5 最後の国の王
弟が生まれたとき、不思議なくらい、負の感情がわいてこなかった。
エイリックは王になるためにつくられた子どもだ。物心がついたころにはすでに、それを朧げには理解していた。そういう自分が、愛の中で生まれたはずの弟に対して、どういうわけか少しも嫌な気持ちになることがなかった。
今ならわかる。
生まれたばかりの小さな命を包む空気は、あまり幸福そうではなかったのだ。一月後には城を出されることが内々に決まっていたし、出産を終えた王妃の体調は思わしくなく、父は対応に追われて駆けまわっていた。
たった一月しか親元にいられない弟のその傍らに、彼の両親の姿はなかった。小さな弟は、世話を任された大人たちに囲まれていても、ひとりぼっちだった。
エイリックは、時間の許すかぎり弟の傍で過ごした。
当時七歳そこそこだった彼は、自分の中に生じたものの名前など、いちいち意識することはなかった。けれど、それはたしかに愛情だった。
だからこそ、父に名前をつけてやってほしいと頼まれたとき、とても嬉しかった。
それは、城を離れる弟に、唯一持たせてやることができる、絆の証だったから。
「今日は、話せてよかった」
エイリックがそう言うと、レヴィンは困惑したような表情を見せた。
「ほとんど僕が喋ってしまったから、君の望む話はできなかったかな?」
「いえ。あなたのことを知りたいと思っていましたから、お話を聞けてよかったです」
静かに答えたレヴィンは、戸惑いから淡い笑みへと表情を変えた。それはおそらく意識してつくられた微笑みだったが、この場を綺麗に終わらせるための、彼なりの気遣いだとエイリックは感じた。
結局この弟は、悲しいくらい従順で優しい。この面会でレヴィンが手にしたものは、しがらみだけだ。彼が望んだものはなにひとつ手に入る兆しが見えないまま、兄を憎みきれないという余計な枷を背負うことになった。自分の願いを踏みにじるつもりでいる相手を、それでも拒絶しきれなくなってしまっている。そんな価値などない、相手なのに。
「……ごめんね」
隣室に聞こえないようひそめた声は、レヴィンの耳にも届かなかったようだ。首を傾げた赤毛の青年は、きょとんとした顔をエイリックに向ける。その幼い様子が、自身が転んだことにも気づけなかった、小さな彼と重なって見えた。
「すみません。今、なにかおっしゃいましたか?」
「ううん、なにも。――そうだ。ユキが君に会いたがっていたから、帰りに会っていくといい。別室に案内させるよ」
そのまま隣室にいるアルフレートへ呼びかけて、彼に案内を任せることにした。去り際、いったん背を向けたレヴィンは、振り返ってエイリックを見た。
「どうしたの。なにか、言い忘れたことでも?」
うなずいたレヴィンは、小さく深呼吸をしてから意を決したように口を開いた。
「ありがとうございます」
「なに?」
「俺に、名前をくださって」
「………………」
予想もしていなかった言葉に、エイリックは呆気に取られて黙り込む。
「今言わなかったら、一生言えないままのような気がしたので」
伝えられてよかった、とレヴィンは安堵した様子でつぶやく。
「こちらこそ……」
声が震えた気がして、エイリックは軽く咳ばらいをした。
「こちらこそ、伝えてくれてありがとう」
柔らかな声に、柔らかな表情。それをつくることに、全力を尽くした。
アルフレートに先導されて別室へと向かうレヴィンを見送ってから、エイリックは、固定していた表情を崩す。今の自分がどんな表情をしているのかはわからないが、たぶん情けない顔をしていることだろう。
舌の上に広がる苦みが酷い。胸が悪くなりそうなのは、吐き出した言葉のせいだろうか。
「…………ッ!」
手のひらで口を覆ったまま、こみあげてくるものをやりすごす。滲んだ視界をきつく閉じたまぶたで遮断して、細く呼吸しながら、そのまましばらく耐えた。
やがて扉が、容赦のない力でもって音をたてて開かれる。その音を合図にするように、エイリックはすべての衝動を飲み下してしまいこんだ。
扉を開け放ったのは、隣室にいたユキだった。
すべてを聞いていた少女は、長い黒髪を大きく揺らしてエイリックに駆け寄ってくる。その背後で、ボードが制止しようと腕を伸ばしているのが見えて、エイリックは声を上げた。
「ボード、いい」
次の瞬間、エイリックの眼前で少女の細い腕が振り上がり、はじけるような音が響いた。
「……わざと言わせただろう」
可憐な少女には似つかわしくない、低く押し殺した声でユキが言った。
「最初からそのつもりだったのか。私に、あれを聞かせるつもりで……っ」
投げつけられた詰問には、激しい怒りが滲んでいる。少女の黒い瞳が、射貫かんばかりの鋭さでもってエイリックを捉えていた。
「あれが、彼の本音だよ。君には絶対に聞かせない、彼の本当の気持ちだ。聞けてよかったでしょう? 彼はずっと君と一緒にいたいんだって。君を失いたくないんだって。君の願いと一緒だね」
熱を孕んで脈打つ片頬には気を留めず、エイリックは口端を吊り上げた。
「……ああ、でも――自分の願いが君を滅びの種にしてしまったと、彼は一生、苦悩することになるかもしれないね?」
少女の瞳に宿る光が、いっそう険しさを増した。
「最初から、レヴィンの言葉で私を動かすつもりだったんだな。伝える努力をしろとか主語がどうとか言っていたが、私自身の言葉や考えなんて、本当はどうでもよかったんだろう?」
「誰かを説得するときに、相手にとってもっとも影響力のある存在を利用するのは基本的なことだよ」
大切な人を失いたくないと思うのは当たり前のことだ。それでも、そのために多くの人の未来を切り捨てるとなれば、大抵の人間は良心の呵責を覚える。それをレヴィンの口から引き出して、直接ユキに聞かせることが、一番たやすい方法だと思っていた。
「だからといって、君の考えがどうでもいいなんてことはないよ。以前の君なら同じ話を聞いても、彼が一言「大丈夫」と言えばあっさり信じてしまっただろう? けど、今の君は違う。人はそんなに単純な生き物じゃないって、君はもう知っているから」
もともとユキは観察力にたけていた。今の彼女なら、レヴィンがどんなに取り繕ってみせても、その裏側にある苦痛に気づいてしまうだろう。
「……さっきレヴィンに言ったことは、全部嘘だったのか……?」
静かなその問いは、否定を願って発されたものだとわかった。けれど、この場でそれを否定したところで、自分のやったことのなにが変わるのか、とエイリックは思う。
「どうかな。もしそうなら、僕には劇作家の才能があるのかもしれないね」
怒りに顔を歪める少女は、身の内に渦巻く激情を逃がすように、一度、大きく息を吐いた。
「……もう、レヴィンを利用する必要はないはずだ。だからこれ以上、レヴィンを傷つけるようなことはするな。――私がいなくなってからもだ」
それは、彼女が選択を決したことを意味していた。
ああ、とエイリックは胸中で声を上げる。
やっと。ようやくだ。この結論へと至るために、長い年月を過ごしてきた。途方もない不安と恐れを、誰に吐き出せるわけでもなく、一人で抱えて。それがすべて終わる。……終われる。
言葉にできない安堵と、同時に広がる苦み。それを唾液とともに飲み下して、エイリックは目の前の少女を見た。
「約束するよ」
短いその言葉を、エイリックは真摯に紡いだ。今さら自分のこんな言葉に、どれだけ意味があるのかはわからないけれど。
「君の言う通り、彼を利用する必要はなくなった。だからこれからはもう、彼を傷つけない」
静かに告げたエイリックを、ユキは否定も肯定もせず黙って見つめていた。
やがてレヴィンを別室へと案内したアルフレートが戻ってくると、今度はユキを送り届けるよう頼んで、エイリックは二人を見送った。
「……終わったな」
それまで沈黙を守っていたボードが、ぽつりとそう言った。それから口を閉ざして再び黙り込む。この男にしては珍しく、それ以上、余計な口を挟むつもりはないらしい。そんな友人を一瞥すると、エイリックは小さく「そうだね」とつぶやいた。
思い返してみれば、あのときも、この友人は隣にいた。
「ほら、あれがレヴィンだよ」
窓から見える幼い弟を指さし、エイリックはボードに言った。
「あー……まんま陛下を小さくしたかんじだな」
興味なさげな感想を漏らす友人には構わず、エイリックは盛大に相好を崩した。
「そうなんだよ。最後に見たのが生まれて一月とかだったからさ、大きくなってて驚いた。もう歩けるようになったんだ……でもまだ全然ちっちゃいなぁ……あっ、転んだ。……よかった、怪我はしてないみたいだ」
「……この国の次期国王は弟馬鹿だな」
あきれた声でつぶやいたボードは、ふとなにかを見つけた様子で「あそこ、見てみろよ」と言う。友人が指さした先、彼らがいる場所から見て横手に位置する建物の窓に、この国の王の姿があった。
「あんたと同じ顔して見てる。親子そろって同じことしてんのな」
同じ顔、と言われてエイリックは目を凝らした。遠目にもわかる、柔らかくゆるんだ父の表情。それは、愛しいものを見る顔だ。
父は自分を、こんな顔では見ない。彼が自分を見るときは、優しく、けれども常に遠慮や戸惑いのようなものを含んだ顔をしていた。それはきっと、愛していない子どもに対する罪悪感で。だから父は、いつも自分を甘やかす。そうやって足りないものを補おうとしている。
愛しさが、こんなにもわかりやすく溢れた眼差しを、エイリックは向けられたことがなかった。それを悲しくは感じるけれど、仕方のないことだとも思う。必要にかられてつくった子と、愛する人とのあいだに生まれた子ども。違いがあるのは、たぶん自然なことなのだ。
それでもエイリックは、幼いころから目にしてきた王としての父を尊敬していたし、だからこそ、その父から弟の名づけを頼まれたときは、本当に嬉しかった。
それは、城を離れる弟に、唯一持たせてやることができる、絆の証だったから。たった一度しかない大事なその機会を、父は自分に譲ってくれた。
そこまで考えて、エイリックは、あれ? と思った。
父はなぜ、愛する息子の大切な名を、エイリックにつけてほしいと望んだのだろう。頼まれた嬉しさのあまり、頼んだ父の気持ちを考えたことがなかった。
けれど、いざ考えてみれば、答えはすぐにわかった。
それはきっと、レヴィンを愛する父の考えた、精一杯の布石だったのだ。
自分が名を与えたという記憶によって、エイリックに弟への愛を忘れさせないための。父がいなくなったそのあとも、レヴィンへの情を抱き続けるように。
そんなことをしなくても、自分は弟を愛していた。可能なかぎり、守ってやりたいと思っていた。たった一言、頼むと、そう言ってくれたなら……自分は喜んでそれに応えたはずなのに。
陽射しの下で、楽しそうに遊ぶ弟の無邪気な姿を眺めながら、エイリックは詰まりそうになる呼吸を細く吐き出した。
ただ純粋に、愛しかっただけの思いが、歪んでしまう。
「どうした? なんか急に顔色悪くなってねぇ?」
気遣わしげな友人の声に、エイリックは苦笑した。
「いや。また転ぶんじゃないかと思ったら、危なっかしくてさ」
冗談めかしてそう答えながら、その内側で思考は回転していた。
いっそのこと、父を問いただしてみようか。浮かんだその案を、エイリックは即座に破棄した。きっと、父に否定されても肯定されても、自分の気持ちは晴れないまま、親子の関係だけが悪くなる。
エイリックは、最後まで父にそれを聞くことはしなかった。
陶器の触れ合う硬質な音が響いて、エイリックははっとした。
「アルフレート……戻ってたんだ。ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
微笑みで応じた友人は、エイリックの前に紅茶を置いた。ふわりと鼻腔に届いた香気に惹かれるまま、エイリックはカップを手に取り口に含む。口中に広がるかすかな刺激と渋みが、舌に残った苦さを一瞬だけ忘れさせてくれた。それにすがるように、彼は一口、二口と喉を鳴らした。
湯気に混じる柔らかな香りを呼吸するたび吸い込みながら、時間をかけて飲み干す。紅茶の熱さで喉の奥と胃の腑が温まるころには、エイリックの気分も落ち着いてきた。
アルフレートが戻ってきたということは、今ごろユキはレヴィンと会っているのだろう。選択を決したことを、彼女はもう話しただろうか。それを聞いたレヴィンは、なにを思っただろう。
自分は結局、父と同じことをした。
レヴィンの名づけに関する父の思惑については、大人になり、父と同じ玉座について時を経るごとになおさら確信へと変わっていった。
どうしても、わかってしまうのだ。信じて託すことより利用することを選んでしまう、より確実な方にしがみついてしまう、そういう卑怯で弱く、切実な気持ちが。
あのとき、あんなに不快で、悲しくて、やりきれなかったはずなのに、エイリックはわかってしまう。それはきっと、自分が父と同類だからで、よりにもよってこんなところだけ、自分は父に似ていたらしい。
「……ころあいをみて、彼らを送り届けてあげないとね。……ボード?」
「ボードならすでに、馬車や荷物の準備を進めていますよ」
「ああ……そっか……」
言われてはじめて、少し前まで一緒にいたはずのボードの姿が消えていることに気づく。
「お疲れなんでしょう。このあとの予定は延期なさいますか?」
「このあとって……あー……例の不毛なアレね……」
渇いた笑いを漏らしながら、エイリックはあとに控えた毎度堂々巡りを繰り返すだけの会議を思う。
「変化も進歩も望んでないのはわかるけど、それならせめて無意味な会議くらい減らせばいいのにね。あのジジィどもがくたばったらそうするんだけど、僕より長生きしそうなんだよなぁ……」
疲れのせいかいつもより若干口汚く重臣たちへの悪態をつきながら、エイリックは自分がいつもの調子を取り戻していくのを感じた。
「予定通り会議には出席するよ。僕は、この国の王だからね」
それがたとえ、背負わされた役目であったとしても。卑怯で、弱くて、見苦しいくらい不完全な自分が、それでもその役を引き受けることで、どこかの誰かの不安が、少しは軽減されているはずだ。そういう思い込みが、自分を支えている。
父から玉座を受け継いだときから、エイリックはこの最後の国の王となった。
それを次の時代に引き継ぐ日まで、エイリックは王であり続ける。
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