第42話 生者と死者・後編(カイン視点)

 正統なる第一王子か、汚らわしい罪の結果か。不安定な立場に振り回されてきた少年は、メリウェザーの地に来て「市井で育った辺境伯の庶子カイン」という確固たる立ち位置を手に入れた。カインは辺境伯家の四代前の先祖の名前で、思慮深く、勇敢で、燃えるように赤い髪と瞳を持っていたという。


 メリウェザーの地は何の違和感もなく赤毛の少年を受け入れた。そして少年もまた、己の新しい名と第二の故郷を気に入った。


 第二の故郷を気に入りはしたが、それでもときには義母やその取りまき達が「ついに不貞の子を追い出してやった」と祝杯を挙げる光景を夢に見て、夜中に跳ね起きることもあった。クリフォードの名、第一王子の身分、手に入るはずだった王太子の座。己が失ったものを思い、気が狂いそうになる夜に、カインは決まってビアトリスのことを考えた。


 自分が死者となることを選んだのは、ビアトリス・ウォルトンのためだ。

 あの俗悪な義母に負けたのではない。弟に奪われたわけでもない。自分は無垢で美しいものを傷つけないために、進んで身を引いたのだと。自分のやったことは立派な意味のある行為なのだと。


 それは欺瞞に過ぎなかったが、九つの子供には欺瞞が必要なときもある。

 敬虔な信徒がイコンに口付けするように、カインはビアトリスのことを思い出し、その面影を抱いて眠りについた。


 自分が名前をなくし、身分をなくし、辺境の地で暮らすことで、幸せに笑っていられる美しい存在がある。奪われたのではない。自ら身を引いたのだ。

 胸の中でそう繰り返すたび、思い出の中の少女はますます美しく、神聖な色を帯びて行った。



 ときが経つうちに、カインはメリウェザーの地になじんで行った。辺境伯領は中央からは遠かったが、その分隣国の進んだ学問や珍しい文化が流入し、中心部は王都に劣らず活気があった。その中で充実した日々を過ごすうちに、過去を思うこともなくなり、ビアトリスの面影にすがることも減っていった。


 それでもときおり夜空の月を見上げるように、彼女のことを思いだした。

 さぞや美しくなっただろう。アーネストとは変わらずに睦まじいのだろう。漠然とそんなことを考えた。二人に幸せになって欲しいと願い、そう願える己を喜んだ。


 祖父の城には多くの客がひっきりなしに訪れた。その中にはクリフォードのかつての崇拝者の姿もちらほら見られた。

 彼らは一様に再会を喜び、ひとしきり旧交を温めてから、殿下は変わられた、穏やかになられたと口にした。以前の自分がどれだけ傲慢で攻撃的な人間だったかを思い知らされて、カインは苦笑するより他になかった。


 彼らの中に、自分がアーネストにやった行為を得意げに披露する者がいた。その内容は負け犬のうっぷん晴らしそのもので、カインがみっともない真似をするなと叱責すると、まるで捨てられた犬のように傷ついた様子で帰って行った。


 分かっている。あの男は自分を喜ばせるためにやったのだ。そういうことを喜ぶ人間だと思われていた自分自身にも責任はある。

 とはいえ、あの程度のことでアーネストがどうかなることもないだろう、なんといってもアーネストは全てを手に入れて、幸せの絶頂なのだからと、軽く考えていた。そのときは。



 やがて王立学院に上がる年になったが、カインは昔の知り合いに会うことを避け、王立学院ではなく領内にある学院に通うことを選んだ。そしてそのまま卒業して隣国の大学に進学する予定だったが、「この国の貴族社会でやっていくとき、王立学院を卒業していないことが枷になるかもしれない」と教師に言われ、最終学年だけは王立学院に通うことを決めた。

 王都を離れて以来身長は数十センチも伸び、顔立ちも少年から青年のそれへと変わっている。人とあまり関わらずに過ごすなら、さほど問題はないだろうと祖父も納得してくれた。


 編入した王立学院では、あのアーネストが生徒会長をやっており、その堂々とした立ち振る舞いは、離れて過ごした時間の長さを実感させた。

 学院は広く、学年の違うビアトリス・ウォルトンと顔を合わせる機会はなかった。合わせたいとも思わなかった。思い出は美しいままそっとしておいた方がいい。成長したビアトリスが理想と違っていれば、自分は失望するだろう。かといって理想通りなら、きっと欲しくなるだろう。

 カインは二人のことをなるべく考えないようにして、ただ淡々と日々を過ごした。


 ところがある日、カインはビアトリス・ウォルトンについてとんでもない噂を耳にした。なんでも彼女は我が儘で身勝手な令嬢であり、優しく品行方正な王太子殿下はそんな彼女が婚約者であることを厭い、避けているというのである。

 己の記憶と違い過ぎて、まるでたちの悪い冗談のようだ。王都を離れた数年の間に、あの少女はそこまで変わってしまったのだろうか。


 しかし学院内でアーネストとすれ違った際、自分に向けられた昏い憎悪の眼差しに、カインは事の次第を理解した。おそらく変わったのは弟の方だ。ビアトリス・ウォルトンはそのとばっちりを喰っているに過ぎない。


 何とかしてやりたいと思ったが、アーネストの変容に自分が絡んでいるのなら、下手な介入はかえって事態を悪化させかねない。とはいえこのまま放置して良いものか。むろん今は少しこじれているだけで、また自然に元の関係に戻る可能性もあるが、しかし――


 カインは裏庭のあずまやのところで、ふと足を止めた。

 自主休講のときいつも利用しているベンチに、ほっそりとした女生徒が腰かけている。


(あれは……)


 顔はこちらからよく見えないものの、月の光を集めたような淡い金髪は、彼にとっては見間違えようもないものだった。

 王宮庭園の森の中で、アーネストと笑い合っていた美しい少女。しかし今は打ちひしがれて、萎れた花のように項垂れていた。


「……ビアトリス・ウォルトン公爵令嬢。君がさぼるとは意外だな」


 迷った末に口にした科白は、愛想の欠片もないものだった。

 女生徒はびくりと肩を震わせ、慌ててこちらを振り向いた。

 そして長らく焦がれた菫色の瞳が、初めてカインの――かつてクリフォードだった青年の姿を映した。

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