしか出来なかった。
呼吸が止まったせいでろくに身体を動かせなくても、ベルタの頭は少しだけ動いてくれていた。でも、出来るのは状況把握と少しでも息を取り込もうとあがくことだけ。頭のどこか片隅では、もうすぐ死ぬんですね、なんてそんなことを冷静に思っていたりなんかして、ベルタは泣いた。
(ああ、泣くなんていつ以来でしょうか)
ベルタには泣いた記憶が少ない。それこそ小さな、赤ん坊のころはよく泣いていたに違いないのだけれど、公爵家の一人娘としての身分と王子の婚約者としての立場を理解したその日からベルタは泣くに泣けなくなっていった。
それでも、今は涙が滔々と溢れてきた。死の恐怖からではない。とベルタは思っている。だって、頭が働かない。怖いとも思えない。
ただ、思いとしてあるのは。
「自分、らしく、生き、て、みたか、った」
わずかに取り込めた酸素を消費して吐き出した無念だけだ。
もうベルタの眼前に、ボレアダイルが迫ってきている。大きな口を開けて、さらに近づいて来たその一頭は。
「ベルタ嬢!! ご無事ですか!?」
頭上から降ってきた真っ黒な鎧を着た騎士に踏みつぶされて、剣を突きたてられていた。
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