ぺトリコール

山井さつき

第1話 邂逅

 ぐちゃぐちゃだ。何もかも全部。どうしてこうなってしまったんだ?目の前の景色がぐるりと回転しだした。人々が信仰する神、仏、もしくはそれ以上の存在が、コーヒーに垂らしたミルクをかき混ぜるように、景色が必然に回った。目だったかもしれない。歓喜と悲哀、達成感と喪失感、コーヒーとミルク。攪拌されて一体になり、もうこれが何なのか誰にも分からない。ただ一つ分かるのは飲んだらまずいことだけだろう。

 どこで間違った?そもそも初めから全てが間違いだった気がする。2人の時がまた動き始めたのは確かあの日だ。


 そう、雨が降っていたんだ。


 俺を信じろ——テレビの中の俳優が言った。ドラマの中では誰からも慕われていて、恋人もいて、財産も地位もある。そんなこいつでさえ、ドラマという枠を外せば、どこで何をしているかなんて誰にも分かりやしない。信じる、なんてものはきっと、中が空洞の石でできた架け橋のようなものだ。叩く前に崩れてしまう、見かけだけの子供だまし。

 雨の粒が叩いているのは雨戸だろうか、それとも腐ってしまった俺の性根か。

 テレビの音を消して雨音に耳をすます。雨は好きだ。雑踏の音を消してくれるし、この世界に取り残された気分になれるからだ。雨が降る直前の、アスファルトに砂が混じったような独特な匂いが、革命前夜の革命軍参謀のような気分にさせてくれる。新時代の幕開けを予期する高揚感が俺の心をくすぐる。戦いが終わるという安堵感と共に。

「雨は好きだ」

 寝癖のついた髪を掻きむしりながら、この好意を改めて咀嚼した。舐め終わり寸前の飴玉みたいに音を立てて。心のわだかまりでさえ、そうできたら。足元に散らばる求人誌はいつの間にか部屋に置かれていたものだ。置いて行った母親は長年連れ添った父親を信じ、裏切られた。それなのに未だに信じることを信じている。


 「瑞穂みずほ、高砂さんから電話!」


 心臓が何者かに握りつぶされた気がした。息ができない。苦しい。ものすごく大きな喪失感と暗闇の世界を思い出した。懐かしいと思えるほどに。

 そこから先はよく覚えていない。すぐ寝てしまったからだ。銀行強盗の人質になって見せしめのためだけに殺されたように、あっさりと眠った。深く、深く。

 どれくらい時間が経っただろう。目が覚めるとメモ用紙を握りしめて冷えた床の上で横になっていた。くしゃくしゃの紙には受話器の奥から辛うじて聞こえてきた声を頼りに書き留めた、ナメクジが地面を這った跡のような、無造作に切った糸のようなものが書いてあった。それは『あし た 14 い え』と読める気がする。多分これは今日の14時、高砂の家に来いということだろう。こういう当たってほしくない勘は嫌というほど当たる。

 思い立ったように取り出した充電の切れかけた携帯は『14:38』と表示していた。またまた思い立ったようにこの人は知人です、と臆面もなく紹介できるほどの身なりに整え、家を飛び出した。本当に飛び出した。高砂の家まではそこまで時間はかからない。同じ市内にあるし、足が道を覚えている。

 その家は5年前と変わらない住宅地から少し離れた、静かな場所にあった。庭には雑草がなく、手入れが行き届いていると一目で分かるくらい綺麗だ。俺の人差し指は速度を緩めずインターホンを押した。俺は行動だけは早い男だった。

 呼び鈴が家の中で鳴るのとほぼ同時に、

 「あら、橘くん。きてくれたのね。どうぞ上がって」

玄関から顔を出す美和の母親は老いを感じさせないような、どこかの王室のような格式の高い格好で俺を招き入れた。玄関にスロープがあり、廊下に手すりがあった。もう介護の心配をしているのだろうか。遅刻したことを謝ろうとする前に、

 「ごめんなさい。急に呼び出して。実は大事な話があるの」

 「いえいえ、こちらこそ遅刻してしまってすみません。大事な話?」

 「そうなの」

 一瞬顔の影が濃くなったかと思うと、そう頷きながら答えた。

 「とりあえず、会ってくれる?」

 会う?誰に?とてつもなく嫌な予感がした。けれどあっという間に覆す事実を思い出した。美和は、高砂美和は東京の大学に通っているはずだ。こんな長野の片田舎ではなく、大都会で青春を謳歌しているはずだ。

 まさかそんなはずはない。お前はここにはいないんだ。目の前に座っている華奢な女の子を見てずっと唱えていた。


 「初めまして。高砂美和です。よろしくお願いします」


 初めまして…?


 何かの歯車が動く音がした。美和の後ろの高そうな金の装飾のついた時計の秒針の音ではないことは確かだった。


 







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