第53話 カインの演奏

 没落貴族のブラウン子爵家に、メアリーという名の女性は存在しない。あの女性は何らかの理由で素性を偽り、身を隠していると考えられる。

 もっとも「子供のころから仲が良かった」というフィールズ夫人は、彼女の正体を分かったうえで、身分を偽ることに協力しているのだろう。おそらくよんどころない事情あってのことだろうし、部外者であるビアトリスがあえて口を出すことではない。

 ただ気になるのは、彼女のカインに対するあの眼差しだ。まさか彼に危害を加えるとまでは思わないが、一応カイン本人に伝えて、注意を促した方がいい。ビアトリスはそう判断し、カインと二人きりで話す機会を待った。


 しかしあいにくなことに、機会はなかなか訪れなかった。カインとヘンリーの間で交わされている議論には、途中から白髪頭の老紳士や、妙齢のご婦人まで加わって、大いに盛り上がっている。

 ビアトリスが呼び出せばカインは応じてくれるかもしれないが、せっかくの盛り上がりに水を差すのは無粋だし、招待主である夫人の顔をつぶすことにもなりかねない。


 そうこうしている内に、本日のメインイベントであるアンブローズ・マイアルの演奏を拝聴する流れとなってしまった。


「いよいよね、楽しみだわ」

「ええ、間近で彼の演奏を聴けるなんて二度とないかもしれないものね」


 一緒にホールへ移動しながら、マーガレットとシャーロットが興奮を隠しきれない様子で囁きかわす。ビアトリスもあの女性のことはいったん忘れて、せっかくの演奏を存分に楽しむことにした。


 そして演奏が始まった。アンブローズ・マイアルはなかなかサービス精神にあふれた演奏家で、まず古典的な名曲をいくつか披露してから、次に己が得意とする曲を弾き、さらには客のリクエストに応えて最近の流行曲まで楽しげに演奏して見せた。

 そのいずれもが素晴らしく、指先から紡ぎだされる多彩な音色には圧倒されるようだった。


 惜しみない拍手が贈られたあと、アンブローズはいったん休憩に入り、その間にフィールズ家の双子の姉妹の二重奏が披露された。

 むろん先ほどのような迫力はないものの、息の合った双子の二重奏は愛らしく耳に心地よかった。二人の指使いはなめらかで、指導者の技術の高さがうかがえる。あの眼鏡の女性が何者であるにせよ、ピアノの腕は確かなようだ。

 こちらにも客人たちから惜しみない拍手が贈られた。


「エルマもエルザも素晴らしかったわ!」


 ビアトリスの言葉に、エルマたちは「ビアトリスさまにそう言っていただけるなんて嬉しいです」と嬉し気に頬を赤らめた。


 やがて休憩を終えたアンブローズが再びピアノの前に戻ってきたが、彼はすぐに椅子に座ることなく、周囲を見回しながら茶目っ気たっぷりに提案した。


「お嬢さまたちの可憐な二重奏を聴いているうちに、私も久しぶりに誰かと一緒に弾いてみたくなりました。よろしければどなたか私と二重奏をお付き合い願えませんか」

「まああ、なんて光栄なお話ですこと! エルマ、ぜひ貴方がお相手しなさい」


 フィールズ夫人がはしゃいだ声を上げるも、エルマは慌てて手を振った。


「そんな、あの方とご一緒なんて、とんでもありません」

「それじゃエルザ」

「私も無理です……!」


 エルザは泣きそうな顔でふるふると首を横に振った。

 内気な彼女らはすっかり気後れしてしまっているらしい。

 なんとなく場が白けた雰囲気になりかけたとき「私でよければ、お相手しましょう」と澄んだバリトンが広間に響いた。


「まあ、メリウェザーさま」


 エルザがほっとしたような声を上げた。


「メリウェザーさまってピアノをお弾きになるの?」

「ええ、自宅でよく弾いているとうかがったことがあるわ。でも実際に聴くのは私もこれが初めてよ」


 隣から問いかけるシャーロットに、ビアトリスは小声で囁き返した。アンブローズ・マイアルやフィールズ姉妹に加え、カインの演奏まで聴くことができるとは、今日は自分にとって贅沢な一日になりそうだ。


 カインのことだからピアノも難なくこなすのだろうと思ってはいたが、実際の演奏は予想をはるかに上回る、それは素晴らしいものだった。初めての合奏とは思えないほどにぴったりと息があっていて、二つの調べが互いに絡み合い、響きあって華やかなメロディを奏でていく。

 むろん職業演奏家のアンブローズが合わせてくれている面はあるのだろうが、それにしたってぶっつけ本番でここまでやれるとは、カインの天才ぶりを改めて思い知らされた心地である。

 演奏が終わると、会場はたちまちのうちの万雷の拍手に包まれた。ビアトリスも夢中で拍手を送った。


「見事な腕前ですね、おかげでとても気持ちよく弾くことができました」


 アンブローズが笑顔で言うと、カインも「光栄です」と微笑み返す。


「よろしければ、今度は貴方一人の演奏を一曲お聴かせ願えませんか?」

「私は構いませんが、主催者であるフィールズ夫人にうかがってみなければ」


 カインがフィールズ夫人の方を見やると、夫人は興奮冷めやらぬ様子で、「私からもぜひお願いします」と勢い込んでうなずいた。


「それでは、私の故郷で人気のある夜想曲を」


 カインは再びピアノの前に座り、今度は一人で演奏を始めた。先ほどの華やかな二重奏とは打って変わった、胸にしみいるような優しい旋律に、その場にいる者はみな無言で耳を傾けた。 

 初めて聴くのに、どこか懐かしいようなその音色に、ビアトリスはカインと初めて会った日のことを思い出した。


 ――ビアトリス・ウォルトン公爵令嬢。君がさぼるとは意外だな。


 あずまやで一人泣いていたビアトリスに、カインが声をかけてきた。あの日全てが始まったのだ。彼の口から君は何も悪くないと聞かされて、ビアトリスはアーネストの冷たい態度に思い悩むのはもうやめようと決意した。そして――


 カインの演奏は、突然の悲鳴によって断ち切られた。


「先生、どうなさったんですか先生!」


 泣き叫ぶエルマの足元には、メアリー・ブラウンがうつぶせに倒れ伏していた。


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