2 迎えられる客人

 見慣れない静かな部屋に一人、ユキはいた。腰を下ろした一人掛けのソファの手前には、木目の滑らかなテーブルがあり、その向こう側には長椅子が置かれている。先ほどまでそこに座っていた人物は、飲み物を持ってくると言い置いて部屋を出て行った。


 自分以外には誰もいない部屋を改めて確認してから、ユキは静かに目を閉じた。レヴィンのいない時間は、どうしてかぼんやりと鈍くかすんで感じる。


 あの森を離れ、買ってもらった靴を履いてはじめて自分の足で街を歩いたとき、行き交う人の多さに驚いた。


 母親の胸に抱かれる幼子に、背を曲げゆっくりと歩く老人。鮮やかな色の服をまとい煌々しい装飾を身につけた男に、薄汚れた服を着てくたびれた顔で瞳を伏せる女。明るい表情で軽快に進んでいく者から、険しい目で苛立たし気に去っていく者まで。こんなに多くの人間が、それぞれ別々の感情をもち、違う思考を抱えて生きているのかと思うと、その目まぐるしさに眩暈がした。


 ユキの足どりが鈍くなったことに気づいたのか、隣を歩くレヴィンが心配そうにどうかしたのかと尋ねてくる。


「人が多い」


 ユキが短く答えると、「人に酔ったのか?」とささやいたレヴィンが、通りの隅を指し示してユキを促した。人の流れの妨げにならない場所まで移動すると、足を止めたレヴィンがユキの顔をのぞきこむ。


「大丈夫か? 辛いようなら背負おうか」


 気遣わしげに言う。レヴィンは既に、早朝の出発から始まり、先ほど靴を買うまでのあいだ、半日近くユキを背負って歩いたあとだ。辛いというなら、むしろ彼の方だろう。


「いい。自分で歩ける」


 そう答えたユキに、レヴィンは「そうか」と苦笑した。


「なら、せめて片手ぶんくらいは支えさせてくれ」


 そう言ってユキの手を取り、ゆっくりと歩き出す。飲み込まれればどこまでも流されてしまいそうな雑踏の中にあって、その手の温度と存在感は、唯一たしかなものに思えた。


 そうして辿り着いたのが、この場所だった。門前で立ち止まり、前方に佇む建物を見て「小屋より大きい……」とつぶやいたユキに、レヴィンは「あの小屋に比べれば、たしかにな」と言った。


 四方をぐるりと塀で囲まれた敷地は相当な広さだが、家屋だけでもあの小さな小屋を数十軒は建てられそうなほど大きい。


「見かけは立派だが、実際には数部屋しか使っていない。これだけの部屋数を三人で管理するのは大変だからな」


 レヴィンの話す三人のうち、彼自身を除いた二人が、屋敷の中で出会った若い男女なのだろう。


 近くで物音が聞こえた気がして目を開くと、先ほどまで無人だったはずの長椅子にレヴィンが座っていた。テーブルには、ポットとカップの並んだトレイが置かれている。


「……起こしたか?」


 静かに問うレヴィンに、首を左右に振ってみせる。一人きりの時間を消費するために少し前の出来事を思い返していただけで、眠っていたわけではない。


「おまえも疲れただろう。お茶をもらってきたが飲むか?」


 うなずくと、レヴィンは手際よくカップにお茶を注ぎ、ユキの手前に置いてくれた。湯気立つカップの中身に視線を落とすと、それと同じ色の髪を持った二人と、その前に立つレヴィンの姿が頭に浮かんだ。


 それは、先ほど思い返していた場面だ。


「あの二人は……」


 そこまで言って、言葉がうまくつながらずにユキは言い淀んだ。レヴィンは「ああ、」と応じる。


「顔立ちがよく似ていただろう? 双子なんだ。姉がエルマ、弟の方がゼルマ。二人のことは、このあときちんと紹介する」

「……優しい人だと、おまえは言っていたな」


 ――家には同居人が二人いるが、とても優しい人たちだから、きっとおまえのことも歓迎してくれると思う。


 あの森の小屋でレヴィンが言った言葉を思い出しながらユキは言う。


 彼らを前にしたとき、隣にいるレヴィンが、かすかに緊張しているのが伝わってきた。彼の言葉通り、よく似た面差しをした二人がレヴィンに注ぐ視線は、柔らかで優しい。なのにどうして、彼はあんなふうに息を詰めるようにして、あの場に立っていたのだろう。


 レヴィンは言葉の意味を推し量るようにユキを見たあと、ふっと表情をゆるめた。


「エルマもゼルマも、間違いなく優しい人たちだ」


 だからなにも心配はいらない、と穏やかな声で話す。


「双子の母親が俺の乳母だったから、五つ歳の離れた彼らとはきょうだいのように育った。かわいがられた記憶しかないな」

「おまえは乳母に育てられたのか」


 乳母とはたしか、実の母親のかわりに授乳して、子どもを育てる仕事をする女性のことだったはずだ。


「産まれてすぐに彼らの家で育てられることになって、そのまま成年を迎える十五歳まで世話になった。その後は彼らの家を出て、この屋敷に来たんだ。双子は俺を心配して、一緒に暮らしてくれている。働く必要なんてないのに、余計な名目までつけて。……二人にとって俺は、今も未熟な子どものままなんだ」


 不意に扉をノックする音が響いた。レヴィンがそれに応じると、エルマとその一歩後ろに続くゼルマが入室する。


「お部屋の準備が整いました。お洋服も、私のものでよろしければ、間に合わせにお使いいただけるかと。夜までには、もう少しサイズの合うものをご用意いたします」


 エルマの報告に、レヴィンは礼を述べてからユキを見た。


「遅くなってすまないが、改めて紹介させてくれ。エルマとゼルマだ。これからこの屋敷で暮らす中で、わからないことや困ったことがあれば、俺と同じように頼っていい。きっと親身になってくれる」


 レヴィンの言葉をきっかけに、エルマとゼルマが順に名のって一礼する。


「ユキ。初対面の相手には、自分の名前を伝えて挨拶するんだ。二人がやったことを真似できるか?」


 促され、ユキは立ち上がってぺこりと頭を下げた。


「はじめまして、ユキと申します。よろしくお願いいたします」


 笑顔で応じる二人に、レヴィンが「俺からもよろしく頼む」と言う。


「早速ですまないが、エルマ。ユキに部屋を教えてやってくれるか? 夕食までにくつろげるようにしてやってほしいんだ」


「はい。ではユキ様、ご案内いたしますね」


 にこやかに視線を向けるエルマと座ったままのレヴィンを見比べて、ユキは首を傾げた。


「……おまえは?」

「俺は――」


 言いかけて、レヴィンは、はっとした表情を見せた。


「そうだな。俺も途中まで一緒にいよう」


 言われてほっとしたユキだったが、レヴィンがぎこちなく立ち上がろうとするところを見て、思い直した。


「やっぱりいい」

「……どうした?」

「いい。おまえは座ってろ」


 驚いた顔のレヴィンに重ねて言い添えると、ユキはためらいなく背中を向けて、エルマと一緒に応接室を出た。

 そのまま廊下を歩いていると、前を歩くエルマが振り返って言った。


「お部屋にご案内する前に、浴室に行かれませんか? 先に入浴を済ませておかれた方が、夕食までゆっくりお休みになれるかと思います」

「にゅうよく……」


 風呂に入ることだ、ということはわかったが、言葉の意味は理解できても、どうすればいいのかはわからない。


「大丈夫、お手伝いいたします」


 にっこりと笑って言ったエルマは、浴室の使い方から体の洗い方まで、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。雨に濡れ、発熱によって汗もかいていた体を洗うと、さっぱりして気持ちよかった。


 体を拭いて服を着たあと、未だ水分の残る髪を拭くのを、エルマが手伝ってくれる。


「ユキ様は、お優しいかたですね」


 手にしたタオルでユキの髪を拭いながら、穏やかにエルマが言う。その動作には乱暴なところが少しもなかった。優しい、という言葉がふさわしいのは彼女の方だとユキは思う。


「なぜ?」


 なのになぜ、エルマはユキを優しいと言うのか。


「さっき、疲れているレヴィン様を気遣ってくださいました」

「……気づいてたのか」


 森から街まで半日近くユキを背負い続けたレヴィンは、疲労していた。本人はできるだけ表に出さないようにしているようだったが、その動作は若干ぎこちない。ユキと違って疲れた原因を知っているわけでもないエルマも、それに気づいたのか。


「レヴィン様と離れて、初対面の私と一緒に行かなければならない。ユキ様は、そういうご自身の不安や戸惑いより、レヴィン様のことを優先してくださいました」


 そう言ったエルマは、嬉しそうに明るい紅茶色の目を細める。些細な変化に気づけることも、自分のことでもないのに優しくされたと嬉しそうにすることも。共に過ごしてきた長い時間と、彼女がどれだけレヴィンを大切に思っているかを、わかりやすく伝えてくる。


「レヴィン様がはじめて連れて来られたお客様が、レヴィン様を大切にしてくださる方でよかった。わからないことや困ったことがありましたら、なんでもおっしゃってくださいね」


 エルマは柔らかく微笑んだ。


 ――とても優しい人たちだから、きっとおまえのことも歓迎してくれると思う。


 ああ、本当だな。

 レヴィンの言葉を思い出して、ユキはそう思った。



◆◆◆◆◆



「優しい人ですね」


 部屋に残ったゼルマが、眠たげな表情のままぽつりと言う。この双子は、日ごろから互いの役割を分担しているところがあって、エルマと一緒のときにはほとんど相槌しかうたないゼルマも、こうして姉と離れると人並みに会話をするようになる。


「レヴィン様に無理をさせたくなかったんでしょう」

「別に、無理はしてないんだが……」

「レヴィン様がそうやって少しくらい背伸びしたところで、私たちの気が変わったりはしませんよ。だから諦めて、素直に甘えてください」


 幼いころから繰り返し聞かされてきた年長者の諭す声に、レヴィンは観念して長椅子の上にだらしなく横になった。


「筋肉が……死ぬ」


 座面に顔を埋めながら情けなく呻くと、わしゃわしゃと頭を撫でられた。


「浴室はユキ様が先に使うでしょうから、そのあと、レヴィン様が入れる準備をしましょう」

「ああ、ありがとう」

「ユキ様のお世話は姉さんに任せておけば大丈夫ですから、それまでレヴィン様も少しお休みになってください」


「…………ゼルマ」

「はい」

「陛下への報告は、しておくから」


 小さく息を呑む気配があった。


「そんなことは、心配していませんでしたよ」

「うん。わかっている」


「同じことを姉さんに言ったら、きっと𠮟りつけられていたでしょうね」

「うん。……ごめん」


 思った以上に幼い口調になってしまった謝罪に応えるように、もう一度、優しい手のひらが頭を撫でていった。

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