第5話 赤い星の降る夜

 体中にまとわりつくどろどろとした感覚。全身が重く、まるで液体に溶け込んでしまったかのように自由が奪われている。もがこうとしても、手足がぬかるみに沈むように動かない。


「貴様の負けだ」


 胸を貫くのは、赤紫色の凶爪。鋭く、冷酷な力が宿っている。その先端で、まだ生きようと必死に鼓動する心臓が圧し潰されそうだ。まだ生きていたい――そう願う心臓の震えも、目の前の悪魔は容赦なく握り潰そうとしている。


 胸でかすかに光を放っていた秘炎核も、すでに四つに割れ、弱々しい灯りが点滅しているだけだ。


 痛みが地獄のように襲いかかる。霞んだ視界に無理やり焦点を合わせ、目を見開いた。


「まだ……」


 揺れる視界に映る白髪。血が所々にこびりつき、髪に赤い染みが広がっている。力の入らない腕を動かし、腹に突き刺さった悪魔の腕を掴もうとするが、何の抵抗もできない。爪はビクともせず、肉体を貫いたままそこにある。


「せいぜい父上に媚びを売るがいい。神になった暁には、お前も他の敗北者どもも、消し去ってやるわ」


 赤髪の女が、私の心臓から秘炎核を無造作に引き抜いた。薄れゆく意識の中、彼女の勝ち誇った笑みがぼんやりと残像を描く。


「さようなら、親愛なるもう一人の私。レウェルシュ・ネフィリティアム。我が全てを貴様に託す」


 心を、そして体を根のように張り巡っていた竜種の力が、霧散し、やがて消え去る。竜の存在が消えたその瞬間、全てが無に還る感覚だけが残った。





 どくん……。胸が激しく鼓動する。この感覚、ルーシュの記憶に違いない。そう理解してしまうと同時に、激しい頭痛が襲いかかる。


 あの時、赤髪の女に受けた傷。神龍ちちうえに体を修復された際に、赤の竜の権能が混ざってしまったせいで、この胸の光は真っ白ではなく、薄い赤を帯びているのだ。


 痛みの理解が追いつく間もなく、クオトラの眼球が内側から針で突き刺されるような痛みが、脳を焼くように広がっていく。


「ま……たか……よ」


 途切れ途切れの声は、ルーシュのものだ。意識が覚醒したかと思うと、再び何処かへ引きずり込まれる。何度目だ……? そんな声が、クオトラの内に響いたが、答える間もなく、意識は深淵へ沈んでいった。





 体は動かない。けれど、もうそんなことには慣れていた。唯一動かせるのは、瞳だけ。辺りを見回すと、さっきまでとは明らかに違う世界が広がっていた。今度は夢ではない。自分の瞳に映った現実だと断言できる。理由なんて分からない。それでも、この瞳がそう告げている。


 それは現実なのに、どこか現実離れした光景だった。まるで瞳と脳の間に別のスクリーンが無理やり据え付けられたかのような違和感。自分の目で見ているのに、本来見るべきではない何かを見せられている感覚。


「どうして……」


 目の前に広がるのは、記憶に新しい、名前も知らない街。しかし、その崩れた光景には見覚えがあった。


 忘れもしない。僕が死んだかもしれない、あの日の地獄。


 空を泳ぐ異形たち、人々がゼリー状の何かへと変質していく光景。あの広場にいた子供たち、露店を賑わせていた青年、祈りを捧げる人々――全てが形を失い、ゴミの山となっていく。


 その光景に、クオトラの胸が痛みで締めつけられる。痛みは、まるで心に突き刺さる針のように感情を殺していく。ただ、残るのは怒り。行き場のない、激しい怒りが沸き上がっていく。


 助けを求める声が耳に届く。クオトラは動かない体で、ただこの地獄を見つめるしかなかった。ルーシュの感情が彼の中に流れ込み、共に無力感を感じているようだった。


「なぜ……何のためにこんなことが……!」


 激情が言葉となって溢れ出す。だが、その声は僕のものではない。ルーシュの怒りだ。変えたい、何とかしたい――彼の強烈な意思が、僕の中に流れ込んでくる。


「もう、見たくないんだ……!」


 そう叫んだ瞬間、目の前に張り付いていた不思議なスクリーンが消えた。気づけば、白く濁った天井が視界に映っている。


「何度目なんだ……もう、辞めてくれよ……」


 ルーシュが自分の顔を殴りつける。痛みが、僕にも伝わる。彼の表情は見えないが、その悲愴さは安易に想像できた。


 何度目なんだ。きっとあの日、彼が言っていた意味のわからないことも。


 ルーシュがゆっくりと立ち上がる。


「……?」


 窓の外には、先ほどと変わらぬ穏やかな街並みが広がっていた。夜の静けさが漂い、どこか寂しげな気配がある。


 さっき見た光景は、一体何だったのか。クオトラは混乱する。


 ルーシュはベッドに腰掛け、ぶつぶつと何かを呟く。その言葉は脳に流れ込んでくるが、理解できない。どこか異国の言語のようで、この大地では聞いたことのない響きだった。


 激しい怒り。怒り。怒り。穏やかそうな顔立ちからは想像もつかない、爆炎のような怒りが、彼の中で燃え上がっている。気を抜けば、僕の感情までも飲み込んでしまいそうだ。


 視界に映る自分の腕。右手はチカチカと点滅するように明滅していた。左目には激しい痒みが走り、耐えきれずに擦ると、視界が真っ赤に染まった。


「何のために俺は生まれたんだ。なんで俺を生んだんだ……誰に、この怒りをぶつければいい……」


 ルーシュは袖口から、真っ黒な何かを取り出す。それは、生き物ではないと理解できるのに、強烈な鼓動を感じる。見つめていると、その漆黒の塊は、僕の存在すらも飲み込んでしまいそうな気配を放っていた。


 それが何か――ルーシュの思考の影響だろうか――始源の龍神。その心臓の一部であることが、理解できてしまう。


「使ってはいけない……」


 そう感じる。竜種の器である今の体では、とても耐えきれない。だが、ルーシュはその反応を無視し、無理やり押し込めていた。


「まだだ、まだ……何とか……」


 ルーシュは黒い塊を口元まで運ぶ。だが、直前で手が止まる。手が震え、動きがぎこちなくなる。次の瞬間、その黒い塊を再び袖口へとしまい込んだ。あの最後の時、私の中にいた龍神が、自らの存在を引き換えにして残したその欠片を。


 ルーシュはゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。静かに夜空を見上げる。


 月が煌々と輝き、赤い星が燃えるように街を照らしている。銀と赤が交じり合う美しい夜。しかし、その月の影に、悪魔が潜んでいるように見えた。巨大な口は、月の光を受けて鋭い牙がナイフのように煌めいている。


 月が鼓動する。赤く踊る月は、まるで動物の内蔵のような気味の悪さと、洞窟で光るルビーの様な美しさの二面性を魅せる。


「くっ……」


 ルーシュの歯ぎしりが響く。口の中に、血のような鉄の味が広がった。


 赤い星の光が一層強くなり、次の瞬間、星が地上へ降り注いだ。赤い光は、まるでペンキが地上にこぼれ落ちたかのように広がり、じゅくりと嫌な音を立てながら地面を侵食していく。


「おー……おー……」


 遠くから、いや、気づけばすぐ近くからも、恐ろしい声が響いていた。


「また……何もできなかった……」


 ルーシュは唇を噛みしめ、血が滲む。遅すぎた。心の中で後悔が渦巻く。叫んでいれば、暴れていれば、もっと早く気づいていれば。考えれば考えるほど、答えのない後悔がクオトラの心にも流れ込んできた。


 ただ、呆然と立ち尽くすルーシュは、血の涙を流していた。これは、彼が見た地獄。どうすることもできない、未来の予知。何度も繰り返される悪夢。


「何度見ればいいんだ……」


 クオトラは、ようやくルーシュが言っていた言葉の意味を理解した。


 地上はゼリー状の何かに覆われ、空には異形が泳ぎ出していた。体中がこの光景を否定する。だが、何かが違う――今までと。


「くそ……」


 抑えきれない感情がクオトラの体を燃え上がらせる。だが、それはクオトラ自身の怒りなのか、それともルーシュの残した感情なのか。心臓が、脳が、まるで火を灯したように熱い。自分がルーシュになっていくような錯覚に陥る。


 苦しみ、悲しみ、怒りがいくつも交じり合い、どうしていいか分からない。何もできず、被害が広がっていくのをただ見つめるしかない。


 煌と、胸が燃えるような感覚に襲われ、クオトラは自分の胸元を確認した。分かっていた――この胸が燃えていたのだ。白い激しい光と、その中で揺れる赤い光が――。


 息を整え、周囲を見渡すと、無数の異形がこちらを睨んでいる。その姿は、まるでルーシュの光に引き寄せられた夏の虫のようだった。


 右手を振り下ろすたびに、異形が四散し、真っ赤な飛沫が舞った。だが、一瞬だけ。ルーシュはふと動きを止め、まるで時間が凍ったかのように立ち尽くす。そしてまた、感情のままに振るう拳が、次々と異形を引き裂いていった。


「何度でも……何度でも……!」


 ルーシュは叫び、感情を振り払うかのように腕を振り続ける。白く輝くその爪は、次第に赤く染まり、表面が焦げるように剥がれていく。それでも、彼は気にせず、ひたすらに暴れ続けた。 


 異形を引き裂いても、断ち切っても終わりは見えない。終わりなき戦いの中で、ルーシュは一人で虐殺を繰り返し、涙を流していた。


 なぜなら、その異形のほとんどは、彼がかつて関わってきた無垢な人々の成れの果てなのだから。


「なんで……なんでだ……! どうして俺はここにいるんだ……!」


 脳内を侵食する絶望が、いっそのことここで楽になれと言い聞かせてくる。だが、それを覆い隠すように、湧き上がる憤怒が、心を冷たく染め上げていく。その怒りは、静かに、しかし確実に彼の精神を支配していた。


 気づけば、腕は重くなり、体は動きを止めていた。呼吸さえ止まりかけていたのに、ルーシュはようやく自分の異変に気づいた。


「これで二度目か……はは……」


 ルーシュは懐から書物を取り出す。その表紙には、小さな宝石が二つだけ残っていた。無理やり抜き取られた痕跡が一つ。ルーシュは、そのうちの一つを震える手で抜き取り、口の中へと放り込む。


 喉を熱い液体が通り抜け、体内へと広がっていく。内臓に届いたその熱は、体中にエネルギーを巡らせ、恐ろしいほどの活力をもたらした。


 一歩。その一歩でさえ、あの月にまで届いてしまいそうな感覚に、クオトラは自分の体が震えるのを感じた。


 ルーシュが駆け出す。軽く振るった右腕は、周囲に旋風を巻き起こし、一瞬で異形たちを一掃した。


 どろどろと、何か大事なものが体の中から溶け出していく。体の表面が、人間としての概念が剥がれ落ちていく。それでも、ルーシュは止まらない。すべてを壊し尽くすまで。


「はは……ははは……」


 ルーシュの笑いは、感情のない壊れた玩具のように響いた。


 何度も、何度も。


 そして、彼はついに倒れ込む。真っ赤に染まった血溜まりの中へと。

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