第63話 ナイジェル・ラングレーの杯

 給仕が割れたグラスを片付けるのを待ってから、ナイジェルは愛想良く言葉を続けた。


「どうも、驚かせてしまったようで申し訳ありませんね。ドレスにはかかりませんでしたか?」

「いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「では改めて自己紹介させてください。私はナイジェル・ラングレーと申します。お父さまとは良い取引をさせていただいております」

「初めまして、ビアトリス・ウォルトンです。父からお名前はかねがねうかがっております。こちらこそ良い取引をさせていただいて感謝しております」


 ビアトリスは型どおりの挨拶を返した。どうにも胡散臭い男だが、一応ウォルトン家の取引先である以上、礼を失するわけにもいかない。


「それにしても先ほどのお嬢さんは勇敢でしたね。自分から殿方にダンスを申し込むなんてなかなかできるものじゃありません」

「立ち聞きしていらしたのですか?」

「貴方に声をかけるタイミングを見計らっていたら、聞こえてしまったのですよ」

「そうですか。それは失礼なことを申し上げました。では、私はあちらに知り合いが居りますので――」

「まあお待ちください。ほんの少し、ほんの少しだけ私とお話ししていただけないでしょうか」

「お話、とおっしゃられても」

「ああ、警戒なさるのも無理はありません。私と貴方のおかしな噂のことでしょう? あれは私の友人が勝手に広めたもので、私の本意ではないのです」


 ナイジェルはいかにも心外だ、と言わんばかりに悲し気に顔をゆがめて見せた。


「婚約者を亡くしてずっと生ける屍のようだった私が、ようやく恋をしたというので、応援したいと張り切って暴走してしまったようなのです。もうやめるようにときっちり言い渡しておきました。それに貴方にはもうお似合いのパートナーがおられるようですから、私のような年寄りの出る幕はありませんしね」

「そうなのですか」


 どこまで信用していいかも分からないまま、ビアトリスは当たり障りのない相槌を打った。


「ところで先ほど貴方はなぜパートナーをお譲りになったのですか? わざわざ彼を後押しておられましたね」

「疲れたのでしばらく休みたかったのと、彼が踊るところを外から見たかったからですわ」

「それは表向きの理由でしょう? ――当ててみましょうか。あの女性は貴方のパートナーに恋をしていた。しかし貴方から奪うつもりはなく、ただ最後の思い出に貴方のパートナーと踊りたがっていた。だから貴方はその気持ちを汲んで、パートナーに彼女と踊るように勧めた、違いますか?」

「全く違いますわ。随分とおかしな妄想をなさるのですね。私の友人たちについて勝手にあれこれおっしゃるのはやめていただけますか? 不愉快です」

「どうかお怒りにならないでください。今のはほんの前振りです。言いたいのは私自身のことなのです」

「貴方ご自身?」

「ええ、そうです。ビアトリス嬢、どうか私と一曲踊っていただけないでしょうか。望みがないと分かった以上、私もこれを最後の思い出にして、貴方への思いをふっきることにいたしますので、どうか哀れな男の思いを汲んでいただきたいのです」

「……申し訳ありませんが、それはお受け出来ません」

「そうですか。分かりました。残念ですが、これ以上無茶は申しますまい」


 ナイジェル・ラングレーは意外なほどあっさりと引き下がった。何か企んでいるのではと思っていたが、警戒のしすぎだったのだろうか。

 しかしいずれにしても、ダンスに応じられないことに変わりはない。ここで彼と踊っては、噂を払しょくするためにカインと参加したことが無意味になってしまうだろう。


「そうだ、先ほど私のせいで飲み物を落としてしまいましたね」


 ナイジェルはそこに通りかかった給仕の盆からひょいとグラスを二つ取ると、一つをビアトリスに差し出した。


「せめてダンスの代わりに、私と乾杯してください」

「分かりました」


 それを断るのは、さすがにためらわれるものがある。


「それでは、一つの恋の終わりに」


 ナイジェルが芝居がかった仕草でグラスをあおるのに合わせて、ビアトリスもグラスに口を付けた。口に含み、飲み下す瞬間、微かに妙な味がした。


「どうかなさいましたか?」

「いえ……」

「ところで先ほどの話なのですが、私の友人はまだ貴方と私を結びつけるのをあきらめていないようなのですよ」

「困った方なのですね」

「ええ、本当に困ってしまうほどに世話好きな人でしてね。貴方もご存じだと思いますが」

「私が?」

「ええ、貴方もよくご存じの方ですよ。幼いころから何度もお会いになっているでしょう?」


 そういうナイジェルの顔が、ふいにぐにゃりと歪んで見えた。


「おや、もしかしてご気分でも? 妙に頭がくらくらしてきたりしましたか?」

「いいえ……大丈夫です……」

「ああ、やはりご気分が優れないようですね。無理をなさらず、あちらに行って休みましょう」


 ナイジェルが近寄ってビアトリスの腕をとった。振り払おうとするものの、まるで力が入らない。


 あのグラス。

 奇妙な味。

 いや、まさかそんなはずはない。

 だってナイジェルは給仕から受け取ったグラスを、そのままビアトリスに差し出したのだ。その過程で何かを入れる機会など――


(つまりあの給仕は最初から?)


 ――だから私が責任をもって、貴方に次のお相手を紹介してあげようと思うのよ。


 朦朧とする意識の中、どこかで王妃の笑い声が聞こえたような気がした。

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