ひつじ雲

kutsu

朝焼けの空

私は枕元に置いた携帯電話の振動で目が覚めた。

画面を見ると母親からの着信だった。

めったにかかってこないうえに午前4時30分。嫌な予感しかしない。

一緒に目が覚めてしまい起きようとする妻に寝てていいよ、という合図をして寝室からリビングへ行き電話に出た。

入院しているおばあちゃんの具合が急変して危険な状態だと伝えられた。私がヨウおばあちゃんにとても懐いていたのですぐに連絡をくれたようだ。父と母は自営している喫茶店を今日は休みにするらしい。子供と妻の近況について返答し、私はなるべく早く行くと言い電話を切った。

妻が温かいコーヒーを手渡してくれた。

一口飲む。相変わらず調度いい。いま必要な香りと味のような気がする。家には何種類か豆があって、それをその時々でブレンドしているらしい。私は妻が入れてくれるコーヒー以外をいつの間にかコーヒー風と呼ぶようになっていた。

「起きちゃったか、ありがとう。ヨウおばあちゃんの具合が良くないらしいんだ。始発で行くよ。」

「新横浜駅始発は6時ちょうど、時間がもったいないわ。」

私の電話中に新幹線の時刻は調べ済みのようだ。いや、それとも暗記しているのか?仕事の時の顔になりつつある。

妻がカーテンを開けると明るくなりはじめた空にひつじ雲が広がっていた。

「手配は私がするからとりあえず着替えて。今日は少し暑くなるから半袖の方がいいかも。でも病院内は少し寒かったりするからカーディガンも忘れないでね。」

もちろん天気予報も調べ済みだ。完全に仕事の顔だ。

妻はもともと取引先のセールスマネージャーの営業補佐をしていた。その人とは相性が良く色々な仕事をした。何より補佐の仕事が完璧だった。

私は子供部屋のドアをそっと開け、なぜか壁に押さえつけられているような格好で寝ている息子を確認してから寝室で着替えをはじめた。リビングからは妻が電話で話す声がぼんやり聞こえてくる。どうやらタクシーを手配してくれているようだ。私がリビングに戻ると一泊分の着替えと洗面用具と携帯電話の充電機が入ったリュックサックがテーブルに置かれていた。サイドポケットには水筒に入ったコーヒーも入れられている。

「5分後にタクシーが来るから急いで。」

「5分後?」

「そう、きっちり5分後。」

「う、うん、ありがとう。」

家を出る時にサングラスを渡された。

「きっと必要だから。」

私は妻が言うなら必要なんだろうと思い、特に気にすることなく受け取った。

玄関を出て私が左右のどちらから来るのかと見ていると、少し後ろに立っていた妻が言った。

「来た来た、相変わらず時間厳守!」

「え?どこ?」

左右を見ていた私の視界の上からそのタクシーは音も無く下りてきた。

雲でできた車体にはひつじぐもタクシーと書かれている。

ドアがふわっと開いた。

「お待たせいたしました。いつもありがとうございます。鳥谷様。」

「こちらこそいつもありがとうございます。今日はお電話でお話ししたように夫をお願いします。」

妻は白髪をきれいにオールバックにした運転手にコーヒーを渡した。

「さあ乗って。」

と私は妻に背中をポンと叩かれ言われるまま乗り込んだ。

「行き先は桜の山病院でよろしいでしょうか?」

私が現状を把握でぎすにいると、

「奥様からお伺いしております。」

と運転手は続けた。

「着いたら電話してね、じゃあ雲さんよろしくお願いします。」

妻がそう言い礼儀正しくお辞儀をするとタクシーのドアは閉まり浮上し始めた。

戸惑う私に運転手はバックミラー越しに話しかけた。

「色々聞きたいことがおありでしょうがこういう移動手段もあると理解していただくしか、奥様にはいつもご贔屓にして頂いてとても感謝しております。それでは、本日は私ひつじ雲タクシーの雲が責任を持ってお連れいたします。」

浮上するタクシーはひつじ雲の群れの一部になり移動しはじめた。かなりのスピードが出ているはずだがそんな感じはしない。スーッと流れるように進んでいく。

しばらく車内には沈黙が続いた。水筒に入ったコーヒーを飲み後部シートに体をあずけて外を眺めた。少しずつ落ち着いてきた。私が落ち着くのを待っていたかのようにゆっくりと運転手が話し始めた。

「奥様から頂くコーヒーは本当にいつも美味しくて、他のコーヒーをコーヒー風と呼ぶようになったくらいです。」

「あ、私もそうです。そうなんですよねー、どこで豆を買ってるのかなー。」

どうやら妻は仕事でよくこのタクシーを利用しているようだ。

「ここからだと約50分で到着いたします。もちろん安全運転に努めます。」

運転手の声は聞き取りやすくなぜかこのような状況でも安心させる響きがあった。

途中すれ違うタクシーに手を上げて軽く挨拶したりしている。

10分程走った?飛んだ?頃、前方の対向車線でハザードランプを点滅させているタクシーがいた。運転手は私にことわりその車の横で止めて窓を開けた。

「中川さんどうしたんですか?」

「いやー西風が切れちゃてね。給風車を呼ぼうかと考えていたところです。」

後部座席では最近テレビでよく見かけるミュージシャンがギターを弾いている。

「給風車といってもこの時間だと10分はかかるでしょう。私のストックを使ってください。」

運転手はダッシュボードから西風と書かれた円柱の筒を取り出し中川さんに渡した。

「さあさあ、お礼とかはいいですからお互い先を急ぎましょう。急いでいないタクシーなんていませんからね。」

中川さんのタクシーは東へと消えていった。

「すみませんでした。時間を取りまして。」

「いえいえ。今のは、、」

「地上でいうガス欠みたいなものです。今シーズンは驚くくらい西風が高騰していてみんな困っているんですよ。」

「この車はその西風が無くて平気なんですか?」

「もちろん西風は必要です。4種類全てなければ安定した心地良い運転は出来ませんからね。この車も西に向かってはいますが、東風だけではなく西、北、南、も使いながら進んでるんですよ。ただ桜の山病院までなら今使用中の物でじゅうぶんです。」

「そういうものなんですか。」

私は何も理解できないまま曖昧に答えた。

「さあ、高度を上げて高速空路に入ります。太陽が眩しいのでこのサングラスを、あ、お持ちでしたか、それではおかけください。」

高速空路に入ったタクシーは全身に太陽光を浴びながら走行していた。

私は後部座席から見たことがないような機器を操作する運転手を見ていた。合間にコーヒーを飲み、あぁ美味しいと声がこぼれている。

私も妻が持たせてくれたコーヒーを飲みながら外を眺めることにした。見えるのは太陽と青空。少し視線を落とすと雲が見えた。

「あのー雲さん。」

「はい、なんでしょうか?」

「もし可能なら、私の祖母が元気になったらこのタクシーに乗せてもらえないでしょうか?」

返答まで間があった。

利用するには特別な何かが必要なのかもしれない。まあ当然といえば当然だ。

「すみませんでした。あつかましいお願いでしたね。」

「いえいえ、そんなそんな、鳥谷様、私ひつじ雲タクシーの雲が責任を持ってどこへでもお連れいたします。」

「本当ですか!ありがとうございます。祖母は面白い事が好きで、何より空が大好きなんです。」

「そうなんですか。」

サングラスをかけた雲さんの横顔はなんだか嬉しそうに見えた。

「毎日空を見上げてニコニコしたり、不安そうな顔をしたり、話しかけたり、本当に大好きなんです。」

雲さんはうんうんと何度も何度も頷き、コーヒーをひとくち飲んでから言った。

「嬉しいですねぇ。本当に嬉しいですねぇ。」


予定通り50分で病院に到着し、私が雲さんにお礼を言おうとすると、

「さあさあ、こんな時間に病院へ行く人で急いでいない人はいませんからね。おばあさまがお待ちですよ。」

「そうですね。ありがとうございました。」

私は一礼すると祖母の病室に向かった。

後ろから雲さんの声が聞こえた。

「またのご乗車をお待ちしております。」


病室のドアを開けると父と母がベッドのそばに座っていた。あまりにも早い到着に二人は驚いているようだったが、すぐに視線で祖母の近くに来るようにと私を促した。祖母は眠っているようだった。私は布団から出た歴史を感じさせる手を握って話しかけた。

「ヨウおばあちゃんおはよう。すごく急いできたんだ。今朝とても不思議な事があったんだ。きっとヨウおばあちゃんは気に入るよ。ねえ起きて、ねえ。」

おばあちゃんは眠ったままだった。私は両親を見た。母はうつむき、父は首を横に振った。

私は続けた。

「あんなことってあるんだなぁ、空もすごくきれいだったし、おばあちゃんにも見せたいなぁ。もうほんとに、、」

おばあちゃんの薬指と小指が私の手を握り返した。

「聞きたいねえ。それは最後に聞くのにふさわしいかい?その前にあんた、タクシーで来たようだね。左肩に雲がついてるよ。」

「え?タクシー?雲?」

確かに私の肩には白い雲がついていた。

「おばあちゃんあれのこと知ってるの?」

「まあまあいいから早く聞かせておくれ。」

私は今朝おきた不思議な話しを始めた。

おばあちゃんは黙ってニコニコしながら聞いていた。特に驚くこともなく本当に楽しそうに聞いていた。

話しが一段落するとヨウおばあちゃんは私にたずねた。

「今日乗ったのはなんてタクシーだい?」

「ひつじ雲タクシーだよ。しかも運転手の名前が雲っていうんだ。嘘みたいでしょ。」

「え?そうかい、嘘みたいだねぇ、本当に嘘みたいだねぇ。」

おばあちゃんの目にはみるみるうちに涙がたまってあふれ出した。

「まだ元気に続けていたんだね、雲さん、雲秋生さん。」

囁くような独り言が近くにいた私には聞こえた。

羊おばあちゃんは若い頃を思い出していた。

雲さんと呼び、ひつじちゃんと呼ばれ、

幸せな日々を過ごしていた時代を。

「吉朗ちょっとカーテンを開けておくれ。」

私は窓へと向かいカーテンを開けた。

窓から見える空には朝焼けに染まるひつじ雲が広がっていた。

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ひつじ雲 kutsu @kunimitsu0815

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