儀式的な日曜日

五十鈴りく

儀式的な日曜日

「はい、三分経った! いただきます!」


 嬉しそうに手を合わせ、彼女はセミロングの髪をゴムで束ね出した。先に束ねておけばいいのに、三分経ってから始めるのは僕への優しさだ。

 五分かかる僕はあと少し待たなくちゃいけないから、わざとそうしているのを知っている。


 僕が、彼女――ミサトと同棲を始めて半年。

 毎週日曜日の夕食は決まってインスタント。

 それも、彼女のこだわりがある。


 僕は甘い油揚げの載ったきつねうどん『赤いきつね』。

 彼女は海老のかき揚げが載った天そば『緑のたぬき』。


 そう、必ずだ。僕が『緑のたぬき』にありつけるのはたったのひと口。


「ひと口頂戴。はい、こっちもひと口あげるから」


 これが毎回行われる、儀式のようなやり取り。


「うん、美味しい!」


 白くて平たい麺をひと口啜り、彼女は満足げだ。


「それならたまには交換しようか?」


 僕はいつもそれを口にする。でも、わかっている。答えはノーだ。


「リョウくんがひと口くれるからいいの」


 『赤いきつね』は美味しいけど、彼女は『緑のたぬき』を愛してやまない。だから、いつもこう。


 彼女が『緑のたぬき』。

 僕は『赤いきつね』。


 このまま結婚したら、多分僕はずっと『緑のたぬき』をワンカップ食べきることはないんだろう。

 二人とも『緑のたぬき』にしたらいいのかもしれないけど、彼女は絶対に赤と緑を同じ比率で買ってくる。多分、ひと口だけ『赤いきつね』も味わいたいんだ。


 僕は赤も緑も同じくらい好きだから、まあいいかと、彼女にとっては都合のいい男になり果てていた。


 平穏な日々が続き、僕たちが結婚を意識するようになった頃――彼女は僕のアパートへは戻れなくなってしまった。



 どうして急にこんなことになってしまったのか――。

 時間を巻き戻せるのなら、僕はなんだってする。


 たくさんの買い置き。赤と緑。

 僕が赤で、彼女が緑。


 いくら美味しくても毎日は駄目だって、食べる日を決めた二人。

 その決め事を僕は破った。


 自分だけのための食事の献立なんて考える気もない。

 僕は毎日、眼鏡を曇らせて麺を啜った。買い足す彼女がいないから、僕は『赤いきつね』を食べつくして、そして彼女のための『緑のたぬき』に手をつける。


 他に誰もいない、汚れた部屋。

 僕が脱ぎ散らかした靴をそろえる人がいない。


 僕は湯を注いだ『緑のたぬき』に手を合わせる。蓋をめくると、かき揚げの香ばしい匂いがした。


 とんでもない罪悪感が箸を持つ手を震わせる。でも、「それは私のだから」と頬を膨らませて主張する彼女がいない。

 僕は悪事に手を染めるような気分で麺を啜る。出汁のきいたつゆを最後の一滴まで飲み干すと、眼鏡を外した。湯気で曇った眼鏡ではなく、目元をティッシュで拭く。


 一人、嗚咽を殺して泣いた。

 彼女からもらう、たったひと口が僕は好きだった。あれほどの贅沢は他にない。


 あの日――。

 彼女は朝寝坊をした。

 「戸締りに気をつけて」と言い残して、僕の方が先に家を出た。


 ヘアアイロンを手に、直らない寝癖と半泣きで格闘していた彼女。

 僕は、この日を特別だとは思わなかった。


 ごくありふれた日常の一コマに過ぎなかった。それなのに、この後、慌てた彼女は交差点で車にはねられた。


 その知らせを彼女のお母さんから聞いた時、僕はスマホを落とした。割れた画面は今でも直していない。

 その日から、二人の儀式的な日曜日は来なくなった。


 あれほどの幸せが他にあっただろうか。

 くゆる湯気の中、頬を染めて食べる彼女。

 一度に麺をたくさん啜れない、小刻みなあの音――。

 幸せだった。本当に。心からそう思う。


 ――ブブブブ。


 スマホのバイブレーションが机の上で主張する。割れた画面に映し出された相手は、僕の母親。

 あれから抜け殻になっている僕を心配して、度々連絡をくれる。その多くを、僕は受け付けない。


 ちゃんと食べてる? 眠れている?

 答えに詰まるから。そんなことを訊かないで。

 ごめん。でも、平気なわけがないじゃないか。


 僕があの時、もっとしつこく起こしてあげれば、彼女は余裕を持って家を出て、事故になんて遭わなかったんだ。

 僕が、彼女を守れなかった。


 ――ブブブブ、ブブ。


 今日はいやにしつこい。

 どうしたんだろう、と僕は机の縁に辛うじてとどまっていたスマホの画面を再び見遣る。蜘蛛の巣みたいなヒビの入った画面に現れた文字は『ミサト母』。

 僕は弾かれたようにスマホを手に取り、スワイプする。


「も、もしもし……亮哉です」


 泣いていたのに気づかれただろうか。声がかすれて聞き取りにくかったかもしれない。

 けれど、向こう側のミサトのお母さんは、昂った声で、それこそ泣きながら言ったんだ。


『美里が、美里が起きたのよ! それで、亮哉くんのことを呼んでいて……っ!』


 目覚める可能性は、まったくないということはありません。

 けれど、過度な期待もされませんように。

 ――それが医師の言葉だった。


 頭を打って、眠り続ける彼女。たくさんの管が彼女の命を繋いでいた。

 いつも元気で溌溂とした彼女が、病院の真っ白な部屋の中で横たわっている。あの悲しい光景がこの先もずっと、気が遠くなるほどずっと続くのかと、どこかで思っていた。


 絶対に目覚める。大丈夫だと思えるほど、僕は楽天的ではなくて、むしろそんな僕を励ましてくれるのが彼女だった。


 僕はミサトのお母さんに返事をするのも忘れて、スマホをポケットにねじ込むと家を飛び出した。けれどまた、忘れ物を取りに一度戻る。こんな時だからこそ必要なものだ。


 涙がまた目の前を曇らせるけれど、この涙は仕方ない。

 また、二人の、二人だけのルールに満ちた日常が始まる。


 彼女がもし、僕が彼女の『緑のたぬき』に手をつけたことを察知したのだったらどうしようか。

 「それはあたしの!」と主張するために起きたとしたら?

 そんなことを考えて可笑しくなる。


 そうして僕は、ポケットの中の小箱を握り締めた。この中には幸せな未来が詰まっているはずだ。

 ひとつだけ気がかりなことがあるとすれば――将来、こんな僕たちの間に生まれてくる子供は、赤と緑、どちら派なのだろうかということ。


 とりあえず、彼女の顔を見て、この小箱の中身を指にはめたら、彼女にバレないうちにストックを元通りにしておかないと。


 また始まる儀式的な日曜日のために――。

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儀式的な日曜日 五十鈴りく @isuzu6

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