第5話 上杉鷹山公

       七家(しちけ)騒動(そうどう)


    一

 その日は、雲ひとつない青空であり、うららかな春の一日だった。

 空のブルーにはトンビが高く飛んでいて、とても平和な気分になるような感じだった。陽の光がきらきらと森や河辺に差し込んで、それは輝くような幻想の中にあった。

 福田町のはずれから、山上通町の南端に通ずる、松川の大橋と、大手町の道路が修繕されていた。上杉治憲は四月二十二日に江戸を立って、二十九日には米沢城に着いた。

 それまでのおり、大倹約令執行中だったので、治憲を初め家臣はとくに質素な服を着ていた。が、須田満主だけは絹の豪華な羽織りを着て、悠然と馬に乗っていた。

 松川の大橋に着くと、ドロだらけで橋の修理をしていた家臣のものたちは、

「御屋形様、橋の修理をしておりました」と言った。

 それをきくと治憲は馬から降りて、

「ごくろうであった」と礼をした。馬をひきつつ橋を歩きだした。

「御屋形さま! 馬に乗ってお渡り下さい!」

「いや」治憲はにやりと微笑むと

「この橋は皆の汗や涙がしみこんでいる。それを、馬などに乗って渡るわけにはいかぬ」と言った。

 その温かい言葉に家臣たちの者たちは感銘を受け、涙ぐむものたちまで現れた。

 しかし、須田満主だけは違った。須田は

「ふん。馬を降りて橋など歩けるか! わしは降りんぞ」と呟き、悪態をついた。そのまま馬に乗ったまま、橋を傲慢に渡った。 それは当然ながら反発をまねくことになるのだが、須田はそんなことは気にもとめなかった。……とにかく大倹約令など、自分の家格に合わぬ…須田満主はそう思った。


   二

 夜。須田の屋敷の一角で、密談が交わされた。

 それはのちに〝七家騒動〟と呼ばれることになるクーデターの計画だった。

「もう我慢がならぬ!」

 須田が吐き捨てるように言った。続けて

「あの若造に芝居がかった言葉をかけられて涙ぐむ家臣まででる始末。まったく我慢にも限度がある!」

「このままでは、謙信公以来続いた米沢藩の格式が地におちる」続けて、千坂高敦が苦虫を噛むようにいった。

「……とにかく、なんとかあの若造を追い払わなくては…」

「その通り! ……でないと我々は終りだ」

 芋川が言った。首謀者は藁科(わらしな)立沢(りゅうたく)である。

 それに対して色部が「…いや…そのお……しかし…」と煮え切らない態度をとったので、千坂が「色部、とにかく……計画を練ろうではないか」と悪魔の笑みを浮かべた。

 とにかく、あの養子藩主を追い払う計画をたてよう。…あの若造にいつまでも冷や飯を食らわせられるのは御免だ!

 こうして〝七家〟はクーデターをおこすことになる。


    三

 のちに〝七家騒動〟と呼ばれることになるクーデターは、安永二年(一七七三年)六月二十七日未明に勃発した。治憲は側近の竹俣当綱一派の登城を禁じ、奉行職・千坂(ちさか)高敦(たかあつ)、色部(いろべ)照(てる)長(なが)、江戸御家老・須田(すだ)満(みつ)主(ぬし)・侍頭長尾景(ながおかげ)明(あき)、芋川(いもかわ)延茂(のぶしげ)、清野、平林ら…総勢七大臣が登城した。

 朝も早く、まだ辺りも薄暗い時であったが、それにも関わらず〝七家〟は正装して、藩主の上杉治憲に会い、七人署名の五十カ条にも渡る署名書を手渡した。

「……朝早くきて…何をするかと思えば……これは何だ?」

 治憲は座敷の上座に座り、ひとりで〝七家〟に取り囲まれながら尋ねた。

「『建言書』にございます」

「それはわかっておる。これをどうせよと?」

「その『建言書』には、御屋形さまが藩主になれてからの失政の数々と、それに対しての私どもの意見が書いております。是非、お読み頂きたい」

 須田満主が威圧的に言った。

「そうか……では読んでおこう」

「いや! 今、この場でお読み下され!」千坂高敦が我鳴った。

「今? ……しかし、読むには時間がかかるぞ」

「けっこう! 我らは何刻でも待ちもうす」

「……そうか」

 治憲は『建言書』を読み始めた。

 これには竹俣当綱を中心とした新政を否定したもので、竹俣や莅戸らの人格攻撃や悪口が書かれてあった。また、治憲の恩師・細井平州先生に対しては、油断ならぬものといい、彼を米沢に招くことを危険とし、治憲の謙虚な態度を小事と冷嘲し、改革は間違いで、子々孫々にまで災いを招くものだとし、我々は家臣として黙視することができず、改革をすぐやめなければ大変なことになる……と結んであった。

 竹俣やらを辞めさせ、改革をやめなければ、治憲公には日向高鍋におかえり頂く……と書いてあった。

「なるほど」治憲はぶ厚い『建言書』を読みおえた。で、

「お前たちの考えはわかった。これは重大なことであるから慎重に考え、大殿様(重定公)にも相談することにする」 と言った。

 すると千坂高敦が「責任者は御屋形さまですから何も大殿さに御相談になる必要はないでしょう。ご即断願います」とつめよった。

「しかし、このようなことは大事なことなので、私の独断では決められぬ。お前たちの意見は意見として…」

「これは私どもの意見ではなく、家臣全員の意見であります!」

「家臣…全員の…? 全員がこの書に同意したと申すのか…?」

「さよう!」須田満主が冷淡に答えた。

「では…これにかかれているように竹俣や莅戸をやめさせたり細井先生を排斥したりしなければどうなるというのだ?」

「それは当然……家臣とは違う意見なのですからそのような藩主は用なし! すぐに荷物をまとめて、日向高鍋にお帰り願います」

「……私に出ていけと申すのか」

「御屋形さまは日向高鍋の小藩の生まれにて、上杉十五万石の家格をご存じないのでしょう。……とにかく愚かな改革をやめて元の正常な藩の運営にあたるか……それとも愚かな改革とやらを続けるか……ご決断頂きたい!」

〝七家〟は迫った。

 四つ時(午前十時)になっても退かず、治憲は座を立とうとすると、

「逃がしませんぞ!」と、芋川延茂が治憲の袴の裾をぎゅっと握ってはなそうとしない。 この時、襖の陰できいていた側近の佐藤文四郎秀(ひで)周(ちか)ががらりと襖をあけて中に入り、

「無礼ですぞ、芋川殿!」と芋川の手を力まかせに打って、はなさせた。

「何をする若造!」

「……さ、御屋形さま、こちらへ!」

 佐藤文四郎はそういって案内すると、治憲はすぐに二の丸にある重定公の御殿にいって事の次第を話した。重定公(先代米沢藩藩主)は激怒して、

「逆臣どもめ、殿が若いと思って馬鹿にするか、私もすぐにいく、あなたもすぐに戻れ」 と言った。治憲が元に戻ると、須田らは益々いきりたち、

「只今すぐに決断を! そうでなければ江戸にいって幕府に訴えまするぞ!」と怒鳴った。

 そういっているところに重定公がやってきて、

「殿が若いと思って馬鹿にするか、退け」と怒鳴った。千坂高敦は平伏したが、須田満主ひとりが何か言おうとした。が、重定が大声で、「退け!」叱ると、ようやくすごすごと退出した。

「大殿さまにこのようなご心労をかけた失態…なんともお詫びのしようもありません」

 治憲は畳みに手をつき、重定に頭をさげて詫びた。

「詫びるのは私です。……あなたがここまで苦労なされているとは……知らなかったのです。……あれが家臣かと思うと、なんとも情なくなります。……殿」

「はい」

「米沢藩のことはすべてあなたにまかせてある。私に気兼ねなどなく、あなたの好きなように政をなさって下さい」

「……そのようにさせて頂いています」

「いや」重定は続けた。

「……私が申しておるのは政もそうだが、あの重役たちの処断もです。気のすむようになさってください」


   四

 二日後未明、藩士総登城を命ずる太鼓がなった。

 米沢城の広間には家臣一同が集まった。須田、芋川ら七人は病気を理由に欠席、竹俣、莅戸らの姿もなかった。当事者がいたのでは藩士たちも正直な意見がいえない、と、治憲が登城を禁じたのだ。

 治憲が一同の前で語り始める。

「一昨日、須田、芋川らから、私あてに『建言書』が出された。重役たちはこう言った。ふたつある。ひとつはここに書かれていることはお前たち全員の意見だということだ。ふたつめは、もし従わなければ幕府に直接訴えて、私を藩主の座から追う…と。

 では、その『建言書』を読むからきくように」

 ……米沢藩主となってから六年。志た藩政改革にひとつの答えがだされようとしていた。

例え、重役たちの言い分が不当なものであっても、その陰に多くの支持者がいるのであれば、改革は諦めざるを得ない。

 大広間の反応は、治憲に敗北を感じさせた。

「……以上である。……重役たちは書かれてある内容はすべてお前たちも同意している。と言った。それは事実か? 私は知りたい。

 もし、事実なら、私は米沢を去る。日向高鍋に帰る。……どうなのか?」

 広間はしばしの間、重苦しい沈黙に包まれた。誰も何もいわなかった。

 誰も意見をいわなかった。何の声もきこえなかった。治憲は辛抱強く待った。

 しばらくして、水沢がたちあがり何か言おうとした。が、治憲は駄目だ、という感じで首を軽くふった。…「水沢らが私を支持しているのは皆が知っている。水沢で駄目だ」

 と心の中でそう思った。

 しかし、いくら待っても、誰も何もいわなかった。

 治憲は「……私の負けだ」と心の中で思わずにはいられなかった。

 治憲は敗北感を感じた。……もう、これで終りか?

 そんな中、先代藩主重定が口をはさんだ。

「もし……私への気兼ねからいうことを言えぬなら……私のいうことは気にするな。言いたいことを申せ! …ご当主は問うておられる! 重役たちの『建言書』にお前たちも同意したのか? と」

 誰も何もいわなかった。何の声もきこえなかった。治憲は辛抱強く待った。

 しばらくすると、ひとりの家臣がオドオドと立ち上がり、言った。

「中村八右衛門にございます。……私は…今まで……お城の仕事にいくのが、嫌で、嫌で、たまりませんでした。何のために働いているか、目標がなかったためです。…でも、今は仕事が楽しくて、楽しくて仕方ありません。それは…御屋形さまが目標をかかげてくださったからです」

 それからまたひとり…。「私も同じ気持ちです。改革は間違っておりません!」

「その通り!」その家臣の言葉に、どっと一同が笑った。

「とにかく、ご改革を続けて下さい!」

「どうか改革を!」

 いっせいに蜂の巣をつついたように、改革支持、が打ち出された。次から次に…。

 治憲はそれに満足し、きらきらと輝くように笑った。

「ありがとうみんな……明日、もう一度広間にて会議を開く。そこで反対のものは申すように」

と言った。

 しかし、翌日も藩士たちの支持は変わらなかった。

 〝七家〟の処分が決まった。

 千坂高敦、色部照長

  隠居閉門、領地召し上げ

 須田満主、芋川延茂

  切腹

 長尾景明、清野祐秀、平林正在

  隠居閉門、領地三百石召し上げ。騒動の首謀者・藁科立沢も打ち首になった。

 …こうしてのちに〝七家騒動〟と呼ばれることになるクーデターは、終わった。


     五

鷹山公は占いや祈祷などや〝厄年〟を一笑に付したほどの「迷信嫌い」であった。

「竹俣美作、まかり出ましてございます」

平伏する当綱に治憲は機嫌のいい笑顔を見せた。

「あと暫(しばら)くで今年も終わりじゃ」

「御意。明くれば安永四年の春でございます」

「余は二十五歳になるぞ」

「祝着至極に御座いまする」

「二十五歳は厄年じゃそうだな。年寄りどもが祈祷だの何だの申しておる。だが、馬鹿馬鹿しい」

「されど厄年は古来よりのしきたりでございますれば…」

「よいか、古来とは古い時代にはなかったことじゃぞ。祈祷師や寺の坊主や占い師が銭を儲けようと考えただけじゃ。すべては迷信じゃ。男は十五、二十五、四十二、六十二歳、女は十三、十九、三十三歳を厄年としているが、根拠は何じゃ?」

「確かに根拠が御座いませぬな」

「銭金の為に儲けたいと考える祈祷師や占い師など信じないことが肝要じゃ。領民にもちゃんと教育せよ」

「ははっ」

当綱は平伏した。若殿は現実主義者なのじゃなあ、感心したという。


いくら「藩の財政は厳しいから、皆も倹約に努めよ」と繰り返し命じても、実態を隠していたのでは、領民にとっては他人事に過ぎない。そこで安永四年に米沢藩の財政状態などの数字を鷹山公は全て情報公開(〝極秘文章〟開示・ディスクロージャー)した。

東北諸藩の宿命が――「飢饉」との戦い、である。

喉元過ぎてもなお、その〝危機〟を忘れないことだ。

「上から与える恵みには限度があるものでございます。一里には足りても十里には足りませぬ。十里までは及ぼしても五十里には及びませぬ。施設はすべてのものに平等に恵みを行き渡らせるようにしなければなりませぬ。それにはどうすればいいか。孔子は『論語』の中で『恵みて費やさず』といっておられます(『堯曰・ぎょうえつ』)」

(『細井平洲と上杉鷹山』鈴村進著より)


「九郎兵衛(莅戸善政・太華)は近ごろどうしておる?」

莅戸善政の息子・政以がくると、治憲はさっそく聞いた。いわゆる太華のことを。

「米僃(びつ)を莅戸(のぞき)て見れバ米ハなし あすから何を九郎兵衛(喰ろうべい)哉」と言っています。冗談とも本当のことでもあった。

治憲は大声で笑った。*

(『漆の実のみのる国(下巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版より)







         祖に祈る鷹山


    一

〝七家騒動〟で藁科立沢や須田らが処分されたあと、治憲はむしょうに神に祈りたくなった。神仏に祈るのだが、藩祖・上杉謙信公にも祈りたくなってもいた。

 ……いたしかたないこととはいえ、多くの血が流れた。

 治憲でなくとも、祈りたい気分になるだろう。時代が戦国ならまだしも、戦乱もない平和な時代である。いたしかたないこととはいえ、多くの血が流れたことはのちの上杉鷹山(鷹山という名は信仰する出羽三山の山・白鷹山からとられたという)にとって心痛めることであったらしい。

 その日の夜、治憲は身を清めてから本丸御殿の外に出ると、本丸の敷地内に建つお堂へと向かった。つき添うのは側近の佐藤文四郎ただひとりである。六月末の夜気は、ここちよいものであった。

 佐藤文四郎がさしだす燈火で足元をたしかめながら暗い木立をぬけながら、お堂にむかった。堂に着くと、治憲は上にあがった。

 お堂は、藩祖・上杉謙信公の遺骸を納める霊柩が安置されていた。

 香をたき、

 ……南無、藩祖不識院殿……。

 ……天よ、まだわれわれを苦しめまするか。

 ……不識院公(謙信公)、まだ改革は成就しません! われらにお力添えを!

と、狐燈に顔を照らされながら治憲は祈った。わが不徳を許し、なにとぞ君臣の融和をもたらし給え。

 とにかく、治憲は祈った。

 融和がかなわぬときは、きたるべきわが裁断に力を与え給え。藩祖・上杉謙信公よ、われに力を与え給え。かならず改革をします。怠ることがあればたちまち神罰を受けてもかまいません。米沢を生き返えさせるため力を…。

  翌日、治憲は大殿重定と相談して、重定の御近習頭下篠親明を借り受け、七重臣の屋敷に派遣した。様子を探るためである。

 その夜のうちに、須田伊豆満主の嫡子図書、次男、三男の押し込み処分、芋川延親の父正令、平林正在の父正村にたいする囲入りの処分が執行される一方、中条至資、島津知忠、竹俣寿秀に侍頭就任の下命があった。

 それぞれ、長尾景明、清野祐秀、芋川延親に代わる人事である。

竹俣当綱の三男・勝一(仮名・嫡男だったという説もある)が病死した。悲しみに暮れる当綱を追い詰めるように実父や義母が「流行り病」で病没する。

 数々の不幸が重なり、当綱は、酒におぼれ、賄賂を貰うようになっていく。当綱の年の離れた若い美貌の妹・文乃(ふみの・架空の人物)は、御屋形さまであり、米沢藩主でもある上杉治憲にことの次第を伝えた。

 だが、治憲は「竹俣当綱にかぎってそのようなことはありえない」と相手にしなかった。

 文乃は「兄は「これも必要悪」であると」と食い下がる。

「当綱がそちにそう申したのか?」

「いいえ」

「そらみろ」

「しかし」文乃は涙をはらはら流しながら

「このままでは兄は地獄に落ちてしまいまする。御屋形さま、どうか兄上を御救いください」

 治憲は沈黙したままであった。

「なるほど、お主の言い分も一理あるから深く検討させてくれまいか?」

「はい! ありがたき幸せにございます!」

 文乃は流れる涙を指で拭って平伏した。可愛い女性である。

 鷹山公はこの文乃に懸想(恋愛)したのだろうか? 

この物語展開も大河ドラマ化ではあってもよい。

 

    二

 明和七年(一七七○年)六月、四代藩主綱憲の子、式部(しきぶ)勝(かつ)延(のぶ)の娘お久野(くの)を側室とする。翌年お豊(とよ)と改名する。

 十歳年上の美貌の女性である。治憲は何故正室ではないか、幸姫への思い、改革への志等を夫婦で話したのだろうか。

 何にせよ、ふたりの間には安永五年(一七七六年)治憲二十六歳お豊三十六歳のときに長男・直丸(のちの顕(あき)孝(たか))が生まれている。(注・上杉鷹山公の実子・顕孝は寛政六年(一七九四年)鷹山公四十四歳のときに十九歳で病死している。当然夫婦は号泣して領民も「鷹山公が憐れである」と涙したという)

 ここで鷹山公の名言を紹介したい。

「為せば成る、なさねばならぬ何事も、ならぬはひとのなさぬなりけり」は名言中の名言で、他には「力不足だからこれはできないと思ってはいけない。真心がその不足を補ってくれる」

「やってみて、言ってきかせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず」

「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」。案外赤裸々な人間鷹山公の名言ですよね。

 米沢城の大手前には、上級家臣の屋敷がぎっしりと建っていた。その中で、城の前面を横切る主水町通りの東側に建つ竹俣当綱の屋敷はとりわけ広く、贅沢なつくりであった。この屋敷からでも、竹俣当綱の〝暴走〟ぶりがうかがえるというものだ。


   三

 屋敷の奥で、当綱はたずねてきた莅戸善政と密談していた。

 もっとも、たずねてきたというのは正確ではない。当綱から、夜、使いをだして召喚した次第であった。莅戸は治憲に従い帰国したばかりであった。

 当綱は、

「どうだ!」

 と、自分の作成した草案書をよませた。莅戸は走り書きを読み、

「……漆百万本計画でござるか?」と問うた。

「さよう。領地にそれぞれ百万本漆を植えさせ、実を買い取るのだ。漆にかかる税も廃止し、百姓に植えさせる。漆により、塗料……なにより漆蝋燭をつくり増益をはかるのだ」 竹俣当綱はにやりと笑った。

(これはしてやったり!というところだろうか。)

 竹俣当綱は視野が広く、それでいて機密さもそなえた政治家であった。そのうえ他の藩にはない企画立案の才にも恵まれていた。

「これだけの漆の苗をそろえるのに銭がかかりますね」

「なあ~に。商人から借りるわい」

「いくらほど見積もりを?」

「一万一千両」

「な?」

 莅戸はびっくりした。しかし、竹俣当綱は笑って

「漆計画でそれだけ儲かる。漆蝋で藩ももちなおすであろう」といった。

 治憲もその計画を承認した。

 最初、その計画はうまくいきかけた。米沢の蝋燭は売れたが、漆蝋より品質のよいハゼ蝋が開発されると市場を独占、米沢の蝋燭は〝悪蝋〟とも呼ばれて市場から駆逐されていく。…米沢の領民たちは〝使い物〟にならない漆木に見切りをつけていった。

 こうして、漆百万本計画は、頓挫したので、ある。


餐霞館を中条至質がたずねてきた。鷹山公は中条の才能を見抜いた。

この男の態度は生意気で我が強いが、それは若さからである。改革案は正しい。

無礼だが、若い才能に頼ってみるか。鷹山公は若い才能を重要視した。

と、ともに老獪な政治家の能力も重要視した。

事業も改革も、たったひとりの才能や思想や能力では限界がある。

すべては個人ではなく、集団で、能力を一致させ集団力で攻めるのが上策である。

「中条、そちにまかせる。仲間と共に改革に加われ!」

「ははっ!」

(参考文献『漆の実のみのる国(下巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版より)



     竹俣失脚と公の隠居



    一

 藩論もひとつにまとまり、藩の仕事も活発になった。

 ……漆、鯉、米織…。上杉治憲は、精力的にヒット商品の開発に挑んだ。

 まず、漆からの蝋燭。これは初めのうちはヒットし、売り上げ六千七〇〇両を記録した。しかし、すぐに高品質のハゼ蝋燭がでてきて、漆蝋燭は売れなくなった。

 その他に目をつけたのが、松、しぼち、綿、杉、竹、ひのき、あいこ、桐、紅花、藍、青苧、鯉、梅、麦、鶏、酒、米、茶、川魚、ぜんまい、煙草、鰻、火打ち石、塩、大豆、あわ、醤油、小麦、硯、瀬戸もの、梨、柿、栗、蕪、家鴨、大根……などなどだった。

 その中で、一番のメガ・ヒットは『米織(米沢織物)』だった。


治憲は世子の傅役をつけたいと考えていた。

治憲にとって世子・治(はる)広(ひろ)やわが子顕(あき)孝(たか)(幼名・直丸)は「するどく切れ味がするどいカミソリのようだが、教育が、徳がまだ足りない。論語と算盤、現実主義、経世済民、儒教、君主論がまだまだ」とのことだった。

治広の教育は木村高広が務めたが、何でも治憲(鷹山公)を手本としたため、いずれ自害してしまう運命になった。

木村高広は若君のお相手に、わが子丈助を差し出していた。若君にまずいことがあると、それは丈助の不始末である、として叩き、容赦なく叱りつけた。その激しさは周りの者が目を背けるほどだった。その教育方法も自害への理由のひとつとなった。

治広の息子で、鷹山公にとっては孫にあたる、のちの斉定は、幼いころから聡明で、深夜に厠に起きて廊下を歩いているところで治憲に声を掛けられると、

「孔子さまは朝に道をきいたら夕べに死んでもよい、と言いますが死んではなりませぬ。人間は死んだらおわりでございまする」という。鷹山公は感心した。三歳で? と。

鷹山公は家庭運がない君主で、わが子の顕孝も夭折してしまうし(江戸で天然痘(疱瘡(ほうそう))に羅患して死んだのだ。

病死した顕孝の遺体を米沢城にいれるとき、悶着があった。

「病気がうつる可能性があるので裏門から」の家臣連中の声に

「この遺体のお方は若君なるぞ! 大手門を開けねば斬り捨てるぞ」

と従った江戸家老がいい、こうして正面門から遺体は米沢城にかえり、その後荼毘(だび)にふせられた)、正室の幸姫も三十歳で病死してしまう。

鷹山公や側室のお豊の方は、長生きはしたが、実際はどんな気分であったろう。平洲先生や藁科松柏など教えを問う師匠には恵まれた。三寸の舌ただれるほどに講話すること三十万人、平洲は教育と学識で、鷹山公は謙虚と実行力で、米沢を、世界を変えて見せた。まさに「哲学ある「倹約」と「改革」は、必ず成功する!」である。

鷹山公は米沢を救う為に、改革の為に生まれたような運命だったのだろう。


   二

「御免つかまつる」

 ある晩、佐藤文四郎が小野川の湯宿を訪ねてきた。それは、例の若女将・紀代のところだった。「は~い」さっそく若女将・紀代が出てきた。

「これは、これは、佐藤さま、御泊まりでございますか?」

「いや、頼まれていた『改革の火種』を持参した」

「まあ、火種を? ……わざわざおこしいただかなくても…こちらから取りにまいりましたのに」

「いや、一刻も早くと思うてな」佐藤文四郎はそういうとにこりと笑った。

「それは、それは、ありがとうござります。……私のような湯宿の女将にまで火種をわけて下さるなんて……御屋形さまは本当にお優しいお方」

 紀代はそういって笑顔をつくった。それは眩しいほどにきらきらとした笑顔だった。

「…そういえば」しばらくして、紀代は思い出したように言った。

「学校をお作りになられるとか…」

「うむ。御屋形さまが、改革の火を絶やしてはならないのと同じように、ひとも絶やしてはならぬと申されてな」

「……それはご立派なお考え」

「それで江戸より細井平州先生を呼ぶことになった」

「細井平州先生? ……あの有名な?」

「そう、細井平州先生は難しいことを誰にでもわかるように教えて下さるそうで…是非、新しい学校(興譲館)の先生にと…御屋形さまが。学校は侍の子だけでなく農民も老人も子供も、身分に関係なく学問を教えるところにしたいと御屋形さまがおっしゃられた」

「…まあ、それは立派なお考え」

「ただな」佐藤文四郎は困った顔をして、頭をかいた。

「…そのぉ、ただ、その学校をつくる資金が足りないのだ」

「……はあ」紀代はそういって笑顔をつくった。

「佐藤さま、少々お待ち下さいませ」と言って奥にいった。

 ふたたび戻ってきた紀代は、〝虎の子〟の二十両を文四郎に手渡した。

「是非、これを学校開校のために遣って下さい」

「…しかし、紀代殿」

 佐藤文四郎は困った顔をして、ふたたび頭をかいた。


   三

「……で? 金を受け取ったのか」

 夜、ある一室で佐藤文四郎が、竹俣当綱と莅戸善政に事後報告したら、莅戸善政が文四郎にそう尋ねた。

「はい。でも…何度も断ったんですよ! でも、どうしても受け取ってほしいと…。学校開校はわれわれ庶民のためになるのだから…と」

「そうか」

「でも……やっぱりこのお金は返してきます!」

「待て、文四郎」莅戸善政がとめた。

「……こうしてはどうだろう? この金は『借りる』ということにしては…?」

「おお、それはいいの」竹俣当綱がにこりとした。

「いえ! そういう訳にはいきません! 武士が庶民から金を借りるなど…武士の恥です。家格に反します! やはり金は返してきます!」

「文四郎」莅戸善政がそんな彼にいった。

「…お前まだ、御屋形さまの改革の意味がわかってないのではないか? 今度の改革では、ただの倹約とか売れる商品をつくるというだけではない。この改革は武士の心の改革でもあるのだぞ」

「心の改革?」

「そう、心の改革だ。武士の家格だの誇りだの身分の違いだのという〝しがらみ〟から抜け出すことが改革成功の鍵となるのだ。御屋形さまのいう改革とはそういう意味なのだ」

「そうそう」竹俣当綱がにこりとした。

「とにかくこの金はありがたく借りようではないか、のう文四郎」


  怒りに震える須田、芋川の息子たちは細井平州米沢着のおり、森に潜んで細井平洲や治憲を斬る気でいた。しかし、誰もひとを斬ったことがない。ビクビク震えた。しかし、そんなテロルも感付いた文四郎が抑えた。治憲はしょっぴかれた若者たちに、

「お前たちの父親には済まないことをした。お前たちの父の領地をお前たちに与えよう。だから、二度と無益な殺生を考えるではないぞ」と温かい言葉をかけた。

 若者たちは感涙した。



 明和八年(一七七一年)治憲(二十一才)は正月を江戸の桜田邸で迎えた。それから四か月後の四月二十一日に江戸を出発し、二十八日に米沢に着いた。細井平州先生も公のすぐあとに江戸を出発して、五月二日に米沢に着いた。

               

 上杉治憲は米沢関根の普門院にて、細井平洲先生を出迎えた。

 こうして細井平洲を迎えて、庶民から武士に至までが学問を習う『学校』が開校された。学校の名は、治憲によって『興(こう)譲館(じょうかん)』と名付けられた。

 平洲は興譲館の学則を記した。それは今でも山形県立米沢市興譲館高校に掲げられている。

 「学則」

先生施教  弟子是則  先生に教えを施し、弟子是に則う

温恭自虚  所受是極  温恭自ら虚しうし、受くる所是れ極む

見善従之  間義則服  善を見ては之に従い、義を聞いては則ち服す

志母虚邪  行必正直  志 虚邪母く、行ない必ず正直

遊居有常  必就有徳  遊居恒有り、必ず有徳に就く

顔色整斉  中心必式  顔色整斉、中心必ず式しむ

夙興夜寝  衣帯必飾  夙(つと)に興き夜に寝ね、衣帯必ず飾え

朝益暮習  小心翼々  朝益暮習、小心翼々

一此不解  是謂学則  此れを一にして解らざるる 是を学則と謂(い)う

(『細井平洲と上杉鷹山』鈴村進著・三笠書房より)

学校開校の資金は、紀代の援助が口火となって、あらゆる町民から資金があつまり、なんとか間にあった。そのことで、治憲は紀代に大変感謝した。彼は紀代に恋心を抱き、頬を赤くした。治憲は体を火照らせながらいった。

「ありがとう。かたじけない紀代殿。紀代殿のおかげで学問所を開校できた」治憲は頭をさげた。紀代恐縮して「いいえ。私めも御屋形様のご改革に協力したかっただけです」といって微笑んだ。


   四

 上杉治憲は安永四年五月六日の早朝、少数の共の者を連れて城を出発し、下長井にむかった。前日にふった雨のせいでぬかるみ、霧もでていて、また薄暗かった。

 馬上の治憲を中心にした一行が、城下北端の北町番所を通り抜け、米沢街道を北にすすんで中田村にさしかかったところで、空は紫になりきらきらと朝日が差し込め、しんとした明るさとなった。夜明けの光だ。

 そののち霧も晴れ、晴天となった。

 点在する村々がみえ、いままで黙っていた治憲は、

「…あれをみよ!」

 といった。

「もう草を刈っている」

 お供の者も田をみた。たしかに、百姓が草を刈っている。草刈りは男ひとりではなかった。家族総出である。家臣は、「牛馬にやる朝草を刈っているところでござりましょう」といって微笑んだ。

「そうか」治憲も微笑んだ。

(豊作であってほしい。なんの苦労もなければいいが……)

 一行は窪田村を通り過ぎ、その日の最初の目的地である糠野目についた。旅は、領地の巡覧であり、いまでいうならマーケティング・リサーチ(市場調査)でもあった。

(私は百姓仕事や民の暮らしを知らぬ。だから、漆百万本計画も頓挫したのだ)

 治憲はすべてのひとから学ぼうとした。

(まず、民の声をきかねばならない)

(まず、こちらから動かなければ民は動いてはくれぬ)

 治憲は期待を胸に、さらに馬をすすめた。                       

  治憲は『興譲館』という学問所とともに武芸の稽古所も開校した。

 徹底した情報公開をした。まず、藩財政を家臣だけでなく領民すべてに知らせた。

奮起を促した。

 この治憲の情報公開に対して平洲は、「さすがは御屋形様」と褒めた。

 ……藩は領民のためにあるのであって、侍のためにあるのでも君主のためにあるのでもない。すべては年貢を納める領民のためにある。

 治憲は思う。

 家臣に改革の是非をきかれるたびに「為せば成る。なさねば成らぬなにごとも、ならぬはひとのなさぬなりけり……である」

という。

平洲は学館を「興譲館」と名付けた。彼はこれに関する自分の意見をまとめた『建学大意』という文章を綱忠に渡した。その中で彼はこう書いている。

「館を興譲と名付けしこと、美徳を修し、悪徳を徐せんがためなり」

「興譲」は譲を興すと読む。ではただ単にひとさまに譲るだけの謙遜ということか?それは違う。人間は非常に不完全なるものであるという真実を十分わきまえ、天に対して素直に、「わたしは未熟者です。教えてください」とへるくだること。これが「興譲」である。

それだけではない。「譲」には邪気を祓い不正を責めるという意味がある。旧字の「譲」の旁(つくり)になっている「襄」は衣服の襟元に呪檮(じゅとう)の祭器を詰めて邪霊を除く祈りの形だそうだ(白川静著『字統』平凡社)。*

(『細井平洲と上杉鷹山』鈴村進著・三笠書房より)

  

  五

それから六年、藩政を揺るがす事件が勃発する。…竹俣当綱・失脚、である。

 竹俣は自らを恐れて、以前から何度も「隠居したい、退身したい」と申し出ていたが、治憲が、改革の途中でやめられては困る、とそれを許さなかった。そうしているうちに、 竹俣当綱が恐れていたようになっていった。

 治憲は領民の間で「悪い代官」との言葉が広がっていることに不安になっていた。 治憲は文四郎に、

「悪い代官とは竹俣のことか?」と問うた。

 しかし、文四郎は答えず、動揺した。

「…竹俣さまは、改革にはきれいごとだけではなく…汚れ役も必要だと…」

「わたしの改革に汚れ役などいらない」

「はっ。しかし、我々がとめても竹俣さまの行いはなおりません」         

「きつく咎めなかったのか?」

「咎めました。何度も…。しかし……なおりません」

「なぜ? なぜ竹俣ほどの男が」

 治憲は不安になり、暗い顔をした。

〝絶対的権力は絶対的に腐敗する〟……とよくいわれる。その通りに、竹俣当綱はおちていった。色酒に染まり、連日連夜ドンチャン騒ぎに明け暮れるようになった。若い女を抱き、酒を大量に飲み、旨い料理をたらふく食べ、徒党を組み、賄賂をもらって派閥をつくり……まさに墜落、腐敗していった。

 莅戸らは治憲に報告したが、治憲は信じなかった。莅戸と木村は悩んだ。

竹俣当綱の実妹の文乃は覚悟の自決で、果てた。

 それでも兄の賄賂政治は改善されずに後述するような始末となり、結局、竹俣当綱は失脚するのである。

 竹俣当綱失脚で、黒井半四郎が濡れ衣をそそぐような形となり、台頭しだすのだ。


   六

 その夜は三月十二日で、翌十三日は謙信公の命日で、藩主を初め藩士一同の謹慎の日となっていた。そのため宿の主人から「帰られたほうが…」と勧められた。が、竹俣当綱は「うるさい!」と十三日になっても長夜の宴を続けた。夜が明けても屏風を立て巡らせて、この蝋燭の火が消えぬうちは十二日である、これを竹俣蝋燭というと、酒宴をつづけた。〝とりまき〟たちと大酒をくらって大笑いし、田舎芸者を抱いた。

 やがて、竹俣当綱は酒に酔って、眠りこんでしまった。

彼が眠りからさめたのは十三日の早朝だった。きらきらした陽射しが屏風のスキ間から差し込んで、座敷内をしんと白くしていた。当綱はひとり座敷に寝ていて、やがてハッと目を覚まし、愕然として飛び起き、屏風を外して障子をあけて朝日をみた。

…なんということだ!なぜ誰…も…起こしてはくれなかったのだ?!…動揺し、腰砕けになった。わしは…切腹に……に。切腹?

 それからは放心状態だった。

 わしは…切腹に………すべて……終わった……これで……救われる…おわった…。

 このことが治憲の耳に入り、家臣のものたちからも「許されざる大罪」と訴えられたので、治憲は涙を飲んで竹俣当綱を処分した。なお、当綱の嫡男・厚綱はその後、米沢藩の改革の為に活躍する。それは莅戸の息子も同じだった。鷹山公の適材適所採用である。

 長年の改革への功績により、竹俣は切腹をまぬがれたが、隠居を命じられ、領地のすべてを召しとられた。こうして、竹俣当綱は失脚した。

 竹俣当綱は失脚に準じて、竹俣一派の莅戸善政も隠居し、一線から身を引いた。

 木村高広は、重定公(先代藩主)の実子の教育係りをまかされたが、なにをおいても治憲をお手本としたために反発をかい、責任をもって、切腹した。




         人材育成と試練


   一

 竹俣当綱の失脚の数年前……

 治憲(鷹山)は農村によく馬でかけ、農民の心にとけこんだ。安永六年(一七七七年)秋の刈り入れのある日、治憲たちは農家の老婆とあった。

「…雨がふってきたらどうしよう。早くかたづけないと…」老婆は稲をひとりで刈ろうとしていた。治憲は馬上から「たいへんそうじゃのう。わしらも手伝おう」と声をかけた。

「どこのお侍さんか知りませんがめっそうもないことで…」

 鷹山は口元に笑みを浮かべ、馬から降りて、家臣たちに目をやって腕捲りをした。

「なぁに、人手があればすぐおわる! それ!」

 治憲(鷹山)はお供のものと一緒に稲刈りを手伝い、夕方前に無事に終わらせた。

「ありがとうござります。百姓の身分でお礼など差しあげられないのですが…」

「よい」治憲は笑った。「よかったらかりあげ餅でももってきてくれぬか? 城内の北門のところだ」

「はい」

 後日、老婆は餅三十三個を城に届けたところ、手伝ったのが殿様だと知って腰を抜かした。「申し訳ござりません! お殿様とはつゆ知らず……」平伏した。

「よい。ほうびを与えよう」治憲は微笑んだ。普通、藩主が農民と接触することなどないのだ。しかし、鷹山の愛、領民を思う心があらわれたエピソード(逸話)である。


    二

 財政再建にとり組む一方、治憲と竹俣当綱はすぐれた人づくりのために学問を奨励しようと努めた。

「米沢藩は今、病にたとえれば大病にかかっております」当綱はいった。

 治憲は頷き、「その通りだ。藩士や領民の教育をいますぐはじめなければならない」「いまこそ、細井平洲先生を米沢にお招きいたす時期かと思います」

「うむ」

 竹俣当綱の進言は受け入れられた。治憲自らが江戸にいき、細井平洲(四十四歳)に米沢にきてほしいと頼んだ。

「殿自ら頼まれれば、この平洲、否とはいえませぬ。喜んで米沢へまいります」

 細井平洲は当時、大名たちからの支官を断り続けていた。しかし、鷹山自らが江戸にきて説得したため、その熱意に感激し、ついに承諾した。

 明和八年(一七七一年)五月、細井平洲はじめて米沢の地をふんだ。

 米沢藩士たちは喜んだ。「先生、よろしくお願いいたします!」

 さっそく白子神社のとなりの松桜館で門人、諸生への講義が始まった。しかし、細井平洲を米沢に招くことには反対の声も多かった。

「江戸から儒学者をまねくことはわが藩に人材がいないことを示すようなものだ!」

「米沢藩の恥だ!」

「江戸から儒学者をまねくことは越後以来の上杉の伝統に反する」

 このような家老たちが興奮の中、ひとりの男が細井平洲を殺そうとした。松桜館に忍びこんだ。吉田一夢(六十八歳)一刀流の達人だった。しかし、一夢は平洲の気迫と熱心さをみて、寸前で思いとどまったのだった。

「わざわざ江戸から細井平洲などというあやしげな者を招くとは言語道断。これではまるで米沢には優れた学者がいないと言いふらしているかのようなものではないか。謙信公以来の出羽米沢藩の汚名! 斬り捨てて血祭りにあげてやる」

老いの一徹、思い込みは頑だった。

だが、細井平洲の講釈には舌をまいた。だが、暗殺しようと夜を待った。米沢には五(うこ)加(ぎ)の垣根がおおい。食用にもなるので鷹山公が奨励した為だ。五加の鋭い棘に手を傷つけられて顔をしかめた。吉田次左衛門(号が一夢)は平洲の宿舎に忍びこみ、縁に足をのせるとミシリと音が立った。

「しまった」彼はしばらく息を殺した。

「どちらさまですか?」

「吉田次左衛門、一夢と申す」

するりと言葉が出た。あわてて口を抑えたがもう間に合わない。

向うを向いたままで平洲は、

「もう遅う御座る。わたしなら逃げも隠れもせぬゆえ、斬るのも学ぶのも明日からにされよ」

棒立ちになった次左衛門は自ら覆面をむしり取った。これは降伏のしるしだ。

「御免」

 一夢はその場を去った。細井平洲の器が「天下の器」とわかったからだった。* 

(細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房より)


    三

この後、江戸の大火などがあり、平洲は予定を一年きりあげて江戸に戻っていった。

 安永五年(一七七六年)、財政が厳しい中で、神保蘭室(藁科松伯の弟子)を中心として、藩の学校・興譲館が開校した。治憲は蘭室に手紙を託し、その学校の教師に細井平洲を向かいれた。この年、十一月、平洲は興譲館で学問を教えた。滞在期間は六ケ月にも満たなかったが、聴講者は二〇七〇人にものぼり、興譲館の教育の指針や基礎を築いた。

「すぐれたひとかどうかはそのひとがどれだけ他人に影響を与えるかによる…」

 平洲は熱っぽく語った。

 かれのおかげで米沢藩ではすぐれた若い人物が出てきた。

 今成吉四郎(下級武士出身。温厚な人柄とある)、蓬田郁助(のちの農村奉行)、小川源左衛門、莅戸政以、片山一興、藁科立遠……など、興譲館の俊才たちは米沢藩中興の人材として育っていった。

 平洲の活動は興譲館での諸生や家臣への講義にとどまらず、領内の町人や農民への講和も行われた。その講和は中国の「孝教」などをわかりやすく説明したもので、農村が荒廃し、不安になっている農民たちに深い感動を与えた。農民たちは「ありがたい話じゃのう…」と涙した。一方、治憲も学問に力を入れ、学問優秀な者には褒美を与えた。また、領民に題を与え作詞を募集したりした。

 天明三年(一七八三年)、この年の五月から雨が降りつづき、冷害にみまわれた。米は育たず、大飢饉が藩をおおった。餓死者が大勢でた。鷹山は酒田や新潟から米を一万俵買入れ、農民に配った。しかし、それでも餓死者が出た。

 農民は落胆した。

「稲が枯れておる」

「実がいっとらん」

 鷹山は不安で、どうにかなりそうだった。

 そんな中、竹俣当綱が失脚し、失脚に準じて、竹俣一派の莅戸善政も隠居し、一線から身を引いた。小姓頭、莅戸善政(四十九歳)には竹俣のようなことはなかった。が、連帯責任といって、天明元年から三度目の辞職願いで、今度の決意はかたかった。

 天明四年(一七八四年)三月、天明の大飢饉で藩財政が大変ななか、治憲(鷹山)江戸参勤の時期がせまっていた。

「病気が重いということで、参勤できぬと江戸幕府に伝えよ」

「…殿……それは…」

「かまわぬ! 領内がこのような凶作なのを見捨てて、江戸にいけるか!」

 治憲はめずらしく声を荒げた。治憲は側室・お富の方(正室・幸姫は三十歳でなくなっている)とともに白子神社で三日断食し、天候がよくなるように祈った。

それから数年後、天明の大飢饉も何とか切り抜け、重定公(先代藩主)の健在なうちに、重定公の実子・治広公に家督を譲り、老公に喜んでもらおうと決心し、治憲は三十五才の若さで隠居した。そのおり、治憲は治広公に「心得三カ条」を伝授した。

一、国家は先祖より子孫へ伝えるものであって、けして私ごとしてはならない

一、人民は国家に属するものであって、けして私ごとしてはならない

一、君主は国家人民のためにあるもので、けして私のための国家人民としてはならない                         天明五年二月七日 上杉治憲

     

 世にいう『伝国の辞』である。

  この『伝国の辞』は代々、藩主たちに受け継がれた。しかし、後継者は育たず、米沢では年貢の重税や賄賂、悪行為が横行し、米沢藩は困窮した。領民たちはいう。

 ……こんな世になったのも、賢君・治憲公を隠居にしたからだ…。

 治憲は、この民の期待を知り、涙がでるほど嬉しかったに違いない。


   四

 前述したように一七八二年(天明二年)三月九日。正室幸姫が病の床に伏した。

 病状は最悪で、薬師も「残念ながら…」

 治憲は、見舞いに館に行こうとすると側室のお富の方が「わたしもご一緒に…」しかし、治憲は、「そちはここで祈っていてくれ…」と涙ながらにいった。

 姫は危篤状態になった。

 ちなみにお富の方は四代藩主綱憲の子、式部勝延の娘お久野で、側室となってお富の方と改名した。このお富との間にのちに嫡男・直丸(のちの顕考)が生まれているが、このひとは十九歳で没している。

 やがて幸姫は息を引き取った。享年三十歳であった。

「幸殿!」

 治憲は、姫の手を握り、泣いた。この汚れも知らないままに急逝した姫を、あわれに思った。もう少し、姫にも幸が…そう名前の通りに幸が……よきことがあればよかったが… 治憲は、そう思って目をつぶった。悲しい雨の日であった。


 こうして、隠居から六年、ふたたび治憲は米沢藩の改革に着手することになる。……

 こうして国民の期待に答え、四十一歳となった治憲は再び改革を断行する。寛政二年、(一七九〇)十一月二十二日、治憲は家臣の支持を受け、莅戸善政をふたたび登用して改革の着手。『上書箱』を設置して、武家から農民から幅広い「改革案」を募った。

 さまざまな案が投書される。

 その中にはかつての抵抗勢力からも(管見談)…。

『七家騒動』の首謀者だった藁科立沢の息子・立遠は「桑を育てて、養蚕を…」とアイデアを出す。治憲はその案を採用し、自分の金により桑を農民や武士たちに無料で配布していく。桑への税も免除し、治憲は自ら『養蚕手引書』というマニュアルまで作成する。

 治憲の妻・お豊の方も屋敷で桑を栽培したといわれる。

 しだいに養蚕事業は成功し、米沢織物は全国的に知られるようになる。そんな中、ヒット商品が生まれる。透綾(すきや)である。この夏も涼しい薄い生地の服は大ヒットとなり、開発した下級武士は三万両の備蓄を得、正月に神棚の前に千両箱をおいて柏手をうった。

          ふたたびの改革



    一

 後継者は育たず、米沢では年貢の重税や賄賂、悪行為が横行し、米沢藩は困窮した。領民たちはいう。

 ……こんな世になったのも、賢君・治憲公を隠居にしたからだ…。

 治憲は、領民の期待を知り、涙がでるほど嬉しかったに違いない。

 漆百万本計画も頓挫し、藩の財政改革は、一度目は大失敗した。しかし、ふたたび改革をしてほしいという領民の期待を知り、治憲は涙がでるほど嬉しかった。

 飢饉に始まった経済の危機に対する志賀八右衛門らの政策はいたずらに財政の緊縮を強めるだけで政治的にも危機におちいっていた。これに対して、改革の気運は高まり、黒井半四郎、丸山平六、神保蘭室などが改革の準備をはじめた。

 隠居から六年、ふたたび治憲は米沢藩の改革に着手することになる。……

 館に莅(のぞ)戸(き)太(たい)華(か)(善政の隠居後の号)を呼び寄せた。

 鷹山は真剣に、

「太華よ、もう一度その身をわしにあずけてくれぬか?」

 鷹山、四十一歳、莅戸太華、五十七歳……もしかするとこれが最期の仕事になるかも知れない。ふたりにはそんな考えが浮かんでいた。

 太華は躊躇しながらも、

「しかし……わたくしめは隠居の身……しかも中級家臣の身でありますし…」

「かまわぬ!」鷹山は強くいった。

「今度の最改革にはお前がどうしても必要なのだ!」

「しかし…」

「五百石つかわすゆえもう一度中老として改革を手助けしてはくれぬか?」鷹山は強くいった。「この丸山平六をはじめ改革の人材はそろえたつもりだ」

(丸山平六。藁科松伯の弟子にして、太華の補佐役として活躍することになる)

 丸山は静かな笑みを、太華になげかけた。

 ようやく太華は「…わかりました」と頭をさげた。

 こうして国民の期待に答え、四十一歳となった治憲は再び改革を断行する。寛政二年(一七九〇年)十一月二十二日、治憲は家臣の支持を受け、莅戸(隠居号・太華)善政をふたたび登用して改革の着手。『上書箱』を設置して、武家から農民から幅広い「改革案」を募った。

 さまざまな案が投書される。

 その中にはかつての抵抗勢力からも。

「七家騒動』の首謀者だった藁科立沢の息子・立遠は「桑を育てて、養蚕を…」(管見談)…とアイデアを出す。治憲はその案を採用し、自分の金により桑を農民や武士たちに無料で配布していく。桑への税も免除し、治憲は自ら『養蚕手引書』というマニュアル(手引書)まで作成する。

 治憲の妻・お豊の方も屋敷で桑を栽培したといわれる。

 しだいに養蚕事業は成功し、米沢織物は全国的に知られるようになる。そんな中、ヒット商品が生まれる。透綾である。この夏も涼しい薄い生地の服は大ヒットとなり、開発した下級武士は三万両の備蓄を得、正月に神棚の前に千両箱をおいて柏手をうった。

「太華よ、やくやってくれた! そちの並々ならぬ誠意のおかげじゃ!」              

 鷹山は莅戸(隠居号・太華)善政に屋敷内で頭を下げた。

「いいえ、めっそうもござりません」太華は平伏した。

「酒田の本間、江戸の三谷、越後の渡辺などみなが借金を承知してくれたとはな」

「米や青苧、蝋などの納める約束での前借りや、それらの専売権をあたえておりまして」「なるほど」

「私の苦労のかいがあってたいへん喜ばしく思います」太華は微笑んだ。

 治憲は笑って「これで十六ケ年の財政立て直し計画の見通しがつくであろう」

「さようでござります」

 十六ケ年の財政立て直し計画とは収入の半分で藩の運営を行い、残りの半分を借金返済にあてて、十六年間で借金をすべて返そうという遠大なものだった。この計画は寛政六年から実現したが、計画通りにはすすまなかった。

 一方、農村復興策としては、有利な条件をつけて、他領からの移住者を歓迎し、農民の増加による増産をはかったという。さらに貧乏な農民には農業資金を貸し、備籾蔵や報恩日備銭などの制度もはかった。(備籾蔵は、もとは凶作のために米を貯蔵し、貧乏な農民にわけあたえたもの。報恩日備銭とは農民全員でわらじ作りなどを行い、その金を貧乏な農民に与えた)

 また、米の生産を計るために、古くから水の便が悪く、かんばつに悩まされていた米沢北部から南陽にかけての村々に新たな水路をつくることになった。この計画を考えたのは黒井半四郎(くろいはんしろう)、であった。黒井は算術に明るかった。黒井は計画を念密に練り、調査し、工事期間は三年、水路の総延長は三十三里(四十四キロメートル)と弾き出した。

 寛政六年(一七九四年)この大事業がはじまった。工事は困難をきわめたが、農民たちの手助けもあり、翌年に水路が完成し、いきおいよく水が流れていった。

 皆は「万歳! 万歳!」と歓声をあげた。

「治広殿、農民たちも手放しの喜びようですぞ」治憲は十代藩主・上杉(うえすぎ)治(はる)広(ひろ)にいった。

「半四郎、みごとじゃ!」治広もにこりと微笑んだ。

「おそれいります」

 黒井は頭を下げた。

 鷹山はその現場を見て回り、農民や作業者たちに酒とスルメを与えて苦労を労った。黒井半四郎は休む間もなく、飯豊山に弟子たちとのぼった。当時の白川領域は毎年水不足になやまされていた。ここに豊富な玉川の水をトンネルで白川につなげるという計画が提出された。寛政十一年(一七九九年)七月のことであった。

「山に穴をあけて水路をつくるなど無理だ!」

 この大事業に、重臣たちから一斉に反対の声かあがった。

「いかに大事業とはいえ、十年の工事期間は長い!」

「いや、半四郎にまかせよ」鷹山はいった。

 工事は八月から始まった。半四郎は先頭にたって指揮したが苦労が重なって十一月七日に死亡した。しかし、かれの死後も工事は続けられ、十九年後の文政元年に完成した。 トンネルは東西から堀ってすすめられ、誤差はわずかに一メートルだった。

 この水路などによって米沢の米産業が栄え、米沢藩にとってプラスとなった。

 治憲は桑を無料で配り続けた。

 養蚕事業拡大のためである。

 莅戸太華の政策(樹畜建議)によって、さらに産業は活発になった。鯉、青苧、栗、桑、紅……さまざまな産業が栄えた。また、特殊なものとして、成島焼き、笹野彫、相良人形など後の米沢の名産品も生まれた。

 寛政四年(一九九二年)国産所を整備して、蚕桑役局をおいた。餐(さい)霞館(せいかん)(鷹山の館)のにも農民の女子を雇って蚕を飼い、お富の方をはじめる女中たちが絹を織った。

「精がでるのう」治憲は妻にいった。

 お富の方はにこりとして「織物は楽しうござります」と答えた。

「そちは手先が器用だからのう。色のとりあわせも素晴らしい」

「やっと藩内の子女にも教えられるようになりました」

 お富の方はいった。(お富(とよ)の方……上杉家四代藩主綱(つな)憲(のり)の六男勝(かつ)延(のぶ)の娘。鷹山より十歳年上の側室。正室(幸(よし)姫(ひめ))は心身ともに虚弱で、三十歳でなくなっている。お富の方は、教育が高く歌道をたしなみ、鷹山の信念を理解した賢婦人であり、鷹山の死ぬ前年、八十一歳でなくなっている)

 こうして、米沢藩の財政は立ち直っていった。

一度目の改革は失敗したが、二度目からは順風満帆とはいかないまでも家臣や領民の意見をよくきき、鷹山の改革はますますスピードをあげていった。



   二

「太華(たいか)も五十七歳か」

「もう年寄りで御座りまする」

「若き頃が懐かしいものじゃ。あのころは難儀じゃったが……懐かしい。」

「すべてのご経験は財産で御座りまする。失敗もご成功もすべては学問で御座る」

「孔子の朝に道をきけばゆうべに死するとも可也じゃな?」

「そうで御座りまするなあ。すべては米沢の民の為」

「そう米沢の為、上杉家の為、誰でも苦労したら努力したら報われるのが米沢で御座る」

「うむ。よくいった!それがわしの神髄じゃ」*

(参考文献『漆の実のみのる国(下巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版より)

「人材が豊富だったのう。竹俣、莅戸、蓬田、黒井、藁科………」

「そして鷹山公」莅戸太華は言った。

「うむ。まさに、為せば成る、為さねばならぬ何事も、ならぬはひとのなさぬなりけり、じゃな」鷹山公は恍惚の表情で、語った。まさに名言だった。*





         夢は現実へ


    一

 儒学を藩学として重視し、藩医として蘭学をすすめるなど、鷹山は積極的に学問をとりいれた。

「お殿さま、江戸の植物学に大いにすぐれた学者がおります」

「わが藩でも天明の大飢饉から藩医に命じていろいろ研究しておる」

「佐藤中稜(ちゅうりょう)(茂(しげ)裕(ひろ))は植物学、薬草学、江戸の本草学者の中でも三名家といわれているほどの優秀な人物ときいております」太華はいった。

 治憲は頷き「なるほど。薬草園もつくらねばならぬと思っていたところだし、新しい知識や技術も教えてもらう必要があるな。お願いしてみるか? 太華」

「さっそくきていただくようにお願いしてみましょう」

 寛政四年(一七九二年)八月、本草学者、佐藤中稜(茂裕)は米沢に招かれ、餐霞館の奥座敷に通された。そこには鷹山がいた。鷹山はかれから食用になる植物や薬になる植物のことについて講義をきいた。

「領内の植物、薬草の分布、栽培や製薬の方法なども広くお教えくだされ」

 鷹山はどこまでも謙虚だった。

「〝かてもの〟ですな?」

 佐藤は身がひきしまる思いだった。佐藤には有望な藩医が選ばれて門下についた。佐藤は二ケ月米沢にいた。藩医に限らず、町医師にも講習会を開き、薬草のとりかたや薬のつくり方を教えた。また農民たちに植物の栽培方法なども教えてまわった。ときには鷹山とともに山にのぼることもあった。

 佐藤がかえると、鷹山は医学館の新設にとりかかった。寛政五年(一七九三年)十一月、〝好生堂〟が誕生した。医学書を買い入れ、製薬法などの研究も高まり、医学熱はますます高まっていった。

 一方、この本草学の研究は以前からの〝かてもの〟の調査に大いに役にたった。

  寛政十年(一八〇〇年)太華は、藩医八尾板道雪、堀内忠意らに、これを手引書(マニュアル)としてまとめるよう指示した。

 享和二年(一八〇二年)ついに米沢藩出版の『かてもの』が完成。版木をおこし、千五百七十五部を印刷して、領内に配布したのだ。その内容は飢饉にそなえ、八十二種の草木、果実を選び、その食べ方が具体的に書いてあった。味噌のつくり方や凶作にそなえて植えておく物、保存しておくもの、さらに魚や肉の保存までくわしく書かれてあった。

この『かてもの』のおかげで、天保四年(一八一三年)の飢饉に大いに役だち米沢では餓死者をほとんど出さずにすんだのであった。

 文政三年(一八二〇年)二月二十日、鷹山の七十歳のお祝いと、お富の方の八十歳のお祝いが餐霞館で盛大に行われた。鷹山とお富の方は終始笑みをたやすことはなかった。

「やや子はもうすくであろう、斉定(文化九年(一八一二年)米沢藩十一代藩主となる)……待ちきれぬであろう」

「そういう大殿さまこそ心待ちにしておられるのでしょう。生まれたらいの一番にお目にかけます」

「わしももう七十……赤子の顔を見るのがなによりも楽しみじゃ」

 この日、領内の七十歳以上の高齢者に、鷹山は酒樽を送った。その数は四千五百六十人にものぼったという。

 宴会は一日中続き、和歌も献上された。このとき、お富の方は二つの和歌を鷹山に捧げた。

……〝いろかへぬ常盤の松もかぎりなし君もろともに幾世しげらん〟

……〝年ごとに栄ますらん国民も賑ふけふの君りめぐみに〟……

 その歌は夫鷹山の信念をよく理解し、五十年間つれそった最愛の妻としての心境がよみとれる。このお富の方も文政四年(一八二一年)十一月にこの世を去った。

先の細井平洲の死(享和元年)、莅戸太華の死(享和三年)以上に鷹山にとって大きな打撃だった。

文政五年(一八二二年)二月、とうとう鷹山も病の床にふした。

お富の方の死から四ケ月後のことであった。

 ……鷹山はいろいろと昔を思いだしていた。生まれ育った江戸藩邸、米沢への初入部、師であった藁科松伯、細井平洲、莅戸太華、四十年前の世を去った幸姫、斉定と連れ立って狩りをした秋の日、米沢の風景………

 鷹山はふところの藁科松伯からの形見のお守りをぎゅっと握りしめた。藁科、改革は成ったぞ。改革は成った!

 山々の間から、きらきらとした朝日が差し込んできて、薄暗かった辺りをしんと白く輝かせて始めた。とても柔らかな優しい風が吹いて、頬の横を通り抜けた。

 治憲の心に、藁科松伯の声がきこえた。…〝御屋形様は歴史に残る名君におなりになられるでしょう〟…藁科……改革は進んでおる。米沢は生き返るのだ!

「…大殿さま?」

「為せば成る。なさねば成らぬなにごとも、ならぬはひとのなさぬなりけり……である」

「ははっ」春風がおだやかに森や川の上を渡り、まばゆいばかりの陽射しがうすい雲の隙間から差し込んで、空が輝いてみえた。どこまでも続く青い空はほんとうに汚れもなく、どこまでも続くかのようだった。

 鷹山はにこりと微笑んだ。米沢藩の借金十一万両がすべて返却され、五千両の備蓄を得たのは、治憲から鷹山と名をかえた上杉鷹山が文政五年(一八二二)三月十一日(四月二日)、七十二才で世を去ってから、一年後のこと、であった。………

                        米沢燃ゆ 上杉鷹山公  おわり


    


米沢燃ゆ 上杉鷹山公       あとがき




  上杉鷹山公は今でも、米沢の英雄である。

 藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、どこか謙信公は〝雲の上のひと〟

…という感じがある。その点、鷹山公は地元密着型の政治家という感じだ。

 だが、そんな上杉鷹山も若き日、改革を一度失敗している。浅間山の噴火と飢饉などで、志なかばで隠居。三十五歳の若さであった。しかし、寛政三年(一七九一)一月、ふたたび改革に着手する。「上書箱」を設置し、武士たちだけでなく農民や商人からも改革案をつのった。……上杉藩の祖は、いわずと知れた上杉謙信。謙信は越後六十万石の大大名となった。しかし、彼の死後、甥の景勝の代となってから、秀吉の命により上杉は東北、会津百二十万石に。そのあと関ケ原で、米沢三十万石に。更に、藩主の死で米沢十五万石になった。 しかし、藩士はそのままであったため、収入三万両に対し、赤字は七万両…そのうち借金返済に四万両使わざるを得なかった。しかし、藩主・重定は能や女遊びにうつつをむかすのみ。そんな中、日向(宮崎県)高鍋からの養子となった治憲(鷹山)は氏神に誓う。

 ……年々、藩がおとろえ、危機に貧しています。改革に着手します。おこたるようなことがあらば、罰していただいてけっこうです。……

 こうして、治憲(鷹山)の改革はスタートする。武士にも田畑を耕かせる。当然、反発がおこる。抵抗勢力のリーダーは、藁科立沢という武士、千坂や芋川ら…。立沢は仕事が怠惰だ、と鷹山に職を追われていた。その恨み、つらみが、いわゆる『七家騒動』へとつながる。しかし、クーデターも失敗。立沢らは切腹、打ち首となるのだった。


 上杉鷹山は『養子』だから、ふたつのスタンスがあったはず。ひとつは、座を守るために妥協。もうひとつが、聖域なき改革を断行する…。彼は後者をとった。だが、上杉は名門だからメンツもあり、改革には反発もあった。

 竹俣の漆千本改革で、漆蝋燭財政再建案も挫折(漆蝋燭より品質のいいハゼ蝋がでたため市場から駆逐された)、その後、天明二年(一七二二)竹俣は失脚する。それにともない、莅戸も隠居。そんなおり天明三年(一七二三)八月、浅間山が噴火し大飢饉に。

 五月には重定の御殿が焼失。再建のために借金がかさむ。財政難と挫折感で、鷹山は三十五歳で隠居してしまう。

 なぜ、鷹山は一度目に失敗したか…?

 まず、マーケティグ不足。鷹山は理想を追っているため、「自分についてこないほうが悪い」という思い違いがあった。また、改革の主要メンバーは、米沢から追われて江戸に飛ばされたトラブル・メーカーだったこと。(米沢の本家からみれば、「あの藩主はトラブル・メーカーなどひきつれてなにやっているんだ!」と思われた)さらに、コアだけでなく理解層の不足。ヴィジョンを示さなかったこと。「将来こういう社会になり、幸せになるから痛みに耐えよう」といわなかった。

 それから、隠居したのは重定の実子が適齢期になったからといわれているが、それ以上に、改革の種は撒いたのだから、あとは熟成し、ほっといても改革は成就するという甘い考えがあったことだ。


 新しい藩主の就任式などで財政は逼迫する一方であったが、改革は進まない。また、新藩主は、家臣の給料をカット(米七十%から三十三%カットした)するのみ。そのため、悪質な搾取が横行し、重税に耐えかねた農民は米沢から逃げ出してしまう。人口十三万人から、九万人まで人口が減った。人々は「藩は国民の肉までとりあげる。こうなったのも名君(鷹山のこと)を隠居させたからだ…」

 こうして、国民の支持に答え、隠居から六年後、四十一歳となった鷹山は再び改革を断行する。寛政二年(一七九〇)十一月二十二日、鷹山は藩士たち全員に、藩の財政赤字を発表する。家臣たちの支持により、隠居中の莅戸善政が復活、財政再建案を構築する。『上書箱』が設置され、武士からも農民・商人からも、改革案などや意見を集めるようにした。さまざまな案が投書される。その中にはかつての抵抗勢力からも…(管見談)                    

 立沢の息子・立遠は「桑を育て、養蚕を…」とアイデアを出す。

 鷹山はそのアイデアを採用し、自分の金により桑を農民や武士たちに無料で配布していく。桑への税も免除し、鷹山は自ら『養蚕手引書』というマニュアルまで作成する。

 鷹山の妻・お富の方も屋敷で桑を栽培したといわれる。

 そんな中、ヒット商品がうまれる。……米沢織物…透綾(透けて夏にも涼しい羽織り)、である。こうして財政も改善し、黒字に好転…。文政五年(一八二二)三月十二日、鷹山は七十二歳で死去。米沢藩の膨大な借金がすべて返済されたのは、彼の死後、一年目のことであった。

  一回目の失敗は、観念的で性急すぎたこと、(鷹山)派閥・役所中心だったこと、リサーチ不足といえる。その反省から『上書箱』が生まれ、人材発掘・アイデア発掘ができたのだ。反体制力にも改革心が芽生えたのだ。

  改革は縮小だけでなく、ときには拡大や投資も必要……。鷹山はそれを勉強したにちがいない。上杉鷹山は常々、家臣にこう語ったという。


 ……為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬはひとの為さぬなりけり……。


 ……不況になるたびに、時代が混迷するたびに、上杉鷹山は注目を集める。

 それは、多分に、上杉鷹山が〝真実の改革〟をおこなったからに他ならない。

                      米沢燃ゆ 上杉鷹山公    おわり 


年譜

宝暦元年(1751年)、高鍋藩江戸藩邸にて、秋月種美と春姫(黒田長貞の娘)の次男として誕生。幼名は直松。

宝暦9年(1759年)、米沢藩主上杉重定との養子内約。

宝暦10年(1760年)、重定の世子となり、直丸に改名。8月、上杉家桜田藩邸へ移る。

明和元年(1764年)、細井平州が師となる。将軍徳川家治に上杉家世子として御目見。重定、幕府への領土返上を舅の尾張藩主徳川宗勝に相談し、強く諌められる。

明和2年(1765年)、竹俣当綱、奉行となる。

明和3年(1766年)、元服、勝興と名乗る。従四位下弾正大弼に叙任さる。将軍より偏諱を与えられ治憲と改名。

明和4年(1767年)、重定隠居。治憲が米沢藩主となる。

明和6年(1769年)、莅戸善政、米沢町奉行となり藩政にかかわる。幸姫と婚礼をあげる。10月、初めて米沢に入る。

明和7年(1770年)、上杉勝延の末娘お琴(お豊と改名)を側室とする。

安永元年(1772年)、藩財政改革で『会計一円帳』作成開始。米沢の遠山村にて籍田の礼を始める。

安永2年(1773年)、七家騒動。

安永5年(1776年)、学館を再興し、来訪した細井平州により「興譲館」と命名さる。

安永6年(1777年)、義倉を設立。

安永7年(1778年)、重定のために能役者金剛三郎を米沢に招く。以後、金剛流が米沢に広まる。

天明2年(1782年)、幸姫病没。義弟(重定実子)で世子の勝憲が元服、中務大輔に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治広と改名。治憲実子の直丸を治広世子とし、顕孝と改名。竹俣当綱失脚。天明の大飢饉( - 1786年)、それまでの改革が挫折する。

天明3年(1783年)、改革挫折で莅戸善政辞任、隠居。大凶作で11万石の被害。

天明4年(1784年)、長雨続く。治憲、謙信公御堂にこもり断食して祈願す。20年計画での籾5000俵、麦2500俵の備蓄計画開始。

天明5年(1785年)、治憲隠居。治広が家督を継ぎ、ここで「伝国の辞」を贈る。顕孝傅役に世子心得を与える(「なせばなる」)。

寛政3年(1791年)、莅戸善政、再勤を命じられ改革が再度始まる(寛三の改革)。

寛政6年(1794年)、実子の顕孝が疱瘡で病没。代わりに宮松(斉定)が治広の世子となる。治憲は宮松と共に寝起きして、自ら教育に当たる。

寛政7年(1795年)、北条郷新堰(黒井堰)完成。公娼廃止の法令を出す。

寛政8年(1796年)、細井平州、三度米沢に来訪。治憲は関根普門院に師を出迎える。

享和2年(1802年)、総髪となって鷹山と号す。『かてもの』刊行。

文化5年(1808年)、治広世子の定祥が元服、式部大輔に任官し、将軍徳川家斉より偏諱を与えられ斉定と改名。

文化9年(1812年)、治広が中風で隠居。斉定が家督を継ぎ、従四位下弾正大弼に叙任さる。

文政4年(1821年)、お豊の方死去。

文政5年(1822年)、逝去。

文政6年(1823年)、米沢藩の借財、完済さる。斉定、藩士一同とともに謙信公御堂にこれを報告。


米沢燃ゆ 上杉鷹山公(大河ドラマ)キャスト

                   原作・長尾 景虎 脚本・三谷幸喜か大石静他

                   音楽・大島ミチル

       

      上杉鷹山(治憲)…………    二宮和也(嵐)か、岡田准一(V6)

      幸姫 …………     新津ちせ

上杉直丸(少年期)………    柊木陽太・寺田心

      上杉重定    …………    高橋英樹

      竹俣当綱    …………    中村梅雀

      莅戸善政(太華)…………    風間杜夫

      木村高広    …………    京本政樹

      藁科松伯    …………    高嶋政伸

      お富の方    …………    浅野ゆう子

      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)

      旅館の女将   …………    鈴木砂羽

      水沢七兵衛   …………    佐藤B作

      須田満主    …………    平泉成

      黒井半四郎   …………    笹野高史

      細井平洲    …………    寺尾聰

      文四郎の恋人  …………    多部未華子

      色部照長    …………    橋爪功

      紀伊      …………    高島礼子

      七家      …………    前田吟・北村総一朗・柄本明

・三浦友和・ささきいさお 他

      etc …あき竹城・眞島秀和・佐藤唯・渡辺えり・橋本マナミ・天野ひろゆき

ウド鈴木・華村あすか・峯田和伸・hypergrooveメンバー    他 

<参考文献・一部>*上杉家御年譜、米沢温故会編*鷹山公世紀、池田成章編、池田成彬*鷹山公偉蹟録、甘糟継成著、上杉神社社務所*米沢市史、米沢市史編さん委員会編*興譲館世紀、松野良寅編著、山形県米沢興譲館高等学校*代表的日本人、内村鑑三著、岩波文庫*上杉鷹山公、今泉亨吉著、米沢信用金庫*上杉鷹山公小伝、今泉亨吉著、御堀端史蹟保存会*人物叢書・上杉鷹山、横山昭男著、吉川弘文館*上杉鷹山のすべて、横山昭男編、新人物往来社*上杉鷹山の人間と生涯、安彦孝次郎著、壮年社*上杉鷹山公と農政、斎藤圭助、有斐閣*東海市史、東海市史編さん委員会編*近世藩校の総合的研究、笹井助治著、吉川弘文館*名古屋文学史、川島丈内著、川瀬書房*口語訳・嚶鳴館遺草、皆川英哉、ケイアンドケイ*細井平洲・附中西淡淵、鬼頭有一著、明徳出版*細井平洲と教師像、遠藤秀夫著、共同出版*細井平洲先生とその師友点描、東海市立平洲記念館*現代に生きる細井平洲、東海市教育委員会編*細井平洲『小語』注釈、小野重伃著、東海市教育委員会*嚶鳴館遺稿注釈 初編・米沢編、小野重伃著、東海市教育委員会*名指導者・上杉鷹山公に学ぶ、鈴村進、三笠書房*細井平洲と上杉鷹山、鈴村進、三笠書房

なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、米沢市立図書館「上杉古文書」「上杉家書状」他、藤沢周平著作「漆の実のみのる国」童門冬二著作「小説 上杉鷹山」NHK映像資料「その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ドラマ 上杉鷹山 二百年前の行政改革」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「信長」「天と地と」「秀吉」「功名が辻」「おんな太閤記」「関ヶ原」「天地人」「軍師官兵衛」、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等です。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

米沢燃ゆ 上杉鷹山公 長尾景虎 @garyou999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ