《三話》通過儀礼①

 会話らしい会話をすることも無く、陰鬱な時間は過ぎていく。


 まだ日が高いうちだと言うのに、天幕の中は今もまるで通夜でもあるかのようにひっそりと静まり返っている。


 あまりにもあっさりとした……級友の死。

 思い起こすだけで、微かに震え始める手を亜樹は握り締める。

 もし無作為に選ばれたのだとしたら、今頃ここにいなかったのは自分かも知れないのだ。

 激しく心臓が脈打つが、この体のせいで汗すら出ない。


 ろくに意思疎通すらままならないこのメンバーで、今から何をやらされるのか……顔を上げた亜樹の視線の先には、折り悪く北上の顔が有った。

 途端に彼は鬱憤うっぷんを晴らす対象を見つけたとばかりにいきり立ち、亜樹の元へ向かって大股で歩いて来る。


「何見てんだこのトカゲ野郎。あぁ?」

「たまたま目が合っただけだよ……」


 しかし、ぐっと亜樹の胸倉をつかみ持ち上げようとした北上の細い腕は、亜樹の体重を吊り上げることも出来ず、すぐに震え始めた。

 背丈が大きく伸び、筋肉質の体付きに代わった亜樹の体重は今や大きく増加しているのだ……並の腕力では持ち上がるはずもない。


 思ったように動かない亜樹にしびれを切らし、彼は焦りながら悪態を吐く。


「め、珍しく口答えしやがって! テメエ……デカくなったからって調子に乗ってんじゃねー!」


 そして足の裏で腹の中心を蹴りつけた。

 衝撃は訪れたが、亜樹の体には大して痛みは無い。


(……僕の体は一体どうなってしまったんだ?)


 平然としているその姿を不気味に感じたのか、彼は続けざまに何度も顔や体を殴りつけてくるものの……軽い衝撃は全て硬くしなやかな皮膚が吸収してしまい、声すら漏らさなかった。

 傷みの無い暴力は、恐怖すら生まないのだ。


「オラァ! いつもみたいに這いつくばれよ! ゴミムシみてえに、潰れろッ……ハァ、クッソ」


 勝手に息を上げる北上がおかしくて、笑いすら浮かんできそうになる。

 このまま彼がへばるまで見物していても良かったが、なすがままサンドバックの様になっていた亜樹を見かねてか、空手部に在籍している少年――内海が北上の肩を引いて止めた。


「おい、その辺で止めとけよ。あいつらに何か言われたら困るだろ」

「ハァ、ハァ……あぁ? うるせえし……くそ、どけよ!」


 その手を振り払って乱暴に内海を押しのけた北上は、倒れるように白い布地の上に座り込んだ。

 殴られてもこたえていない亜樹に内海からの不思議そうな瞳が向く。


「……丈夫なもんだな」


 ぼそりと呟くと、彼はやがて興味を失くしたのか、また自分の世界へと入り込んでゆく。

 騒ぎに関わりたくない女子二人は我関せずの様子で、完全に外を向いて耳を押さえ丸まっている。


 確実に集団行動を強制される、班単位の分割。

 どういう基準で選んだのかは判らないが 統率者がおらず、完全にばらばらのこんな班で協力し合えるはずがない。


(港と同一の班でないだけまだましだ……けど、決して当たりでは無い)

 

 絶望を深くした亜樹の顔に陽が差す。

 外側から天幕が開けられたのだ。そこから顔を表した一人の男……フードの奥のその顔には見覚えがあった。


「出ろ。訓練の開始だ……速やかに従え。出なければどうなるか分かるな?」


 停滞していた時間がついに動き始める。

 息詰まる天幕の中から逃げ出すような思いで、第五班の面々は慌ただしく立ち上がった。




 見渡すばかりの草原地帯に吹き渡る、肌を撫でる風が少しだけささくれた気分を宥めてくれる。

 手招きに従い亜樹達が彼の前に一列に並ぶと、男はフードを取り去ってその顔を露わにした。


「第五班の監督官を仰せつかった、マルバ・ソーザ上導だ」


 先程銀髪に変わり途中で説明をしていた冷たい碧眼の男――ぼさぼさの波打つ黒髪と相まってどこか神秘的な印象のある目をした彼は、二本の剣を腰に差している。

 片方はオーソドックスな直刃の長剣、もう一方は木鞘の反りが入った物……一見して打ち刀というアンバランスさは少し目を引いた。


 その口から深みのある落ち着いた声音が続いていく。


「本日よりしばらくは、一定の日数ごとに拠点を変えつつ周辺に生息している魔物と戦い経験を積んでもらう。基本的に衣食住の心配は必要ないが、数日ごとに指定した段階に達することが出来ない場合、罰則を与えるので注意しろ。天幕のある区域の中心には衛生施設と監督官の居住スペースが設置してある。万が一重篤じゅうとくな怪我や体調不良が悪化した場合にはそちらで対応する。あの、灰色の建物がそれだ」


 男の視線の先には、金属製の巨大なコンテナの様な物が幾つか立ち並んでいる……無機質な機能優先の造りは、なんとなく仮設住居を思わせるものがあった。


「では、早速訓練に入るが……その前に一人ずつ、自身の名前と《ケスラ》の情報データに記載された格位クラスという項目を読み上げろ。そこの、お前からだ」


 マルバの指先を向けられた亜樹の頭に先程の榎木の死がよぎる。

 下手な行動を取れば、死をもって制裁を加えられる……この黒い腕輪を嵌めている限り、彼らの言うことに唯々諾々いいだくだくと従う他ない。

 

「須谷亜樹で――」

「ああ、お前達が以後自分を呼称するときは、情報データに記載されたように名乗れ。そうしないと語弊ごへいが生じる」


 簡潔に名前だけを告げる途中でマルバに遮られ、亜樹は言い直した。


「アキ・スガヤ。格位クラス……リザードマン、です」


 それを聞いて、まだ調子に乗ったままなのか北上は訳知り顔をしながら亜樹を罵倒し始める。


「ぶっ、何だよそりゃ。格位クラスってのはゲームとかの職業のことだろ。それがトカゲ男とか、まじ意味わかんねぇし、キメェ……」


 だが、得意そうな喋りもそこまでだった。

 マルバの持った鞭が頬をしたたかに打ち付け、北上は激しく仰け反る。


「うるさいぞ、不要な発言は慎め」

「いひぁっ……ううあぁ、血が。いでぇよぉ……。ひでぇ……」


 口を端を切ったのか、血を滲ませてしゃがみこんだ北上の姿を亜樹は内心で冷笑した。


(馬鹿なことを。まあ、人の痛みを知るいい機会だろうな……)


 暗い感情が亜樹の心に浮かぶ中、マルバの指示に若干の怯えを見せながら全員が答えて行く。最後に指示された北上ももう余計なことは言わなかった。


「セオ・ウツミ。格位クラス喧嘩屋けんかや

「カホ・ミザワです。ええと格位クラスは……修道士?」

「イツミ・トキスギ。セイレイ……何て読むんだろ。とき、つき?」

「ううぅ……コウタ・キタガミ。こ、こそ泥だよぉ、ちくしょう……」


 全員が紹介を終え、各自の情報をマルバと名乗った男が参照し、時杉の言葉を補足した。


「これは精霊きと読むんだ、覚えておけ。ではまず、各人に簡易的な物資や装備を補給しよう」


 そういうと、彼は天幕の傍に置かれていた物資の元に移動し、色々な物を手渡した。


 包帯や治療用の軟膏、短めのシースナイフ、着火剤とロープや松明等の道具が詰め込まれた皮のザック。他にも丈夫そうな布製の衣類が三セットほどと、グレーの毛皮が裏打ちされたなめし皮製のマント。それと……各人に合わせた武器。


 内海には固そうな皮のグローブ。

 見沢には、木製の修験者が持つような棒。

 時杉には、肘から指先程の長さの細い短杖ロッド

 北上には、小さく短い木剣。


 それぞれが装着し、使用感を確かめる中で亜樹はザックの中をかき回して首を傾げる。


 ――僕の分は……?


 もう一度自分の手持ちを確認し、声を上げた。


「あ、あの……武器が貰えてないんですが、僕の分は何かないんですか?」


 マルバは肩を竦め、唇の片側を上げる。


「何だ、お前にはそんな鋭い爪や牙があるではないか。素手でも戦えるだろう。口で噛み千切れ。爪で引き裂け」


 冗談なのかと半分思ったが、訂正する気配が無かった為、亜樹は再度頼み込む。


「む、無理ですよ……こんな風でも元は人間なんですから。棒切れでも何でもいいですから、お願いします」

「ふん……ならこれでも振っていろ、意気地なしめ」


 投げつけられた短い棒が足元に転がる。棍棒かと思ったが、おそらくただの薪だ。


 亜樹は仕方なくそれをつかむと、手元に包帯をぐるぐると巻いて滑り止めにした。こんな物でも無いよりはおそらくましだ。

 何と戦わされるのかは分からないが、この手を相手に叩きつけ、切り裂く。そんな野蛮なことは考えただけでも胸が悪くなる。


「ではついて来い。これよりお前達には《粘瘤バブ》相手に戦闘を繰り返し、レベルを上げて貰う」

「も、もうなのかよ……なんですか? 戦うとかやったこと無いのに死んじまいますよ! バ、《粘瘤バブ》って何なんすか!?」


 片頬を腫れ上がらせながら抗議した北上はマルバの視線に怯えて途中から敬語に言葉を変える。何か言わずにはおれない性格らしい。


「《粘瘤バブ》とは、動く粘液塊のような魔物だ……両の掌を合わせた位の大きさのな。こいつら程度なら、群がられて体を取り込まれたりしなければまず死なん。さあ、とっとと動け。それともまた痛い目に合わさねば分からんか?」


 マルバの短い鞭が手の平でぴしゃりと音を立て、北上は慌てて列の先頭に進み出た。しっかり恐怖は刻み込まれているようだ。

 そんな中亜樹は、これだけは聞いておかなければならない事だと、罰を受けることを覚悟して尋ねる。


「あの、これだけ聞かせて下さい。父が死んだんです。せめて墓前に花だけでも添えたい……元の世界にはどうすれば、戻してもらえるんですか?」

「……残念だが、諦めろ。元の世界に戻る方法など、有りはせん。お前達はここで生きていくしか無いんだ。早く腹を括ってしまえ」


 鞭の一撃は無かったが、マルバの瞳は揺らぎもせずにはっきりと否定の意思を返し、前を指し示した。


 半ば予想していた答えだった為、亜樹は大して落胆せずに済んだ。

 彼らにしてみれば、呼び出しておいてわざわざ返す理由などあるはずもないのだから、仮に方法が有ったとしても易々と教えはしないだろう。


 あちらこちらから騒がしい悲鳴が上がり出す……他の班も訓練とやらを開始しているのだ。


「始まったな。お前達も精々本気で励むことだ。でないと後々後悔するぞ」


 そのマルバの言葉は、悲鳴にも掻き消されず亜樹達の頭に重苦しく響く。

 

(ごめん、父さん……僕はあなたに、何も返せなかった)


 時を巻き戻せるならという意味のない後悔の念が、父の温かい記憶を黒く塗りつぶした。




「おい、そっちいったぞ、潰せ!」

「嫌よ! 気持ち悪いってば」

「この武器、何なんだよこれ、使いにくいっ……!」


 そこら中を這いまわる紫色の塊を追い回す生徒たちの怒号と悲鳴が飛び交う中、第五班も《粘瘤バブ》とやらを狩り出す。


 ちなみに男子は外で着替えを終えたが、二人の女子は制服のままだ。

周りが良く見知らぬ人間で、安心できなかったのだろう。


 後ろではマルバが見ている。

 心の準備は整わないものの、仕方なく亜樹達は自分達も騒ぎの中に入らざるを得なかった。

 

 広い草原を足も無いのにするすると動き回る粘瘤バブ

 ところどころに飛び散った残骸を乗り越え、わさわさと進む姿に女子達は口を押さえる。


 無理も無い。濃紫色の半透明の粘液が、脈打つ桃色の球状核を覆っており、滑走するように移動するその姿は、はたから見て非常にグロテスクだ。

 それをどうにか触れないように倒そうと、武器を振り回す生徒たちは、まるで猿の群れのようで滑稽ですらある。


「さあ、お前達もどんどん潰しにかかれ。今日中にレベルを3までに上げろ。出来なければ食事は抜きだぞ」


 容赦のないマルバの声を聞くも戸惑う五班の面々の中、真っ先にそれに一番に手を出したのは、空手部の内海――セオだ。


 やらなければ終わらないと覚悟を決めたらしい。

 短く刈り揃えた頭をがしがしと搔いて息を吐きだし、彼はずんずんと大股で進むと、振り上げた足から下を這うそれに踵を落とした。


「シアッ!」


 見事に一撃で核を貫き、粉砕……果実が弾けるような音と共に粘瘤は盛大に弾け飛ぶ。


「なんだ、拍子抜けだな」


 やや彫りの深い顔立ちに飛んだ粘液を拭うと、彼は次を探して移動を始めた。

 どうやらアキ達と連携する気はないようだ。


「チッ……まあストレス発散にはちょうどいいか! 死ねや! 死ね!」


 対抗意識を燃やしたのか、似合わない洒落たパーマの少年、北上――コウタも小さな木剣を振り下ろして粘瘤に何度も叩きつけ、それが動かなくなると剣を天に突きあげて雄叫びを上げた。


「楽勝ォォ――! おら、死ね、おっらぁ!」


 左右を気にせず、手近な粘瘤を狂ったように叩きまわり、そのせいで粘液片があちこちへ飛び散る。


「サイテー……」


 その汚い絵面を見て外道を見るような目でそれを蔑んだのは時杉――イツミだ。

 ぱさついた長い金髪に包まれた、どことなく蓮っ葉な顔立ち。吊り上がった瞳がコウタを睨みつける。

 そして残ったショートヘアの、目元を髪で隠している以外これと言って特徴の無さそうな少女、見沢――カホはしゃがんでしゃくりあげ始めた。


(僕も……やらないと……)


 このままただ突っ立って時間が過ぎるのを待つわけにもいかず、アキも棒を握り締め、手近な相手を探す。


 すぐに見つかったそれに向かって腕を振り上げた時、心の中に惑いが生じた。


(正しいのかな、これは……)


 自分の意思で生き物を殺す――この手で、命をむ。これほど大きな生物を殺すのは、アキにとって初めての経験だ。

 蚊やゴキブリ、小虫程度は殺すのによく言えたものだと思うが……本当に許されるのか?

 

 周りを見ても皆必死だ……当たり前だろう。あの場所での惨劇を目にしているのだから。

 やらなければ……今度は自分が殺されるかも知れない。


 視界の奥にマルバの顔が映った。彼はアキをじっと見ている。

 その冷たい視線は、生殺与奪の権が彼らにあることを言外に伝えているように思えた。

 もし役に立たないと判断されたら――彼らは今殺されている粘瘤バブのように、アキの事を殺すだろう。


「…………やればいいんだろう」


 アキは小声で呟くと、眼下のそれに棍棒を打ち付けた……せめて一息で殺せるように思い切り強く。

 弾力のある核が二つに割れて潰れる嫌な感触を手に残し、それは徐々に形を崩すと地面へ汚れた水たまりを作る。


 何が変わった訳でもない。少しの罪悪感と徒労感がよぎっただけ。


 ――ゴミを踏み潰すのと何ら変わらないさ、そうだろ……。

 アキは自分にそう言い聞かせ、何か大事な物が心から失われていくのに目を逸らしながら、戻れない一線を越える為に、それをやり続けた。

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