3 屋敷での日常

 レヴィンがユキを連れて屋敷に戻ってから一月が過ぎていた。どうなることかと気を揉んでいたレヴィンをよそに、ユキは順調にこの家での生活に溶け込んでいる。


 それには、ユキが慣れるまでのあいだ、ほとんど付きっ切りで彼女の世話を焼いてくれていたエルマの尽力が大きい。どんなに当たり前のことでつまずいても、親身に応えるエルマの甲斐甲斐しさを受けたユキは、次第にエルマに馴染んでいった。


 エルマによると、ユキは観察力に長けていて、いったん目にしたことや経験したことを身に付けるのが驚くほど早いそうだ。実のところ、それはレヴィンも感じていた。長期計画のつもりで教え始めた読み書きを、あっさりと覚えてしまったユキに驚愕させられたのは、ほんの数日前ことだ。


 文字を知ったユキは今、新しい知識を得ることに夢中で、ここ数日は暇があれば本を読んでいる。読み進める速度こそ常識的だが、集中する力は驚異的だった。止められなければいつまでも読み続けている。


「冷めてしまっているんじゃないか?」


 適当な頃合いで声をかけると、一人掛けソファに腰かけながら本を広げていた少女の肩がぴくりと反応した。手にした本へと落としていた視線がゆっくりと持ち上がり、黒い瞳にレヴィンを映す。


 レヴィンがテーブルの上のカップを指し示すと、ユキは静かに本を閉じ、それを膝に置いた。カップに指を伸ばして口をつける。


「……本当だ。せっかくエルマが淹れてくれたのに」


 残念そうに言ったユキは、カップの残りを確かめるように見たあと、一息で飲み干した。読書に熱中して忘れてしまっていたとはいえ、エルマが淹れてくれたお茶を残すのは忍びなかったらしい。


 レヴィンは薄く笑った。


「座りっぱなしで体が固まったな。少し歩いてくるか」


 そう彼が提案すると、ユキは「一緒に行く」とつぶやいて躊躇なく立ち上がった。


 ぽつんと本が残された応接室の一人掛けソファは、この数日ですっかりユキの定位置となっている。起きている時間はほとんど彼女と共にいるレヴィンもまた、向かいの長椅子で過ごすことが多くなっていた。部屋にこもりがちにならないよう適当なところで外へと促すことが、最近のレヴィンの日課になりつつある。


 エルマに懐き、読書に夢中になってもなお、ユキにとってはレヴィンと一緒にいることが優先されるらしい。彼がどこかへ行こうとするたび、飽きることなく一途にあとを追ってくる。


 庭に出ると、途端に甘い香りが鼻腔をくすぐった。手入れに手間のかかる花の類はほとんど植えていない殺風景な庭だが、見上げるほどの高さのわりには幹の細い、ひょろりとした樹がいくつも生えていて、それがちょうど花の盛りを迎えていた。


 小指の先ほどの白く小さな花弁が、房のようにいくつも垂れ下がっている。それらが無数に集まった光景は、遠目から見れば樹が白く染まって見えるほどだった。春の終わりに咲く花だ。これらがすべて散って緑の葉に入れ替わったころ、夏がやってくる。


「……今日は天気がいいな」


 ささやくようにレヴィンは言った。

 ユキは真昼の空を見上げ、まぶしげに瞳を細めた。目の覚めるような青が、どこまでも均一に広がっている。

 そのまま並んで歩きながら、のんびりと庭を巡る。


「今はなにを読んでいるんだ?」


 ユキが読む本は、すべてレヴィンの蔵書から彼女が選んだものだ。本の内容に触れる会話は、自然に多くなった。


「或る罪深き国の話」


 ユキの答えに、レヴィンの指先が小さく跳ねた。


「……またずいぶん悲惨なのを選んだな……」


 彼女が口にしたのは、かつて実在し、滅んだ国について綴った本のタイトルだった。


 稀少な鉱石が採れる小国と、それに接するふたつの大国。一方は、肥沃な土壌を抱えた農業の国。もう一方は、塩の採れる大きな湖をもった塩の国。ふたつの大国は、小国の鉱石を巡って、長いあいだ水面下で争っていた。


 国を滅ぼすことは、神を滅ぼすことに等しい。多くの血を流してなにかを手にしても、自国の神に失望されてしまえば、滅びが訪れるだけだと歴史は物語っている。それでも利益を掠め取るだけならば、方法はいくらでもあった。


 ふたつの大国は、いずれも人が生きるうえで欠かせない資源を有する国だ。対する小国は、鉱石以外の資源に乏しい。平等とはほど遠い取り引きで食いものにされながらも、二国に依存するほかなかった。


 じわじわと外側からかけ続けられる、ふたつの圧力。そのあいだで、神経をすり減らしながら均衡を保って生きている、そんな国だった。そうして鬱積した歪みは、その内圧に耐えかねたかのように、ある時代、唐突に弾ける。


 小国に嫁いだ農業の国の姫。彼女が産んだ二人の王子のうち、長子である王太子には、いずれ塩の国の姫が嫁ぐことが決まっていた。そうやって均衡を保ちながらも続いていくはずだったその国は、塩の国の姫が病に倒れたころから、目に見えず崩れはじめていた。


 数年後、病の床にいた姫が復調し、再び婚儀の日取りが話し合われるようになったころ、王城の一番高いところから、王太子が身を投げた。唐突に次期国王の地位につくことになった第二王子は、その日のうちに国王を殺め、かえす刀で自分を切った。


 一日のうちに、国を導くべき人間が三人、血に染まった。その国の神にとって、それは受け止めきれない惨劇だったのだろう。その小国は、国土とそこに生きるすべてのものを道連れに、地上から消失した。国が滅びる要因をつくってしまったふたつの国も、間もなくして連鎖するように地図から消えた。


 彼女が読んでいるのは、そういう内容の本だった。


「タイトルにある“或る罪深き国”というのが、どの国なのかわからない。最後まで読めばわかるのか?」


 ユキが表情を変えないまま、隣を歩くレヴィンを見上げて尋ねる。


「いや、それについては最後まで言及されない。あの本は、読み手にそれを考えさせるために作られたものだから」

「……意味がわからない」


 ユキは訝しげにつぶやいた。


「欲にかられて、長年にわたって小国を苦しめた二国が悪いのか。耐えかねたとはいえ、国を治める責務を放棄した王族をいただく小国が悪いのか。あえて答えを書かず読者に考えさせることで、思考を深めるために書かれた本なんだ」


 そうレヴィンが説明すれば、ユキは「違う」と首を振った。


「わからないのは、なぜそんな本を作ったかだ」

「それは……国を滅ぼさないためだろう」

「思考が深まれば国は滅びないのか?」


 その問いを肯定すれば、これまで滅んだ国はすべて思考が浅かったことになってしまう。レヴィンは苦笑いした。


「これは、俺の考えに過ぎないが……どこまでなら許されて、どこからが神を失望させるのかなど、誰にもわからないんだ。ある神が許したことを、別の神は許さないのかもしれない。わからなくて、怖くて不安だから、考えることで少しでも答えに近づいていると安心したいんだと思う。……まあ、ただの気休めだな」


「なら、おまえも気休めが欲しくてこの本を読んだのか?」


 ただそう思ったから口にしただけの、素朴な疑問なのだろう。レヴィンは目を伏せて口を開いた。


「……俺は――」

「レヴィン様、ユキ様」


 被さるように背後から響いた声に、驚いて振り向けば、普段通りの少し眠たげな顔をしたゼルマが立っていた。


「姉さんから伝言です。昼食ができましたよ、と」

「わかった」


 即座に応じたのはユキだった。直前の問いにはまるでこだわらない様子で、少し先を歩いてからレヴィンを振り返る。


「行こう。エルマの作った料理が冷める」


 いつも自分のあとをついてまわる少女が、今は先導するように立っていた。真上からの陽光を受け、わずかに影の差した少女の顔に、迷いのない表情がのっている。

 少しのあいだ、それをまぶしく見ていたレヴィンは、静かに「そうだな」と応じると、彼女のあとを追った。






 この屋敷に、エルマ以上に快活な人間はいない。というよりむしろ、エルマ以外の三人は皆、快活さとは縁遠い人間だ。だから四人で囲む食卓の会話は大抵、エルマを中心としている。


 食卓に並ぶ料理についてや、その日の屋敷での出来事。日々淡々と変化に乏しい生活を送っている中で、新しい話題はけして多くないだろう。それでも屈託なく語る彼女の明るさが、日々の楽しさにつながっていることは間違いない。


「それで昔、レヴィン様があんまり可愛らしかったので、妹の服を着てもらったことがありまして――」


 ……間違いないのだから、たまに話の種になるくらい仕方がないのだと、レヴィンはもう諦めていた。


「そのときのおまえも、今みたいな目をしていたのか?」


 隣で黙々と食事を口に運んでいたユキが、小声でぼそりと言う。


「どういう目だ」


 ろくな答えは返ってこないだろう。わかっているのにレヴィンは聞いてしまう。


「このあいだソテーになった魚が、そういう目をしていた」

 死んだ魚の目だった。


「――レヴィン様、聞いていましたか?」

「ああ、服のサイズのことだろう」


 半ば現実逃避しながらもエルマの話を聞き逃さずにいられるのは、生育環境で培った慣れの賜物だった。


「はい。既製の服だとユキ様には微妙に合わないんですよね。ですから、一度きちんとサイズを測ってもらったほうがいいかと思うのですが……」

「必要ない。すぐに大きくなる」


 ユキはきっぱりと切り捨てた。


「……大きくなるのか?」


 レヴィンの問いに、ユキはエルマを見ながら「なる。きっと」と力強く答える。

 己の成長を信じて疑わない少女に、個人の成長差について教えようかと思ったが、誰も幸せになれない気がしたので、レヴィンは「そうだな」と返すにとどめた。エルマの身長は、平均的な成人女性よりは少しばかり高いはずだ。


「それではユキ様は、大きくなるまで合わない服を着続けるおつもりですか? できればきちんと合う服を着ていただきたいのですが……」


 エルマが困ったように言うと、ユキも無下にはできなかったのか、戸惑った様子でレヴィンを見てきた。ついでに、食卓の向こう側に座るエルマからも、意思のこもった強い視線を注がれる。エルマの隣には一応ゼルマもいるのだが、この弟は、姉がいるときに自分から話すことはほとんどない。眠たそうな顔で、一人平和に食事をしていた。


「まあ、そうだな。そろそろ夏服を準備する頃合いだったし、買いに行くついでにサイズを測ってもらえばいいんじゃないか?」


「サイズを測るって、どうやるんだ」

「専門のお店の人にお願いするのがよいと思いますよ」


 ユキの疑問にエルマが答える。


「……おまえは?」


 ほとんど変わらない表情にわずかな不安をにじませて、ユキが見上げてくる。それに否と返すほど、レヴィンは薄情な人間ではない。


「近いうちに一緒に行くか? 用事がないかぎりは屋敷にこもりきりだからな。ちょうどいい機会だし、街を見て歩こう」


「でしたらレヴィン様、早めに行ったほうがいいかもしれません。……来週には、誕生祭に入りますから」


 エルマはレヴィンにそう言ってから、ユキに向けて説明を付け加えた。


「国王陛下のお誕生日を、国をあげてお祝いする祭りがあるんです。一週間ほど人の通りが多くなりますから、ゆっくりと街歩きを楽しむには向かないでしょう」


「それなら、天気次第だが明日にでも行くか?」


 そうレヴィンが尋ねると、ユキはうなずいた。


「おまえと一緒なら行く」

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