第64話 王妃の陰謀
半ば抱えられるように広間から連れ出され、どこかへ導かれていくのが朧げに分かった。逃げなければと思うのに、手足が重くて振り払うことができない。まるで泥沼の中でもがいているようなもどかしさ。
朦朧とした意識の中、ビアトリスはふと、手の中にある硬質なものに気が付いた。
(これは……グラス?)
先ほど自分で飲み干したグラスを、無意識のうちに握り込んでいたのだろう。
やがてどこかの扉が開かれ、部屋に連れ込まれそうになった瞬間、ビアトリスは渾身の力を振り絞って、グラスを握ったままのこぶしを扉の枠にたたきつけた。手の中でグラスが砕け、破片が手のひらに突き刺さる。鋭い痛みに、意識が一気に覚醒した。
「離し……っ」
足を踏みしめ、振り払って逃げようとするも、ナイジェルはそのまま力づくでビアトリスを部屋に押し込んで、長椅子の上に放り投げた。
「なんてことを……手を見せてください」
ナイジェルは後ろ手にドアを閉めると、ビアトリスの方に大股で近づいてきた。
「近づかないで! ……私から離れなさい」
ビアトリスは何とか身を起こし、割れたグラスをナイジェルに向けて突き付けた。破片を握り込んだ手のひらがずきずきと痛む。まだ頭がぼうっとするものの、意識は先ほどとは比べ物にならないほどにしっかりしていた。
「怪我の手当てをするだけですよ、何を警戒してらっしゃるのですか?」
「いいえ、貴方は王妃さまに私を犯して結婚に持ち込むように命じられているのでしょう? ……王妃さまがウォルトン家の取引先をつぶしたのは、うちを困窮させるためではなく、手先である貴方を私に近づけるためだったんですね」
思えば最初から、全て繋がっていたのだろう。
王妃の圧力で従来の取引先をつぶされたウォルトン家。そこに新たな取引先として名乗りを上げるナイジェル・ラングレー。そのナイジェルがビアトリスを見染めたと言って求婚。ビアトリスは断るものの、実家の取引先である以上、そこまで邪険にあしらうことも出来ない。そして――
ビアトリスは奥歯をかみしめた。ラングレー家が王妃と繋がっているという話は今まで聞いたことがないし、かつての王太子争いでも中立だったと聞いている。
とはいえ裏で個人的につながっている可能性は当然にあったわけである。彼の勧めで王家の給仕が持ってきた飲み物を口にするとは、我ながら迂闊にもほどがある。
「ラングレーさまは、王妃さまに何か弱みでも握られているのですか? こんな犯罪行為、とても侯爵家の当主がなさることとは思えませんが」
「弱みだなんて、ただ恋に狂っているだけですよ。どうか私の思いを信じて下さい」
「とても信じられません。私をエッシャー夫人のお茶会で見染めたとのことですが、そのとき私が着ていたドレスは何色でしたか?」
「……私は貴方自身の美しさに一目ぼれしたのですから、ドレスの色なんて些末なことはいちいち覚えておりませんよ」
ナイジェルは笑顔で答えたが、いかにも言い訳がましかった。
「王妃さまの計画では、薬で眠っている私を犯し、適当な時間をおいてから、私たちが抱き合っているところを誰か外部の人間に発見させる、といったところでしょうか」
王宮の一室で、裸で抱き合う未婚の男女。むろん騒ぎにはなるだろうが、以前から噂になっていた二人のこと、誰もが「恋人同士が羽目を外した」と納得して終わりになるだろう。そしてビアトリスは、ナイジェルに嫁ぐより他に選択肢がなくなる。
「……やれやれ、そこまで見抜かれてしまってはお手上げですね」
ナイジェルはおどけた仕草で肩をすくめた。
「シナリオが狂ってしまって残念でしたわね、ラングレーさま」
「貴方の目が覚めてしまったのは予定外ですが、まあ些細なことですよ」
ナイジェルは苦笑を浮かべ、ビアトリスに一歩近づいた。
「当初の予定よりも労力を使うことになりますが、私も男ですからね、どうと言うことはありません。むしろ貴方にとって気の毒なことになりました。眠っている間に全て終わってしまった方が、よほど幸せだったでしょうに」
「私に指一本でも触れた場合、私は貴方を告発します」
「おやおや、そんなことをしたら世間から何と言われるかご存じですか?」
純潔を奪われた令嬢が人前に出て、当時のことをあれこれ話そうものなら、どんな扱いを受けるかはビアトリスとて知っている。
また王妃が流した噂には、「ビアトリス・ウォルトンは男にだらしなくて虚言癖がある」というのもあった。バーバラの協力で噂はいったん沈静化したが、何かきっかけがあれば簡単に燃え上がることだろう。またなんとも周到なことである。
「構いませんわ。全て法廷でお話しします。貴方が『友人』について語ったことや、王宮の給仕から受け取った飲み物で、急に意識が朦朧となったことも全て。……信じない人もいるでしょうが、信じる人も多いでしょうね。公的な裁きがどうなるにせよ、どちらも無傷ではいられませんわ。貴方も王妃さまも、みんな地獄に道連れです」
「……はったりですね。そんなこと、貴方のような若い令嬢に耐えられるわけがありません」
「そう思われますか? 自慢ではありませんが、私、悪評には慣れておりますのよ」
ビアトリスは傲然と顎をあげて微笑を浮かべた。
「それに父と兄は私を溺愛していますから、私を傷つけた男をつぶすためなら全面戦争も辞さないでしょう。私の婚約者のカイン・メリウェザーだって同じことですわ」
ちなみにこちらははったりである。父と兄からそれなりに愛されていると思うが、ウォルトン家の名を危険に晒してまでビアトリスと共に戦ってくれるかどうかは分からない。カインに至っては、そもそも婚約すらしていない。
しかし今はそんなことを気にすべき時ではなかった。
「そうなったら、貴方の後ろ盾である王妃さまの立場もどうなるかわかりませんわね。何があっても守ってもらえるなどと思わないことです。――ラングレーさま、どんな弱みを握られているのか存じませんけど、王妃さまの指示に従うことが本当に割に合うのかどうか、ようくお考えになるべきだと思いますわ」
ビアトリスは明瞭な口調で言い切った。
ナイジェルはそれ以上近づいて来ない。
どうすべきか判断しかねているのだろう。
少し経つとまた頭がぼうっとしてきた。
薬物の影響に加えて、貧血を起こしかけているのかもしれない。
しかしこのまま意識を失ってしまえば全て終わりだ。
ビアトリスは破片を強く握りしめて、なんとか意識を保ち続けた。
膠着状態が続く中、ふいにドアをダンダンと叩く音がした。
「ビアトリス! そこにいるのか? ビアトリス!」
「カインさま、助けてください!」
ビアトリスの返事に応えるように、扉を打ち破る音がする。
ビアトリスは安堵のあまり、そのまま意識を手放した。
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