第62話
「ワンッ! ワンッ!」
横で吠えている。挑発的な態度ではなく、ただただ遊びたがっている様子だ。
「もう! レト? 吠えちゃダメッ! 分かった?」
「クゥン……?」
首を小さく傾げて、小鳥遊さんの言うことにはまるで聞いていない。……というか、挑発的だ。僕には行儀よくて、小鳥遊さんにはヘラヘラしている。飼い主を舐め腐っている犬だな。
構わず僕の方に寄ってくる。
「よしよしー」
「ワンッ!」
なんとも言えないこの気持ちよさを全身を使って表現しているようだった。触っている僕の方も気持ちいい。毛もフサフサで撫で心地もとにかくいい。何より反応を見て、もっと撫でたくなってくる。
ハフハフと鼻を鳴らして、ご満足の様子。頭を撫でてみるとニコニコしているかのように目を瞑るのが、また可愛い。表現力の塊か何かだと思うが、たぶん犬にとっては普通の反応なのだろう。僕は犬を飼ったことがないから何も分からないのだけれど。
「ん?」
「むぅー……!」
「……。な、なんですか?」
「ボクの言うことは全く聞かないのに、曇くんにはベタベタしてて、ボクはご立腹中だよー! 飼い主はボクなのにぃー!」
「まあ、そうだけど。あれじゃない? この子はかなり人懐っこい性格だから、飼い主そっちのけになってるだけなのかもね」
「そうだとしてもー! そういうのは初対面の人にだけでしょー? 曇くんは前に一度会ってるしー」
あ、ああ。この子の名前はレト、か。僕と小鳥遊さんが初めて会った、あの時に一緒にいた子なのか。
「なら、僕のことを覚えてるってこと? 記憶力がいいんだね、君は」
「ワンッ!」
「あはは。可愛いなぁ」
顔に飛びつき、舐めてくる。
「むむむむぅー!」
「どうしたの? さっきからほっぺたを膨らませて。なにかご不満でも?」
「ご不満ー! すっごくご不満だよー!」
そう言うと、小鳥遊さんは僕とレトの間に割って入り、主張した。
「もうレト! 彼はボクのなのー! 独り占めしたら怒っちゃうよー!」
「えっ、ちょっ、小鳥遊さん!?」
「それと!」
「は、はい……!」
いきなり僕のところに方向転換し、ほのかに赤くなった頬を見せつけるがために、近くに寄ってきた。
「むぅー!」
「な、なに……」
「ボクもー!」
「へ?」
小鳥遊さんはまたもや主張する。どこか小さな子供のような不満を垂れ流す姿で、優しい視線のままで、主張する。
ずっと我慢をしてきたかのように、やっと達成できる目標であるかのように、それはとても自然なことであるかのように、彼女は実行した。
「ボクも……撫でてよぉ……」
レトは首を傾げていた。
****
「んふふー……。久しぶりだね、曇くんー!」
「うん、久しぶりだね」
「帰省はどうだった? なにか嫌なことがあったら、ボクになんでも言ってね? ボクは曇くんをいっぱい楽しませてあげるからー! 嫌なことなんて忘れられるくらいにねー!」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。嫌なこと、というか、もっと仲が悪くなっただけっていう感じだし」
「結構嫌なことじゃないー? それってー」
小鳥遊さんは優しかった。僕のことを思いやってくれて、僕のことを考えてくれて、本当に優しい子だ。
「いつから戻ってきたのー? 昨日ー?」
「うーん。二、三日前くらいかな? 夜中に帰ってきたから、明確には覚えてないんだけどね」
「ついこの前……。むぅー! じゃあなんで教えてくれなかったのー!」
「え? なんで?」
「教えてくれたっていいじゃーん! ボクは曇くんに会えなくて寂しかったんだぞー!」
僕の胸をポカポカと連打しつつ、頬を膨らませながら不満を垂れた。
「ならどうやって教えるのさ? 僕は小鳥遊さんの連絡先なんて知らないし……」
「これ!」
「ん? これって……」
彼女が見せつけてきたのはスマホの画面。その画面に映し出されているのは『小鳥遊不動産』という広告。
「これに連絡すればいいじゃーん!」
「えぇ!? これに連絡なんてできないよ! 用件はどう説明すればいいのさ!」
「えー? 『綾お嬢様の知人です』って言えば、多分だけど繋げてもらえると思うよ、ボクのスマホに」
「そんな用件だと門前払い確定でしょ……」
もうー、と小鳥遊さんはスマホを操作した。
「手、止まってるー! もっと撫でてー!」
「ああ、はいはい」
スイスイと進む指先。もう一度その画面を見せつけてくる。
「これならいいー? ボクの個別の連絡先を知ってたらいいんでしょー?」
「うん。まあ、そうだね」
「むぅー? 何その言い方ー。ボクの連絡先が知りたくないということなのかなー?」
「そういうわけでは……」
「正直に言ってー!」
「知りたいよ! 知りたいです!」
満足したのか、満面の笑みでスマホを渡してくれた。この連絡先をチャットアプリ内で登録しろ、という意思表示だと解釈する。
「いいよー。曇くんには教えてあげるー……」
「僕には?」
「うん……。他の男の子には教えてあげてないんだよー? 曇くんだけなんだからねー……」
「……」
そんな、そんな、言い方……。そんなの、期待しちゃうじゃないか。彼女が僕だけ特別に扱っているなんて、そんなの、そういうことじゃないか。
ああ、まずい。彼女から目が離せない。どこも見えない。彼女のみ。彼女だけ。見えるのは、彼女だけだ。
「んー? どうしたのー、曇くーん?」
名前呼び。なんで?
「なんで?」
「んー?」
「なんで、名前呼びなの?」
「あっ……」
自分でも気づいてなかったらしい。
「い、いやー……。その……。ダメ、だった……?」
「全然いいけど、なんでかなって……」
「あ、あのね……ボク、おうちで君のことを話す時、『曇くん』って呼んでるの……」
「なら、どうして学校では『オタクくん』なの?」
「ふぇっ!? だ、だって……」
恥ずかしがりながら、彼女は言った。
「他の二人に……教えたくないから……。曇くんの名前を知ってるのは……ボクだけでいたいから……」
またレトは首を傾げた。
僕は思考を停止していた。
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