第9話 夕暮れの灰色都市

 舗装された道路。アルフィグの街で見たことのあるようなレンガ造りの家はなく、全体的に灰色がかった無機質な雰囲気が広がっている。どこか見慣れない、独特な景色だった。


「驚いた? 私も初めて来たときは驚いたわ。こんな色の街があるんだってね。都会と田舎って、本当に違うのね。どうやら、死竜の死骸からエネルギーを抽出する技術ができて、王都とこのドイシュタイムの街だけは、物が自動で動かせるようになったみたい」


 不思議な乗り物が道を走る。馬も牛もいないのに、人の手を借りずに動いている。何もかもが見慣れないもので、クオトラは言葉を失った。


 高層の建物が並ぶが、灰色のその素材が何でできているのか、見当もつかない。


「今度、時間があるときに、ちゃんと街を案内するわね。私たちの街も相当大きかったけれど、ここはもっと広いっていうんだから、今日明日で案内なんてできないわ。とにかく今日は必要なものをそろえましょう」


 フレーリアの手が、クオトラの手を取る。今日は暖かいのか、街を歩く人々は薄着で、軽快に足を運んでいる。出店のようなものはなく、街には整然と建てられた建物が並ぶ。クオトラが知っている街の賑わいとは異なり、どこか寂しい雰囲気だ。


 灰色に包まれた色のない街を歩いていると、どの通りも同じに見えて、ひとりで歩けば迷子になってしまいそうだった。


「この街の人々は、幸せなのかな」


 クオトラがぽつりと呟いた。


「どうかしらね。私たちも“実験体”として送られた街だし、他にも同じような人がいるかもしれないわ。それに、今は厳重警戒で夜に外出することも禁止されているの。生きていくには不自由ない街だけれど、それが幸せかって言われたら……正直、分からないわ」


 フレーリアはそう言いながらも歩き続ける。クオトラが知らない声色で話す彼女の表情は、後方を歩く彼には見えなかった。


「着いたわ」


 フレーリアは一つの建物の前で足を止め、透明な押し戸を開いて中へと入る。


「いらっしゃいませ」


 明るい声が響き、店内の人々の視線がこちらに向いた。


「この街では、個人の店って少ないの。同じ商人たちが集まって、大きな店舗で商品を売っているのよ。ここは服屋さん」


 広い店内には無数の服が並んでいる。灰色で寂しい印象の街並みとは対照的に、店内は鮮やかな色彩に満ちていた。


「最近、竜化した獣の皮を使った服が増えているのよ。まだ死竜になっていない獣の皮は上質だから、クオトラにはそれがいいんじゃないかと思って」


 フレーリアは「ディグレグティ」と書かれた札の前に立ち、掛けられた服を物色する。そこには見たこともない装飾や加工が施された服が並んでいた。


「軍人でもなければ、本物の軍服は手に入らないけど、ここにあるのは護身服って呼ばれるもので、耐久性が優れているの」


 フレーリアは真っ赤なシャツと、黒い革製のジャケット――ディグレグティを選び、クオトラに差し出した。


「着てみて」


「……ああ。後はズボンだな」


「ズボンは今のままでいいんじゃない?」


「そうだな……このズボンは、昔のままで残しておきたいんだ」


 クオトラは、自分でも理由は分からないが、どうしてもズボンだけは変えたくなかった。過去の自分との繋がりを、どこかで保っておきたかったのかもしれない。それを察したのか、フレーリアは小さく頷き、黙って試着室まで案内してくれた。


 クオトラは、渡された服に着替え、ボロボロの服をフレーリアに手渡した。


「それ、捨てちゃってもいい?」


「……うん」


 フレーリアはボロボロの服を受け取ると、店員に渡して処分してもらった。


「どうしてこの色にしたんだ?」


 身を包む赤と黒の服装に、クオトラは少し疑問を口にした。


「クオトラはすぐ怪我するから、血が目立たないように内側を赤にしたのよ。そして外は丈夫な黒にしたの。危険なときは前まで閉じれば、正面も守れるしね」


 フレーリアは満足げにそう言い、会計を済ませた。


「何着か買ったから、次は髪を切りに行きましょう」


 クオトラの手を取って再び歩き出すフレーリア。その様子は、まるで姉弟のようであり、恋人のようでもあった。彼女に連れ回される感覚が懐かしく、クオトラは自然と頬が緩んでいるのを感じた。


 今度は『髪』と書かれた店の前に辿り着き、またも有無を言わさず中へと引き込まれる。


「随分と伸びていますね。どれくらい切りましょうか?」


 木製の椅子に座らされ、布を掛けられる。準備が整い、鏡越しに店員の顔が見える。ふと、店員がクオトラの前髪を持ち上げると、右目の上に走る傷痕が露わになった。


 店員の表情が一瞬固まったように見えた。


「右目の上が隠れるように、少し長めに切ってもらえますか」


 クオトラは鏡越しの視線を避け、静かに頼んだ。傷痕を隠すように切ってもらうと、クオトラは気が楽になったようだった。


 髪を切り終え、すっきりとした姿でフレーリアのもとに戻ると、彼女は笑顔でクオトラを見つめた。


「なかなか似合ってるじゃない。クオトラが髪を切るなんて、ずいぶん久しぶりね」


「そうかもな……でも、なんだか少し照れくさいよ」


 クオトラは髪の短くなった自分の姿にまだ慣れないのか、少し頬を赤らめて目をそらした。その様子にフレーリアが小さく吹き出し、クオトラはますます視線を逸らす。


「他に欲しいものはある?」


「うん……手袋が欲しい」


 クオトラはぽつりと呟き、視線を自分の手に落とした。そこには、人間らしさを失いつつある、自分の“異形”の手があった。右手はまだ血色が悪い程度だが、左手は爬虫類の鱗のような模様が浮かび上がり、鋭い爪が顔を出していた。


「確かに、その手は隠しておいたほうがいいわね……」


 フレーリアは少し考えた後、軽くうなずいた。彼女の優しさと配慮が、クオトラの心に染み入るようだった。


「少し外へ出ましょう。いい場所があるの」


 フレーリアが手を差し出す。クオトラはその手を取り、静かに歩き出した。


 彼女の柔らかく温かい手に引かれるまま、北へ、さらに北へと向かう。街の様子は徐々に変わり、灰色の無機質な建物から、木造の家や白い壁が目立つ区域へと移り変わっていった。


「ここら辺は昔ながらの建物が残っているの。この色合い、どこか私たちの故郷に似てると思わない?」


 クオトラが辺りを見渡すと、たしかにどことなく懐かしさを感じる景色だった。人々が行き交う広場、並ぶ小さな露店……アルフィグの街を思い出させるような風景が広がっていた。


「なんか、懐かしい気がする」


「そうでしょうね。七年ぶりだもの」


 フレーリアはそう言いながら、心なしか高揚した声で話していた。彼女は止まることなく歩き続け、やがて傾斜のついた小道を上がり始めた。街並みが一段一段階段状に広がり、眼下にはグラデーションのように広がる色彩が、まるで絵画のように美しく映えている。


「着いたわ」


 フレーリアが足を止めたのは、小高い丘の上だった。振り返ると、遠くに灰色の街並みが見え、その周りに広がる緑の草原や橙色に染まったレンガの建物が、日暮れの空と溶け合って美しい風景を描いていた。


「ここ、いい場所だね」


 クオトラはぽつりと呟いた。大きな声で叫びたくなるほどの感動を覚えたが、どうしてか、この静けさを壊すのが憚られた。


「ふふ、クオトラらしくないね」


 フレーリアはクオトラの言葉に笑みを浮かべ、草の上にそっと腰を下ろした。夕陽に照らされた彼女の金色の髪が風に揺れ、その姿があまりに美しく、クオトラは思わず目を奪われてしまった。


「どうかしたの?」


 彼女が不思議そうに問いかけると、クオトラは慌てて視線をそらし、照れ隠しに仰向けに寝転んだ。


「なんでもないよ」


 空を見上げると、青々と透き通った空が、少しずつ橙色に染まっていくのが見えた。日が沈むにつれ、空には影が落ち、青と白の世界が次第に橙と黒に変わっていく。景色がゆっくりと赤く染まっていくのは、どこか寂しくもあり、神秘的でもあった。


「まるで空が吸い込まれて消えていくみたい……少し怖いけれど、この夕暮れの景色はどうしても嫌いになれないのよ」


 フレーリアが感慨深げに呟く。クオトラはその言葉に頷き、再び彼女の顔を見ようとした、そのときだった。


 空に浮かぶ雲が、急に動き出し、まるで生き物のように形を変え、牙をむいて襲いかかってきたのだ。


「危ない!」


 クオトラはとっさにフレーリアを抱き寄せ、雲のような異形が急降下してくるのをかわした。目の前に迫った異形を見た瞬間、クオトラの心に激しい怒りと悲しみが燃え上がった。


「どうして……どうしてこんなときに……」


 平穏な時間を邪魔されたことが、どうしようもなく許せなかった。怒りが、まるで噴き出す炎のように、体の奥底から湧き上がってくる。


「許さない」


 その言葉と共に、クオトラの右手が変貌を始めた。爪が異様に長く伸び、黒く鋭い棘が手の甲を覆っていく。爪はまるで生き物のようにうねり、異形の姿に向かって勢いよく振り下ろされた。


 爪が空間を裂くと、異形は一瞬で消滅し、死臭のような忌まわしい匂いが辺りに立ちこめた。


「クオトラ……」


 フレーリアが呆然と見つめる中、クオトラはようやく力を抜き、その場に崩れ落ちた。異形の爪は消え去り、代わりに血に染まった自分の手が残っていた。


「せっかくの場所を台無しにしてしまって……ごめん、フレーリア」


 クオトラは申し訳なさそうに呟いたが、フレーリアは彼の手をそっと握り、優しく微笑んだ。


「大丈夫よ。クオトラが私を守ってくれた。それだけで十分だから」


 彼女の言葉が胸に染み入り、クオトラは返す言葉を見つけられなかった。


「帰りましょう」


 フレーリアが立ち上がり、クオトラの手を引く。どこか重く感じる体を持ち上げ、彼女に導かれるままに歩き出した。来るときは短く感じた道のりが、帰りはやけに遠く感じられる。


 すっかり日は沈み、人々の姿もまばらになった街並み。赤い月がかすかに空を照らし、静けさの中に不安の影を落としていた。


「どうして、あんな時間に……何か、嫌な予感がするわ」


 フレーリアの呟きが、静かな夜の空気に溶けていく。


 ようやく二人は家にたどり着き、クオトラはベッドの前に腰を下ろした。途端に襲ってきた強烈な眠気に、まぶたが重く閉じられていく。


「そういえばこれ……明日、どうするか考えなきゃな……」


 ふと目に入ったのは、床に転がる二本の白い棒――かつて自分の背中から生えた異形の痕跡だった。そのままにしておくのは気味が悪いが、今は片付ける気力もない。


「クオトラ、疲れたでしょう? 体も傷だらけだし、今日はもう寝た方がいいわ」


 フレーリアの静かな声が、彼を包み込むように響いた。クオトラは、彼女の言葉にうなずき、ベッドに横たわる。長い眠りから目覚めたばかりのはずなのに、今はどうしてか、心地よい眠気に包まれ、気づけば意識は深い闇の中へと沈んでいった。



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