4 兄と弟

 かすかな音をたてて、扉が開く。

 その向こうに、およそ二月ぶりに対面するこの国の王がいた。


 天窓から入る陽射しを受けて、明るい金色の髪が淡い光沢を帯びている。まっすぐに背筋を伸ばし座しているその人は、整った容貌に落ちる影の繊細さを含めて、一枚の絵のように目を引く姿をしていた。


 半分とはいえ、彼と血のつながりがあるかと思うと、あまりの共通点のなさにレヴィンは首を傾げたくなる。


 儀礼上、身分の高い者より先に発言することは控えるべきとされている。レヴィンはエイリックの反応を待った。


「座ったら?」


 空色の瞳をレヴィンに向けたエイリックは、慣例として行うべき挨拶や労いをすべて無視してそう言った。彼がこだわらないことをわざわざ押し通す必要もない。レヴィンは促しに従って、かの人の向かいに置かれた椅子へと腰を下ろした。


 室内にはもう一人、以前にも見かけたことのある青年がエイリックの後ろに控えていた。名はたしか、アルフレートと呼ばれていたはずだ。


「それで。用件は?」


 エイリックの切り出し方は端的だった。


「陛下と話がしたかったのです」


 レヴィンが言うと、エイリックはその優美な眉をわずかに跳ね上げた。


「僕を懐柔して彼女を取り戻すため?」


 あけすけな物言いだったが、彼の言葉は正しかった。レヴィンの意図は結局のところ、そこへつながる。けれど今はまだ、それ以前の問題があった。


「……懐柔しようにも、私は陛下を知らなすぎます」


「そうだろうね。こんな状況になるまでは、知りたいと思ったこともなかっただろう?」


 棘を含んだ声がそう言った。

 だが、彼と話すと決めたときからそんな態度は覚悟している。レヴィンは苦笑して応じた。


「そうですね。両親のことも、兄のことも、できれば知りたくないと思っていました。……知って、私を嫌っていることがわかれば悲しいだけなので」


 エイリックは嘲るような吐息をこぼした。


「ずいぶん素直に話すんだね。そうやって自分をさらけ出せば、僕が心を開くとでも思ってる?」


「いえ。正直、あまり期待できるとは思っていません。ですが私は今、あなたのことが知りたい。それなら自分のことも隠すべきではないと、そう思っています」


「……僕が聞けば、隠さずに答えてくれるの? なんでも?」


 空色の瞳が、見定めるような強い光を宿してこちらに向けられる。レヴィンはそれを、まっすぐに見返して答えた。


「すべてを、とお約束することはできませんが……できるかぎり誠実に」


 互いの皮膚を突き刺して、その内側を探るような視線が、しばらく両者のあいだを行き交った。


「……いいよ。腹を割って話そう」


 口角を持ち上げて了承したエイリックは、背後に控える者を振り返った。


「アルフレート」


 名を呼ばれた青年は、それだけで心得たように一礼し、退室していく。


「よろしいのですか? 私と二人きりになって」


 血を流さないことを前提とするこの国には、かつて他国にあったという騎士や兵士といった戦闘を専門とする者は消えて久しい。そのかわりに侍従が要人警護の役目も兼ねていた。


 無論レヴィンにエイリックを害するつもりなどないが、それでも侍従を外してしまうのは、いささか軽率に思えた。


「構わないよ。外してもらった方が話しやすいだろう? 彼には隣室に控えてもらうだけだ。ここの壁は薄いから、少しでも異変を感じれば飛んでくるだろう」


 その言葉に、レヴィンはなおさら訝しんだ。隣の状況を察することができるくらいに薄い壁なら、護衛役をわざわざ遠ざけてまで隔てる意味があるだろうか。


「不審に思っているようだけど、このくらいまで声をひそめれば、隣には聞こえないよ。これで内緒話もできるようになったわけだから、自由に使い分けるといい」


 絞った声でそう言われ、なんともまわりくどいと思いつつ、レヴィンは無言でうなずいた。


 声量を戻したエイリックは、「それより、気になってたんだけど」と続ける。


「言葉、もう少し楽に話したら? 無理に崩す必要もないけど、綺麗に話そうとして本質から遠ざかるのは好きじゃないんだ。普段の君は、自分のことを俺って言うんでしょ?」


 どうして知っているのかと問うまでもない。ユキが話したのだろう。


「では、お言葉に甘えて無理のない程度に。……彼女は、元気にしていますか?」


「とりあえず、健康は損なってないし、泣き暮らしたりはしてないよ。君のところに帰りたがってはいるけどね」


 エイリックは肩をすくめて答えた。


 レヴィンは、ほっと安堵の息をつく。ユキが無事でいたことと、離れていても変わらず彼女が自分を必要としてくれていたことに。


「……これは、確認なのですが」


 そう前置いてから、レヴィンは言った。


「ユキが、神の娘としてこの国の存続を選ぶと確信が持てないかぎり、陛下が彼女を手放すことはない。……そうですよね?」


「そうだよ。生半可な口約束じゃ、君の言葉ひとつで簡単に覆される。君だってそういう自信があったから、あの日、たいして抵抗もせず彼女をここに残していけたんだろう?」


「それは、……否定できません」


 レヴィンは、自分の存在がユキに与える影響を知っていた。はっきりと口にするまでもなく、そう匂わせるだけでいい。彼女はきっとレヴィンの意に添う方を選ぶだろう。そういう傲慢な思考は、あのとき、たしかに彼の中にあった。


「ですが、あの日もお話しした通り、選択権を持っているのはユキです。彼女の選択は、誰の意図によっても歪められるべきではない」


 そこにはもちろん、レヴィン自身も含まれる。彼女の選択をもっとも歪めてしまう可能性のある存在は、自分だとも感じていた。だからこそあのとき、彼女から離れることを受け入れられた。


「君は、本心からそう思ってるの?」


 エイリックは訝しげに眉をひそめる。


「あの日も感じたけど、君のその言葉は綺麗ごとにしか聞こえない。……信じられないな」


 そう断じたあと、しかし彼は切り替えるように表情をゆるめた。


「……雲行きが怪しくなる前に、この話はいったん保留にしないかい?」


 思いがけない提案に、レヴィンは目を見開いた。たしかに不興を買ったはずなのに。


「それとも、君が知りたい僕というのは、神の娘に関することだけだったかな」

「……いいえ、そんなことはありません」


 戸惑いながらもはっきりと否定したレヴィンに、エイリックは言う。


「さっき、肉親のことを知りたくなかったと話してたね。君は、自分の両親のことを少しも知らないの?」

「最近になってようやく、乳母から少しだけ話を聞くことができましたが、それまではまったく」


「アトロス伯爵夫人から……ということは、彼女に連れられて王妃に面会したときの話かな」

「ええ……陛下もご存知でしたか」


 自分と彼との年齢差を考えると、当時の彼は十歳になっているかどうかだったはずだ。


「あの日、庭で遊ぶ幼い君を見ていたよ」


 目を細めながらぽつりとそう言ったエイリックは、当時のことを想起しているようにも見えた。


「君はまだ歩くことも危うげで、僕はいつ転ぶのかとはらはらして見てた。走り出してすぐ、案の定、転んだ君は、メイドに助け起こされたあと、なにが起こったのかわからないみたいにきょとんとして、またすぐに走り出そうとしてメイドに止められていた。あのとき、僕の弟はちょっと馬鹿なのかなあって思ったよ」


「……まだ三歳になってもいないときのことでしょう」


 頬が熱くなるのを感じながら、レヴィンはつぶやく。


「そんな君を、僕は城の窓から見ていた。誰の目があるかもわからない屋外で、君に近づいて声をかけることはしない方がいいと思ったから。そのうち、別の場所から僕と同じように君を見ている人物がいることに気づいた。……君と同じ髪の色をした、この国の王だった人」


「それは――」

「うん。僕らの父だ」


 エイリックの声は、ひときわ柔らかく響く。


「父は君を、愛していたよ」


 空色の瞳が、これまで見たことのない穏やかさをたたえていた。この人が、こんなにも優しい目をして自分への言葉を口にすることがあるとは思っていなかった。


「……あなたは……」

「なに?」

「あなたは、どうして窓から俺を……?」


「君は、僕がどうしてこんな話をしていると思う?」


 肩をすくめてエイリックは聞き返してきた。


「え……俺を懐柔するため、ですか?」


 戸惑いながらも答えたレヴィンに、エイリックは噴き出した。


「……ちょっと待って。笑わせないでよ。君を懐柔して僕になんの得があるの?」


 口元を押さえて言うエイリックを、レヴィンは憮然とした表情で見返した。


「……楽しんでいただけたようでなによりです」


「君はさ、冷たくあたる僕しか予想してなかったんでしょ? 想定外の対応をされて、冷静になれないでいるんだ」


 悪びれた様子もないエイリックは、からかうようにそう言って口端を引いた。的確に言い当てられたレヴィンは、否定することができない。かわりに嫌味をひとつ返すことにした。


「ご自身でされた質問の答えも、教えていただけないのですか?」


「……こういう話をする機会が、僕にも必要だったから」


 ささやくような声でエイリックは答えた。


「知ってた? 君と僕は、同じ教育係がついてたんだよ。“或る罪深き国の話”、君も勉強させられたんじゃない?」

「はい。かなり時間をかけて」


「やっぱり。あの教師は、あれを教材として使うことを好んでいたからね。……もっとも僕には、あの話を学ぶ意義が少しも理解できなかったけど」


 どこか冷淡な表情を浮かべて、エイリックは語る。


「小国の王太子は、玉座を忌避して自死を選んだ。それによって唐突に王となることを求められた弟は、父を殺し、自らを殺し、その結果として、国をも道連れにした。この話をはじめて知ったとき、そうまでして彼らが拒絶しようとした王とはなんなのだろうと思ったよ。……思ったところで、僕にはそれ以外の道なんてなかったけどね」


 付け足すようにぽつりと言った最後の言葉が、レヴィンの胸に突き刺さった。王として望まれ生を享けたエイリックと、望まれずに生まれ、滅びの種とされた自分。逃れる道もなく生きてきたという点では、この人も自分も変わらないのではないか。


「君が生まれたとき、僕を廃して君を王家に残す道もあったんだよ。あまり堅実ではない選択だから、誰も選ばなかったけどね。けどもしそうなっていたら、僕らは今、どんなふうに対峙していたのかな?」


 静かなその声は、レヴィンに想像を促した。もし、そうなっていたら。あるいは王としてここに立っていたのは、自分の方だったのかもしれない、と。そのとき自分はなにを思っただろう。


 教育を受けているとき、自分が万一の場合のスペアとして扱われていることには気づいていた。それでも自分が王になることなどまったく考えたことがなかった。そして、それはきっと小国の第二王子も同じだったのではないか。


「君も僕も、誰かに後付けされた意味を背負わされているだけだ。あのとき、次の王として父が選んだのが僕でなく君だったら――僕らの立場なんて、その程度のことで簡単に入れ替わっていたかもしれない」


 硬貨の表と裏みたいに、とエイリックは言う。


「ねえ、それでも君は、望まれて生まれた僕にはわからないと、そう言うのかな?」


 意味をなさない小さなうめき声が、レヴィンの喉からもれた。


 ――望まれて生まれたあなたに、なにがわかるというんです。


 あの日、自分はたしかにそう言った。


「…………」


 返す言葉を見つけられないでいるレヴィンを見て、エイリックは答えを待つのをやめたようだった。


「君は、滅びの種として辛酸を舐めてきたんだろう。けれど最後の国の王だって気楽な役じゃない。だから君の不幸面は、正直、鼻についた。不快さに任せて君を傷つけるのは簡単なことだけど……その感情だって、押しつけられた立場によって生じたものだ」


 自嘲するようにふっと笑って、彼は続ける。


「……さっき、どうして窓から君を見てたのかって聞いたよね。君の名前は、かつて滅んだ古い国でよく使われていたものなんだ。意味は、この子の幸福を願う。ありがちだよね。でもまあ、七歳そこらの子どもが考えつく名前なんてそんなものだよ。馬鹿正直で、なんのひねりもない」


「じゃあ、この名前は……あなたが……」


 問うレヴィンに、エイリックは「苦情は受け付けないよ」と返した。


「こめた願いは嘘じゃない。生まれたばかりの小さな君に対する僕の幼い感情は、たしかにあったし、今も残ってる。いつのまにか歪んでしまったけどね」


 淡々と言うその様子は、かえって悲しく見えた。


 エイリックと出会うまで、顔も知らない兄について思うとき、愛してもらえるとは到底思えなかった。滅びの種である自分を、きっと疎んでいるに違いない。せめて憐れんでくれていたらと、そう期待してもいた。はじめて彼と会ったとき、その期待は砕けて消えてしまったと思った。けれど、違ったのか。


 幸福であれと願って与えられた名が、ずっと、共にあったのだ。


「僕はこの国の王だ。それがたとえ押しつけられた役目であったとしても。引き継いだものは、次へとつなぐ。そのために、必要なら君たちを利用する。……だからこそ知っておきたいんだ。自分がなにを踏みにじろうとしているのか。君の、本当の願いを」


 教えてくれないか、と言うエイリックの祈るようなその声を、拒絶することがレヴィンにはできなかった。


「……ユキと、一緒にいたいです。彼女を失いたくない」

「うん」


「けれどそれを願えば、彼女を滅びの種にしてしまう。それはきっと……彼女を苦しめる……」


「滅びの種であることの苦しみを知っているのは君だけだ。君は、彼女にそれを味わわせたくないんだね。……だけどもし、君が言うように彼女自身の選択として滅びを選んだら、君はどうするの?」


 その答えは、最初から決まっていた。


「彼女が自ら選んだことなら、俺も一緒に背負います」


 たとえそれが、どちらの選択であったとしても。

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