後先
おしゃんしゃい
染み込んでいたものは
あの日私は手を怪我してしまった。
「ごめんね ちょっと手を怪我してしまって、晩御飯が用意できそうにないの」
電話で話す私に夫はビックリした様子で
「大丈夫? 晩御飯より君の手の方が心配だよ 病院は? 何があった?」
矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
「揚げ物をしようとしたら油が…」
言い終わらないうちに
「大変じゃないか! 病院に付き添いしようか?」
私の事になると急に過保護になるのだ。
「流水でよく冷やしたし、明日で大丈夫よ 付き添いはお願いしちゃおうかな」
少し安心した様子の夫は
「わかった 帰ったら僕も手の状態を確認するね 晩御飯は買って帰るから」
普段は私が栄誉バランスを考えつつ、色々と手料理を用意するのですが、夫は料理全般苦手であり、お弁当か何か買ってきてくれるようです。ただ、家は裕福ではないので、ちょっと心苦しいです。
夫は帰宅するやいなや開口一番
「ただいま!心配したよ!手を見せて」
お帰りのキスすら忘れ私の手を確認するのでした。
「本当に大丈夫?今から病院探そうか?」
落ち着かない様子の夫に
「明日で大丈夫だから着替えて晩御飯にしましょ?」
我に返った夫は
「そうだね ごめんねお腹減ってるよね すぐに用意するから」
何やら用意して貰えるらしいけど、料理は出来ないはずだし、お弁当でもチンするのかな?と思っていたら
「赤いきつねと緑のたぬき買ってきたよ」
夫は私が一番好きな物を覚えてくれていたようで、麺好きの私の中で緑のたぬきは最高のカップ麺です。
「きつねは朝用ね たぬきはお湯少なめで天ぷらは後のせだよね?」
何も言ってないのに私の好みを完全に把握し、私の中でのベストな作り方で作ってくれた。
「ありがとう 私の好みよく覚えていたね?」
当然のようにドヤ顔で
「君の事で知らない事なんてないさ」
恥ずかしげもなくそう言うのでした。
ただし夫は
「僕は天ぷら先入れだけどね ここは譲れない」
そんな事を言いつつも
「その手じゃ辛いだろ? ほらあ~んして」
と私を心配しつつ、甘やかしてくれるのでした。
緑のたぬきだけは喧嘩こそしないものの、いつも意見が合わないのでした。
色々とあるけれど当たり前の日々がずっと続くと信じて疑わなかった。
夫がいなくなった。逃げたわけでも別れたわけでもない天に召されたのだ。
突然だった……なんの前触れもなく心の準備もなく、いきなり奪われたのだ。
何もする気が起きなかった。
何も喉を通らなかった。
全てがどうでもよくなった。
愛していたのだ心の底から。
何よりも大切でかけがえのない存在だったのだ。
絶望していた時目に入ったのは緑のたぬきだった。
思い出すのはあの日あの時食べさせてもらった記憶。
私の好みに合わせて作ってくれた緑のたぬき。
結局一度も先入れはしなかった緑のたぬき。
食べてみようと思った。
夫があんなに好きだった先入れで。
あの人が感じていた事あの人が味わっていた味。
フタを開けると原型はとどめているが、汁を吸い込み柔らかく膨れ上がっている天ぷらが見えた。
柔らかく簡単に切れる天ぷらをそばと共に口に運ぶ。
フワッと口の中で溶けるように消え、麺と共に出汁の旨味を口の中まで運んでくれる。
天ぷら自体の油分も加わり程よいバランスだった。
これがあの人が感じていた世界なのだと、口の中に広がるのは染み込んだ出汁だけではなく、あの人の愛が優しさが一緒に溶け込んでいるようで、冷えた私の心を温めてくれた。
このままではあの人も安心できないから、私は大丈夫だと伝えないといけないから、これからは前向きに生きていこうと思った。
困った時 挫けそうな時 悲しい時
私は緑のたぬきを食べようと思う。
天ぷらは先入れで。
後先 おしゃんしゃい @urawaza
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