《涯(はて)の大地》アーレ=メリア

安野 吽

ープロローグー



 ――新学期に入ってもう、三つ目か。


 顔を赤くした少年の手の中で、歪んだ金属の細い枠が震えている。


 N県G市私立北新河高等学校の校舎の二階。

 入り口上部のパネルに二年二組と表示してある、その教室内。


 多くの生徒が浮足立つ、帰宅前の準備時間に……同組の一生徒、須賀谷すがや亜樹あきは自席で壊された眼鏡の歪んだフレームだけでも直せないかと必死に弄っていた。


 フレームさえある程度戻れば、レンズ代だけで交換費用は済む、はず。


「くう、っ、っ……。あぁっ……!?」


 だが、力加減を誤って、細い金属のフレームは真ん中からぽっきりと逝ってしまった。

 

 三代目、御臨終。

 

 無意味な鉄屑になったそれを握り締めたまま、亜樹が机に伏すのと同時に……チャイムが終業のHRホームルームの始まりを無情にも告げた。






 ――ほんの数分前。


「はは、今時金属フレームに見ろよこの瓶底みたいなレンズ。これはねぇわ!」

「うひゃひゃ、俺にもかせよ。分厚っ……もはやゴーグルだろこれ。爺さんかよ!」

「返してよ……」


 今日の六限終了後、いつものように亜樹は苛めに遭っていた。重箱の隅を突くような些細な違和感が理由の、純粋な悪意だけに包まれた何の意義も無い暴力。


 何重にも重なる輪郭がぼかした、歪んで見えない視界内で一心不乱に腕を伸ばすが、突き出された足にも気づかずに派手に転ばされる。

 

 フロアタイルにしたたかに鼻を打ち付け、目の前を星が散った。


「ぶひゃひゃひゃ……勝手に一人でこけてんじゃねえよ、メガアキ」

「動きキモーッ」


 上から容赦ない罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせかけるのは金髪とパーマの――太田と北上という男子生徒。

 彼らは亜樹が同クラスになってから三カ月間、親の仇のように毎日苛め倒し、金をたかり、暴力行為を繰り返している。


 既にこの光景は日常のものと化し、誰もとがめようとはしない。

 そして――。


「へ~い、太田、パスパス」


 手を上げ、眼鏡を渡すように要求した大柄で筋肉質な少年。


 みなと晃司こうじ――それが苛めの主犯とも言えるこの生徒の名前だった。

 長髪に尖った顔立ちをした彼は、奪ったそれをわざとちらつかせ、取り戻そうと伸ばす亜樹の手を乱暴に払いのける。


「うわマジで、こんなん虫メガネじゃねえか。メガアキの上にムシアキなのかよ。あ~終わってる。本当クソだわ」


 いかにも頭が悪そうな罵声を口にして窓際にもたれ、港は眼鏡のフレームに親指で力をめレンズを外す。

 強度の低い金属のフレームが歪むのもお構いなしに。


 誘うように亜樹の目の前にかざされた、指に挟まれた二枚のガラスレンズ。

 せめて、それだけでも取り返そうと窓の傍に駆け寄った瞬間……港はあろう事かそれを窓の外へ放り捨てた。


「ざんね~ん」

「――あぁっ!?」


 反射する太陽光の光を美しく散らせながら、クルクルと回転して地面に引き寄せられていくレンズ。

 亜樹は足をばたつかせて落下防止用の手すりから身を乗り出し、それを呆然と見守る。


 カッシャァァァン……。


 そして灰色のコンクリートの舗装面に叩きつけられた硝子板は、済んだ音を立て粉々に砕け散った。眼下から悲鳴が上がって騒然としたが、そんな様子ももう亜樹の耳には届いていない。


「ヒハハハッ、おらよっ!」


 力が抜け、その場で膝をついた亜樹の後ろで、高笑いを放つ港が手にしていた物を大きくぶん投げた。


 教室の左後部に配置された四角いスチール製のゴミ箱。

それに当たって、カァンと甲高い音を立てて姿を消したのは、言うまでもなく眼鏡のフレームだ。

 

 亜樹は顔面を蒼白にして内心で憤る――そこまで、するのか!?


「ストライク、スリーアウト、ゲームセット人生! ってかぁ? カハ、カッハハハハハハ!」

(ちくしょうっ……!)


 港と取巻きの笑い声が響く中、アキは両手を無言で握り込む。

 そんなことが有っても、誰もそれを取り出して手渡してくれるような者はいない……どころか、級友たちは見なかったふりをしてその上から更にゴミを積もらせていく。


 耳障りな哄笑の中で一層顔を青ざめさせ、かすかな呻きとゴミ箱を漁る亜樹の脳内を……涙と共に苦い記憶がにじみだし、満たしていく。





 亜樹の穏やかだった高校生活が急変したのは二年になってからだ。


 目立たない、平凡を絵にかいたような、クラスに一人や二人はいるような、無害で気弱な男子生徒。

 そんな亜樹を取り巻く状況を決定的に変えたのは、同クラスに在籍することになった三人の不良達――北上、太田、そして港だった。

 彼らの苛めのせいで、学校生活は台無しになってしまった。


 恐らく進級当初から目を付けられていたのだろう。

 軽い嫌がらせから始まったそれは、亜樹が抵抗を見せないことを察すると、すぐにエスカレートしていった。


 金を巻き上げる、パシリ等は日常茶飯事。汚物や暴力を用いての迷惑行為はそれ自体が周囲への威嚇いかくの効果を持ち、誰もが自分が対象にされることを怖れ、たちまちに亜樹は孤立した。

 今では傍観を装っていた生徒の何割かも港たちについて、積極的に悪事に加担している始末。


 もちろん、亜樹も何もせずにただ黙っていたわけではない。

 わらをもすがる思いで担任の教師に相談したことも有る。

 二年二組の担任は鈴見という若い女性教諭で、美人で思いやりがあり、優しい事で生徒から人気が高い先生の一人だ。


 だが鈴見も、不良達と相談をして見ると言ったきり、何の音沙汰も返さなかった。


 少なくともいじめの実態があるのは把握していたはずだ。初期には他の生徒からの相談もあっただろうし、これだけ大っぴらにやっていれば嫌でも目に付くはずなのに。


 結局、学校側に期待は出来ないという事実を思い知らされただけに終わり、亜樹は愕然とした。

 積極的に介入すれば恨みを買い、個人を対象とした報復を受ける恐れもある為、それを危惧して二の足を踏む気持ちはは分からないでもないが、それでも亜樹にとって唯一学内で頼れそうな大人が何も行動に移してくれないというのは、辛過ぎた……。


 親には、言えなかった。


 母は既に他界し、忙しい仕事のせいもあってか……柔和ではあるが寡黙だった父と亜樹が会話することは極端に少なかった。

 それでも男手一つでこの年まで何不自由なく育ててくれ、大学まで進学させてくれると言った父には感謝していた。この上我が身可愛さで心配をかけて、煩わせたくはない。


 こんな弱腰の亜樹でも、一度だけ港たちに逆らおうとしたことが有る。


 筆箱の中に入れたお守り代わりの高価なペン。

 父親から入学祝に貰った物で、試験などここぞという時に使うようにしていたたそれを、目の前で真っ二つにぶちおられたのだ。


 だが、激高した亜樹を港は拳一発で黙らせた。

 そして雨がしとど降る中、北上と太田に校舎裏の目立たない敷地へと運ばせ、服に隠れた場所をしこたま殴りつけた。

 そのうち一発は脇腹の骨にひびが入る位の重傷で、しばらく痛みでそこから動けなかった。

 漫画みたいに誰かが駆け付けてくれるなどという事は有るはずもなかった。


 潰れた蛙のように仰向けになり、滴る雨を顔に受けながらその時亜樹は理解させられた。情操教育で培った正しさや優しさなど、本当の悪意の前には何の役にも立たないのだと。

 強者には抵抗しても無意味なのだと。


 今までかろうじて心の奥に残っていた道徳や倫理といった、心の豊かさを担う大切な部分が、涙と共にするりと零れ落ちてどこかへと消えた。


(……体も心も大事な物も、何一つ守れやしない自分に生きている価値なんて、あるのか? 強いあいつらこそが正しくて、弱い僕が間違っているんじゃないのか?)


 拠り所としていた物を失い、それ以来亜樹はそんな自答を繰り返すだけの陰鬱な日々を過ごしている。

 日毎に黒いものばかりが心に鬱積してゆくが、かといって死への恐怖は少しばかりも薄らぐことは無く、逃避する事すら敵わない。


 亜樹にできることはもう、この残酷な遊びに彼らが飽きてくれるのを待つか、自分の忍耐が切れて頭がおかしくなってしまうのを待つどちらかしか、なかった。






 視界がぼやけ、前がよく見えない……眼鏡を壊されたせいだ。


 担任の鈴見教諭が教壇に立ち何か話している。知らぬ間にHRが始まっていたのだろう。


 失意が心を満たして、ろくに話など聞いていられない。そんな時に亜樹のポケットに入れていたスマホが振動し、着信を知らせた。


 もちろん、教室内での通話など許される事ではない。後で返そうと思ってそのままにしておいたが、着信は鳴りやまずに延々と続く。


 とうとうしびれを切らし、仕方なくこっそりとポケットからひび割れた画面のそれを取り出すと、ぼやけた両眼に映ったのは父の名前と携帯番号だ。


 今時分に学校にいるという事は、子供でも分かる……では間違い電話だろうか。

 その可能性はあったが、何故か亜樹は嫌な予感がして、おずおずと手を挙げた。


 鈴見教諭は説明を中断して首を傾げ、教室中の視線が後方の座席の亜樹に突き刺さり、身を竦める。


「どうしたの? 須賀谷君」

「す、すみません……何か、親から電話が入ってて。着信が何度も止まないみたいで」

「そうなの? 何かあったのかしら。外で出てきていいから、終わったら教えて」

「はい……ありがとうございます」


 何も言われなかった事にほっとして、亜樹はこけそうになりながら教室の後ろ扉から外へ出る。


「うぜ……お前の都合で時間取らせんなよなぁ……」

「親が心配して掛けて来るとか、小学生か。それともこいつマザコンなの? くくっ……」

(うるさいな……もう母さんは墓の下だよ……)


 揶揄するそんな小声に心の中で言い返しつつ、亜樹は誰もいない階段の踊り場まで移動して投げやりに通話に出た。


「はい、須賀谷ですけど」

「あ、亜樹君かい? お父さんの同僚の飯島って者なんだけど、緊急で真一さんの電話をお借りしてる。授業中とかだったら済まないね」

「へ? は、はい。緊急って……?」


 確認だけしてすぐに切るつもりだった亜樹の耳に、父では無い人物の声が届き混乱する。それが緊急だというのだから尚更だ。


 ――飯島さん……あの人か? 名前と声を聞いて亜樹は、彼と面識があった事を思い出す。

 父が酔いつぶれた飯島氏を家に連れて来て介抱していたことが有ったのだ。

 大手工業機器メーカーに勤める父とは確か十年以上の長い仕事仲間で、シュッとした背丈の高い、笑い顔に愛嬌のあるおじさんだった。

 

 そんな彼の神妙な言葉遣いに何かあったことを察し、亜樹は無言になる。

 すると飯島氏は、少しだけ間をおくと、亜樹にとって人生で最大の衝撃である言葉を告げた。


「……真一さんがお亡くなりなったんだ。救急車で運ばれて、今しがた……。出来れば学校を引いてすぐにでも来て欲しい」

「……え」


 ――なくなった……亡くな、った……!?


 取り落としそうになったスマホを、慌ててもう一方の手で掴む。

 浸透し始めた今の言葉を脳が拒んで、頭がぐらぐらとした不安感に揺れる。


「え、え? 今何て言いました? え……」


 するともう一度、飯島は同じ言葉を繰り返した。


「真一氏が、お亡くなりになった。ご本人から何か聞いてはいないかい? 私も時々心臓の具合が悪くなると、病院に行かれていたのは知っていたが……」

「本当なんですか……本当に?」

「……ああ。ショックだろうが気をしっかり持って欲しい。担任の先生にでも連絡したら、今から伝える病院まで来てくれ」


 亜樹は、胸ポケットに合った生徒手帳とペンに、伝えられた住所を書き込もうとした。

 手が、汗で滑り、指が震えて漢字が書けない。

 仕方なく蚯蚓みみずの様なひらがなを書き連ね、どうにか最後まで書き終えると、汗で濡れインクが所々滲んでいた。


「お母上はいないんだったか……。後見人がどなたになるのかは分からないが、私も出来る限り君が今までと同じ生活を送れるよう手伝うよ。辛いだろうが気を落とさないでくれ」

「はい……どうも」


 用件を伝えた父の友人は、亜樹を励ましてくれたが、それに答える余裕など有りはせず、半ば自動的に電話を切る。


 スマホを耳から離した後、握り締めたままおぼつかない足取りで教室へと戻る。

 そしてHRが続く最中の教室に呆然としながら入り込む。


(死んだって……そんな。急に……どうして?)


 父真一が病院に通っていた事を亜樹は知っている。

 だがそれは定期的な検診の為で、特に体に悪い所は無いと父は言っていたはずなのに。

 家で倒れたことも、苦しむ顔を見せたことも無かったのに……どうして。


 ふらふらと死人のように青ざめながら自席へ戻る亜樹の足の甲を踏みつけ、港が引き倒した。

 盛大に転んだ亜樹の手の中から、スマートフォンが教室の隅に回転して滑ってゆく。


「プッ、ダッセえ。センセー、須賀谷が暴れて騒がしいんで注意して下さ~い」

「ちょっと港君! あなたね……」


 駆け寄って来た鈴見と港が激しく言い争う会話を近くで聞かされながら、亜樹は床に這ったまま暗い瞳で地面を見つめた。


(父さんが……たった一人の家族が亡くなったっていう時に僕は何をしてるんだ……? お前らは良いよな……そんな風に人を玩具みたいに扱って、毎日笑って過ごして……)


 内側から沸き起こった憎しみは、心を氷のように冷やしてゆく。


(もう懲り懲りだ。こんなの……大事な物は全部無くなって、後から増えてくのは本当に要らないものばっかりだ。どうして、僕は生きてるんだ……)


「全部、壊れてなくなってしまえ」


 知らずの内に漏れ出た、心からの呪詛。

 絞り出すように怨嗟を込めて発したその言葉。


 本来なら何の力も持たぬはずのそんな一言……だが、それを引き金にしたかのように、有り得ない現象が起き始めた。


 ヴァウン……。


 今まで耳にしたことのない、奇怪な振動音……そして突如暗くなった室内。

 電気が消えたとかそういうレベルではなく、完全な漆黒に包まれている。


「え、なになになになに? ちょ暗。誰よ電気消したの? え……あたしら、ない?」

「おい、迷惑なことすんなって、黒板見えねえんだけど……あれ? ってか、ね?」


 クラスメイトのざわめきが教室内に巻き起こる。


 光を吸いつくした周囲の黒い空間……その癖、人の姿だけははっきりと闇に浮かび上がっている奇妙な光景に浮足立つ生徒達。


 教師の鈴見が長い黒髪を振り乱してよろけた体を机で支えようとしたが、そこにはもう何もない。


「み、皆、落ち着いて! 何なのこれ!? い、悪戯!?」


 彼女の甲高い悲鳴に答える者はおらずパニックに陥った生徒達が叫び出す一方、亜樹は自分たち以外何も無くなった世界を見て、一人暗い含み笑いを漏らした。


(何だ、何かが起きたの? ハハ……アハハハ、本当に何か起きたっていうのか。いい気味だよ。神様、お願いです……。このまま僕も、こいつらも……周りと同じように全て、消し去ってくれ!) 


 亜樹は泣き笑いの表情を浮かべながら心の内で祈った。


 そして強く拳を握り締めた瞬間――。

 

 周囲を覆っていた黒いとばりは取り払われ、白い光が視界を塗り尽くした。


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