真夜中に愛猫とキスを
八百十三
第1章 高次元存在との接触
第1話 残業後に
夕方を大幅に過ぎても、東京都心部のビル街には煌々と明かりがともっている。
それは夜に仕事をするような会社も勿論あるが、社員に夜遅くまでの残業を強いるような会社があるのも事実だ。
俺の勤め先、アビス株式会社もそういう会社の一つだ。大手IT企業の下請けとして仕事をするうちの会社は、兎にも角にも残業が多い。
それどころか、納期直前では徹夜も休日出勤も常態化していた。俺も大口案件の納期が間近で、昨日の朝から徹夜で働き、その上でこの真夜中までぶっ続けで働いている。寝たのなんて、今朝の3時から7時までの4時間だけだ。
よれよれになったジャケットを羽織り、パソコンをスリープさせて俺は自分の席から立ち上がる。
「お先に失礼しまーす」
もはや覇気も感動もない声で、俺はまだまだ仕事を続ける同僚や上司に挨拶をした。返ってくる挨拶も当然、全部が疲れ切っている。
と、フロアを出るタイミングでさっとこちらに手を上げる人物がいた。
「お、トソちゃん、お疲れさーん」
そう声をかけてきたのは、同僚の
ちなみになんで「トソ」なんてあだ名をつけられたかというと、俺の名前が
それにしても、彼は例外的に元気だ。今日は六反田は夜シフト、数時間前に出勤したばかりだから元気なのもうなずける。
「大変だったなー、昨日の朝から今までぶっ通しだったろ」
「ほんとだよ……リリース直前だから仕方ないにしてもな……」
苦笑しながら俺に声をかけてくる六反田に、げっそりしながら俺は返した。
本当に、納期直前はこうなるから好きではない。めまいがするほど忙しく、家に帰れないこともしばしば。社員食堂もないから食事は近隣の店で取るより他にない、結果として食費がかさむ。
もう、つらい。昨日も床で寝たから、肩やら腰やらがひどく痛い。
ぐるぐると肩を回しながら、俺は六反田に問いかけた。
「ロクちゃんは、明日の朝まで?」
「だな。まぁ言うて明日の定時、あるいは夜中までいるかもしれんけど、ははは」
俺の言葉にうなずきつつ、軽口を叩いてから六反田は笑った。この軽薄で軽い調子ながら、そのペースをいつでも崩さない彼に、俺は幾度となく救われてきた。リリース後にはよく会社の打ち上げ会とは別に、二人で乾杯をしたものだ。
ともあれ、俺もあまり長居はしていられない、というかしたくない。さっさと家に帰って夕飯を食べて、そして愛する家族に会いたいのだ。かばんを持ち直す俺に六反田が言う。
「じゃ、ゆっくり休めよ」
「ん、サンキュ」
彼に小さく笑いかけ、俺は社員証をカードリーダーに通す。居室のドアの鍵が解除されて、俺はようやく腕を伸ばした。タイムカードに社員証は通さない。どうせうちの嫌われ者、
当然、違法だ。労働基準監督署の監査の手ももちろん入っている。しかしその時は改善したように取り繕っても、すぐに元の木阿弥だ。
「はぁー……」
会社を出て、会社から歩いて徒歩10分の自宅アパートに向かいながら、俺は深くため息をついていた。
「嫌だなぁもう、ほんとに……どうしてうちの会社はこんなにもブラックなんだろう……」
もう、ぼやきが止まらない。途中のコンビニで夕食を買って、再び心の中でぼやきながら家路を急ぐ。
「(毎日毎日残業残業、徹夜も有給消滅も当たり前、振替休日なんて貰えやしない。転職したいけどな……転職活動する時間もないしな……)」
そんな事を考えながら、俺は住んでいる1Kアパートの階段を上っていった。
新卒で今の会社に入って3年目、そろそろ転職も視野に入れた方がよさそうだ、と思いながらも、転職活動をやってる時間なんて、俺には無い。
「はぁー……どうしよう、この先」
お先真っ暗、とまでは行かないかもしれないけれど、もうこの先の人生、どうやったら明るくなるのかさっぱり分からない。
ため息をつきながら、俺は自分の部屋、202号室の鍵を開けた。
「ただいまー……」
一人暮らし、返事を返してくれる家族なんているはずもない。けれど俺は、いつものように中にいる家族に向かって声をかけた。
フローリングの床を蹴る、軽快な足音がする。そして革靴を脱いだ俺の足元に、彼女はすり寄るようにやってきた。
「にゃぁん!」
「おー、わらび、いい子にしてたかー」
嬉しそうに鳴く白猫の頭を、扉の鍵をかけた俺はそっと撫でてやった。
この白猫の名前はわらび、俺の家族であり、この荒んだ生活の中での僅かな癒やしだ。半年前くらいに、このアパートの駐車場でにゃーにゃー鳴いていて、いてもたってもいられずに家に迎え入れて以来、俺の部屋で暮らしている。
賃貸で、築30年という年季の入った単身者向けアパート、壁や床で爪をとがれたりしたら大変だと思っていたが、今のところそういった様子もなく、両隣の部屋からうるさいと苦情が入ることもなく、平和に共同生活を送っている。
床にコンビニのビニール袋を置いて、俺は玄関に座り込んだ。わらびの柔らかい身体を抱き上げると、彼女はたしたしと俺の顔を前脚で触ってきた。
「にゃあ、にゃあぁ」
「あはは、もう、お前だけが俺の唯一の癒やしだよわらび、んん~……」
そう言いながら、俺は思わずわらびの顔に口を近づけた。
今までもキスはしようとしてきた。でも顔に向かってするのは今回が初めてだったりする。というか、キスをしようとするとわらびはいつも不満げに、さっさと逃げていってしまうのだ。
今日も顔を背けられるか、前脚で俺の顔を抑えてくるか、と思ったのだが。
「にゃっ!」
「んむっ」
逆に、わらびの方から顔を近づけてきた。そのまま俺の口と、わらびの口が触れ合う。
その事実に目を見開く俺だ。今までこんなことなかったのに、遂にわらびが俺とキスをしてくれたのだ。
「(ああ、遂に、遂にわらびがキスを許してくれた、今まで何度キスしようとしても拒まれたのに、どうして今日になって――)」
ここが玄関であることも忘れて、俺が喜びに浸っていたその時である。
わらびが俺の口の中に、自分の舌を突っ込んできた。
「んんっ!?」
「んん……」
突然のことに困惑するその間にも、わらびは俺の口の中を舐め回し、舌と舌を絡めてくる。ざらざらとした猫の舌が俺の口の中に当たって、若干痛い。
積極的なんてものではない。完全なディープキスだ。しかも猫との。
「(なんっ、え、なに、なにこれ!?)」
あまりにも異常な状況に、俺は目を白黒させる他なかった。
わらびの身体を押し返して顔を離そうにも、俺の肩にかかるわらびの両手には力が入っていて、簡単に引き離せそうにもない。
いや、そういう問題ではない。俺の肩にかかる力が、なんだかどんどん強くなっているような気がして。
不意に、俺はぎゅっと自分の目をつむった。その瞬間、わらびが俺の口から舌を抜き、口を離す。
「ぷはっ……」
「はぁっ、はぁっ……」
息を吐く音が聞こえる。俺も呼吸を整えながら目を開いた。そこには。
わらびの顔が、見慣れた白猫の顔がある。だが、何かがおかしい。
俺が状況を認識するより早く、わらびが女性の声色で俺に語りかけた。
「やっと、契約を結ぶことが出来ましたね、ご主人様」
「え……」
声をかけられて、俺は自分の目の前にいる存在の姿を改めて見た。
白猫の、獣人だ。すらりとした腕と身体を持ち、胸がほどよく膨らんだ、女性の獣人。それが、俺を押し倒すような形で俺を見下ろしていた。
「え、あ……!?」
現実味のない状況に、言葉が出てこない。困惑しながら俺が頭の中で整理した情報は、つまりこうだ。
俺は家の中にいて、この家には俺とわらびしかいない。先程まで俺はわらびとディープキスをしていて、この猫獣人は俺を押し倒す形で現れた。
つまり。
「……わ、わら、び?」
「はい、ご主人様のわらびですよ」
困惑しながら問いかけると、わらびと同じ顔をした獣人がにっこりと笑った。
嘘だ、ありえない。こんな生き物が現実にいるはずはない。そう判断した俺が、乾いた笑みをこぼす。
「あ、あはは……ざ、残業続きで、頭がおかしくなったかな、さすがに……いくらなんでも、わらびが人間みたいに喋りだすなんてことが」
そう言いながら、目の前の猫獣人から視線を逸らす俺だが、その俺の額を、獣人の指がとんと叩いた。爪を出していたのだろう、ちくりと額が痛む。
「そう思うお気持ちも分かりますが、ちゃんと現実ですよ、これ」
「あでっ」
その言葉と、その痛み。これが夢ではなく、幻覚でもなく、現実なのだと否応にも思い知らされる。
何がなんだか分からなくなって目を白黒させる俺から離れ、わらびがコンビニのビニール袋を持ち上げた。
「さ、夜ご飯買って来られたんでしょうご主人様。食事しながら説明して差し上げますから、ご飯にしましょう」
「えっ、あっ」
そう言われ、笑いかけられ、ようやく俺は自分が空腹であることを思い出した。その瞬間に、俺の腹の虫がくぅと鳴く。
途端に顔が熱を持つのが分かった。目の前にいるのはわらびだと分かっているのに、それがなんだか恥ずかしい。
「……そうだった」
「ふふっ」
ゆっくりと起き上がる俺に、わらびは楽しそうに笑みを返してきた。
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