第2話

「何か希望はあるか?」

 階下の座敷で昼食を済ませ、その後に着替えに部屋に戻った千鶴が、ようやく鍋屋から出てきたので、少しの疲労感を隠さずに俺は尋ねた。

 別に着替えなくとも、外出に不自由のある格好だったわけでもあるまいに。まったく、女の着替えは、時間が掛かってかなわんな。

「希望が出せる程、ワタシは世間を知らない」

 悪びれもせずに、自慢にならない事を偉そうに千鶴が言い放つ。

 成程、ま、それも尤もな話だ。

 なら――、あまり奇をてらわずに、ごく一般的に逢引で巡りそうな場所を幾つか回るか。

 なにしろこの街には、美術館も活動写真も劇場も、それなり以上の物が一通りは揃っているのだし。

 それで、最後に服屋でも覘かせれば、充分に満足するだろう。

「何だ?」

 行き先を考えている俺の袖を、妙に物欲しそうな目で千鶴が引いた。

「いや、別に……」

 はっきりと答えぬまま口を噤む千鶴だったが、やはり、思う所はあるのか、右手を所在無げに――漫ろにさせている。

「そうか」

 概ね、千鶴の言いたい事は分かったが、敢えて俺は気付かぬ振りをして考える。

 美術品の類は、千鶴の家に山程あったので美術館は無いな。歌劇も歌舞伎も駄目ではなかろうが、上映時間が長いし、そもそも俺はいまひとつああいった類を良いと思えぬ。

 そうだな、……活動写真にするか。

 行き先の目処をつけた所で、千鶴に向かって右手を差し出す。

 一拍遅れて、千鶴が俺と手を繋いだが、表情にそういう意味ではないと書いてある。

 無論、これもわざと誤解したのだが、案外素直に手を繋ぐだけで千鶴が満足してしまったので、逆に俺の方が戸惑ってしまう。

 しかし、千鶴らしいといえば、それもそうなので、小さく嘆息してから俺は横に並んだ千鶴の耳に囁いた。

「……安心しろ、その服も似合っている」

 ビジティング・ドレスなのは逃避行の初日と変わらないが、海都では洋装の者も珍しくは無いので、少々小奇麗過ぎる意匠の凝ったものも、今は止めていない。今日は特に、胸元のスカーフというか、リボンというか、そうした飾りが澄んだ蒼で、銀の止め具と相まって、特に見事だと思う。

 囁かれても、音がすぐに意味には結び付かなかったようで、千鶴は一瞬呆け、それから、顔を紅くしながら肩を震わせた。

「お前……! 分かっていて」

 照れと怒りがない交ぜになった顔で抗議する千鶴に、俺はにんまりと笑って尋ねる。

「まずは、活動写真で良いか?」

「活動写真!? 観たい!」

 簡単過ぎるほどに誤魔化せられた千鶴。

 本当に、この鳥頭は……。

 筋書き通りに動かせる面白さはあるが、いまいち、張り合いがないのも事実だった。

「観たことがないのか?」

「うむ」

「千鶴の家なら、自宅でも観れそうなものだが……」

 覗き窓から見る形の個人用投影機も――尤も、安くはないが――、それなりに出回っているし、千鶴の家ならより上等な物を個人で輸入していてもおかしくは無い。むしろ、成金趣味の子爵だったら、持っていない方が不思議だ。

「そういう物もあったのかも知れぬが、女子は淑やかにあれ、と、言われ続けてきた」

 当時の事を思い出したのか、千鶴が憤然と言い放つ。

 概ね予想通りの答えに、俺は少しだけ噴き出した。

「そうか」

 それで出来たのが千鶴なら、その教育方針は全くの無駄だったのではなかろうか?

 気の利いた皮肉に口の端を緩める俺と、その横で、だからこそ楽しませるのだぞ、等とのたまっている千鶴。

 気持ちの向かう方向は決定的にずれたまま、連れ立って俺達は歩く。

 全く違う場所を目指す俺と千鶴ではあるが、どちらの意思が勝るのか。

 おそらく、最終的には俺が勝つんだろうが、過程はそれなりに楽しめるだろう。


 またひとつ見つけた暇つぶしに俺はほくそ笑み、千鶴に歩幅を合わせ、のんびりと昼の海都を進んでいく。

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