अमृत―アムリタ―

アンガス・ベーコン

紅い紅い星空を見上げる

 天から降り注いだものは、人類には到底理解できないものだった。

 それは神秘的な金色の液体で、甘い酒の香りがしていたという。

 それは世界中の大地に染み込み、海に混じって、森羅万象を作り替えた。地球は混沌の星に変貌した。

 人類はそれに、アムリタと名付けた。

 やがて人類は盲信を抱く。アムリタの雫を飲めば神のゆるしを得て、奇蹟を我が物にできると。

 人類は盲信の果てに、アムリタを求めて醜い争いを始めた。

 白髪の青年――ダルタンもまた、アムリタを求める争いに身を投じている。

 自らのためではなく、妹のリオラを救うために。

「撃たれたら、こうするしかないんだ。ごめんなさい」

 ダルタンは浮浪者の腹部から右手を引き抜く。返り血が彼の白髪を赤く染め上げた。

 浮浪者は決死の覚悟で引き金を引くが、狙いが定まらず当たらない。

 虚しい銃声が、工場の屋根裏を幾重にも反響した。

 浮浪者は銃をその場に落とし、残された命の灯火で呪詛を唱える。

「ば、化け物め……狂ってる。お前も、何もかも。お前は何も知らない。現実を見ようとしていない……は、ははは、はははは」

 浮浪者は不気味な笑みを響かせながら意識を失った。

 ダルタンは、倒れ込んだ浮浪者の胸ポケットから、家族写真がこぼれ落ちたことに気が付く。

「僕は一体、誰に懺悔すればいいんだろうな……」

 ダルタンの腹部の傷が再生し、銃弾が押し出され、血の花と共に写真の上に転がり落ちた。

 この弾は、妹を守るために受けた弾だ。

 ダルタンは犯した罪を忘れぬよう、自身の腹部に親指を突き立て、勢いよく切り裂く。深い戒めの想いが、自傷の回復を止めている。

 それからダルタンは、浮浪者の遺体が異形に啄まれぬよう、屋根裏の隅に移動した。

 ダルタンは死後の安息を願って、浮浪者の瞼を下ろし、両手を重ねて丁寧に寝かせる。

「終わったよ、リオラ。僕らも寝よう。明日に備えて……」

 ダルタンはリオラの寝床――冷蔵庫を物音一つ立てずに持ち上げ、遺体から遠く離れた場所にゆっくりと下ろす。

 ダルタンは冷蔵庫にもたれかかって、リオラに添い寝した。

 そして崩れた屋根の隙間から、紅い紅い星空を見上げる。

「アムリタが降ってきたあの日も、こんな色をしていたっけ……空の色だけは、あの日からずっと変わらない。不思議だね、リオラ」

 返事はない。

 リオラは日に日に弱っている。先に眠りについただけなのだとダルタンは信じた。

 ダルタンも瞼を下ろして意識を手放そうとするが、焦燥感の棘が胸の奥に深く深く突き刺さる。

 リオラに明日がある保証はないというのに、自分が眠りに就く余裕などあるのかと。

 だが、体に鞭を打ったとして、一瞬でも隙が生まれれば命取りになる。

 ダルタンはどんな苦痛も意に介さないが、リオラの身に危険が及ぶことだけは我慢ならない。

 静かな葛藤の末に、ダルタンは二週間ぶりの眠りに就く。

 二週間前にメキシコに上陸してから、現在地に辿り着くまで、ダルタンはリオラを担ぎながら一睡もせず歩き続けてきた。

 ラストベルトと呼ばれるこの工業地帯に、まだアムリタが残っているからだ。

「おやすみ、リオラ。安心して。明日にはきっと辿り着けるよ。必ずアムリタを飲ませてあげるから。元気になったら、一緒に友達のところへ遊びにいこう」

 彼が過酷な旅路の末に求めているのは、妹と過ごす安寧の日々。アムリタの入手はその手段に過ぎない。

 ダルタンはひと時の安らぎの下、祈るように瞼を下ろした。

 遥か遠方、月影から逃れて、二人を見据える双眼鏡にも気づかずに。




 不吉な音がラストベルトに轟いた。

 一帯が穿たれ、地が震えている。ダルタンには聞き覚えがあった。彼は目を見開いて再び夜空を見上げる。

 彼の視界の端から端を、謎の飛行物体が横断していく。

 ダルタンは一つ、二つ、三つと目で追いかけたあと、数えるのを諦めた。終わりが見えなかったのである。

 まるで空を流れる暗雲のような光景を前にして、ダルタンの体毛が槍のように逆立った。

 空を睨みつけるダルタンの瞳に、狼のシンボルが映り込む。

「米国特殊部隊……!」

 ダルタンの生まれ故郷ルクセンブルクが米軍に滅ぼされた時も、彼は全く同じ光景を目の当たりにしていた。

 ダルタンの内なる深淵しんえんに憤怒の亀裂が走り、仇敵への憎悪が亀裂を割いて間欠泉と化す。彼の記憶の海面に、重なり合う悲鳴、幼子から流れ出る鮮血、立ち上る爆炎、かつて目にした地獄絵図が、水死体となって浮上する。

「僕のことを追いかけて来たのか」

 急いでリオラを担ごうとしたその矢先、ダルタンは視界の端に微かな明るみを感じる。違和感を覚えた方向には、先ほど寝かせた男の遺体があった。

 ダルタンは光に誘われるように、男のコートを力任せに引き剥がす。

 すると、その内側から、米軍のドッグタグと、明滅する通信機器が露わになった。

「この人は米軍だったのか。浮浪者のふりをして僕に近づくなんて……」

 変装のために重武装は出来ず、相手が超能力者と知っていながらも、この男は足止めのために攻撃を仕掛けた。米軍からそういう指示を受けたのだろうとダルタンは察する。

「鼻から死ぬ覚悟で……駄目だ。こうしちゃいられない。早く逃げないと」

 ダルタンは勢いよくきびすを返し、右足を伸ばす。

 ダルタンは冷蔵庫を背負って辺りの様子を確認した。

 錆びついた壁の隙間から目にしたものは、轟音の正体。ヘリから降下してきた巨人部隊の行進である。

 巨人部隊が身に着けているヘカトンケイルアーマーは、対異形パワードスーツ兵器であり、高さは八メートルに達する。かつてダルタンが対峙した際、酷く苦戦を強いられた。囲まれれば死を覚悟しなければならない。

 ダルタンは敵の視界に入らないよう、そしてリオラをなるべく揺らさないよう、一階に降りてから逃走を図る。

 ダルタンがタイミングを見計らって裏口から飛びだした瞬間、彼の視界は純白に塗りつぶされた。加えて、大地を焼き焦がす轟音がダルタンの聴覚を独占する。

 彼の行く手を阻んだものは、一筋の青白い雷撃。

 ダルタンは怯まない。しかし、舞い上がった砂煙が再び視界を塞ぎ、先へ進むことを許さない。

 立ち往生するダルタンのことを、何者かが猫撫で声で歓迎する。

「アムリタが注がれたあの日から三年、君と私が出会ってから、再会の今日こんにちまで七か月……」

 砂煙の奥から聞こえた声は、まるで狼が喉を鳴らし、愛情を表現しているかのようにか細い。

 男の声か、女の声か、ダルタンには判別が付かない。だが聞き覚えがあった。

 砂煙が払い除けられ、雷撃の落下地点から人の姿形をしたものが歩み出る。

 その身を包むは豪華絢爛ごうかけんらんたる白い軍服。容姿はうら若き麗人れいじんのようであり、腰まで伸びた黄金の長髪と、白銀色の瞳が爛々らんらんと光り輝いている。

 ダルタンはじりじりと後退あとずさり、目の前に立つ仇敵の名を口にする。

「やはりお前か、クローネ……!」

「会いたかったよ、ダルタン!」

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