18

 翌朝、齋藤は理科準備室に向かっていた。


 今日は土曜日だったが、学力トップレベルの私立に土曜日休みの制度など無い。制服のプリーツをなびかせ歩いていく。


 齋藤の胸中は、「不安」の一言に尽きた。今にも逃げ出したくなる足をなんとか踏みとどまらせているのは、今日の早朝に会議をした時の綾香と海一の妙に自信たっぷりな態度だった。





「川崎。確認するけどよ、本当にお前を信用していいんだろうな?」


 いまだ訝しむ宇津田は、綾香に先程から何度もこの問いかけをしている。


「しつっこいわねぇ。大丈夫よ」


 宇津田と齋藤からすると、綾香はその自信がどこから沸き上がるのか不思議なくらい落ち着いていて見えて、その様子が齋藤を少し安心させるのであった。


 齋藤は結局今泉が提示した期日になっても献金をせず、朝に呼び出しを受けていた。


 呼び出された時刻より一時間前の今、こうして三人は理科実験室に集っている。


「それから、今日は助っ人が居るから二人とも仲良くしてね」


 綾香が二人に向けてウインクすると同時に理科実験室の扉が開き、早朝の柔らかな光に背中を照らされた、背の高い眼鏡の少年が入ってきた。


「綾香、紹介が遅いぞ」


 その正体に宇津田は絶句するしかない。


「お前……」


 宇津田の前ではいつも気弱なキャラクターを演じ、宇津田自身も何度もちょっかいを出したことのある海一が、堂々とした姿勢でそこに立っていた。


「神無月海一だ。今回の作戦に協力させてもらう」


 淡々とそう話す彼に宇津田がたじろいで、


「お前、何のつもりなんだ?」


 と奇妙なものを見るような目をする。


「……ボランティアだ」


 海一はそのくらいしか思い浮かばなかったのか、適当に返答をして眼鏡のブリッジを押し上げる。

 きちんと背を伸ばすと海一の方が宇津田より背が高く、相変わらずの端正な顔立ちに齋藤は一瞬少し別の鼓動を感じるのだった。


 海一の変貌ぶりに驚いているのか、このキャスティングに驚いているのか。表情を強張らせたままの宇津田に綾香が一喝する。


「はいそこ、集中!」


 宇津田に向かって海一が言う。


「男だったら多少体を張ることはできるだろう。うちの綾香は腕がこの様で使い物にならない」


「ちょっと、語弊を生みかねない言い方してくれるわね」


 綾香は片腕で殴ってやろうかと思ったが、ここでチームワークの悪さを二人に見せつけている場合ではないと思いぐっとこらえた。


 宇津田は海一の発言が気になり、確認する。


「喧嘩をするのか?」


 海一は宇津田にうなずいてみせる。

 その鋭い目つきにいつものおどおどした演技の片鱗など一切うかがえなかった。


「まずは今泉の周りをガードしている不良連中を片づけないと話が進まない」


 平然と人を倒す話をしている海一に、宇津田は思わず唾を飲む。体中を妙な緊張感が駆け巡る。


「私も参加したいけどこの腕じゃ足を引っ張っちゃうかもしれないから、齋藤さんを守ることに徹するわ」


 そんなことを当たり前のように言ってのける綾香にも驚きを覚えつつ、宇津田は自分の拳を見た。正直、人などまともに殴ったことはないし、殴られたこともない。


 その不安げな顔を見た海一が、宇津田に言う。


「心配するな。素人にいきなり拳で戦えなど鬼のようなことは言わない。これを使え」


 差し出されたのはスタンガンだった。

 宇津田がスイッチを入れてみると、見たことのない光の線が弾ける。思わず体から離して叫んだ。


「なっ、何でこんなもん持ってるんだよ!?」


「護身用だ」


「護身用よ」


 海一と口を揃えて言った後、綾香も制服の下からスタンガンを取りだしてビリビリとやって見せる。


 こんな物を携帯して、一体何から身を守るつもりなんだ、巨大な熊に遭遇することでも想定しているのか。宇津田は気味悪そうに二人を交互に見つめたあと、諦めたようにスタンガンを受け入れた。


「そいつらを倒した後はどうするんですの?」


 齋藤が恐る恐る口を開く。


「その後は、終わってからのお楽しみよ」


 綾香は齋藤にウインクして見せる。


 齋藤は綾香の屈託のない笑顔を見つめながら、これまで自分が今泉に言われてやらざるを得なかった綾香へのひどい行為を思い出していた。

 きっとすぐにでも謝るべきなんだろうけれど、と思いつつ、齋藤は現状にいっぱいいっぱいで何も言えずにいた。


 それでも、綾香が自分を助けようとしてくれていることに、強い感謝と感動を覚えているのは本当だった。





 そして齋藤は、理科実験室にたどり着いた。時刻は今泉に呼び出された時間丁度くらいだった。

 恐怖から足と心は鉛のように重かったが、各所に宇津田・綾香・海一が隠れていることを知っており、それになんとか勇気付けられていた。


 そしてしばらくすると複数の足音が近づいてくるのが分かった。齋藤は扉を凝視したまま動けない。


 激しく扉が開いて自然光が入ってきたかと思うと、そこに立っていたのは栗色の髪の小柄な少女・今泉 麗だった。


「お金を入れてないなんて、上等ですわね」


 普段のあの顔を伏せがちな大人しい少女が発するとは思えない言葉に、隠れている一同は本性を分かっていても驚いてしまう。


「どうしても急げとお父様がおっしゃいますの。少々手荒な手段ですけれど、私の言うことが聞けないのでしたら痛い目に遭ってもらいますわよ」


 その言葉を皮切りに今泉の背後から現れた、凶暴さをにじませた三年の男子生徒たち。


 綾香はその顔に見覚えがあった。自分の腕をこんな状態にしてくれた張本人たちだ。

 そして海一も覚えていた、綾香を襲った男たちだと。


 恐らく今泉が金銭を与えているか退学で脅しているか、何かしらで味方につけている暴力専門の手下なんだろう。


 怯えの色を隠せない齋藤は、もつれる足で背後に下がっていく。

 それを楽しむかのように、入ってきた男子生徒三名はニタニタ笑いながら彼女を追いつめていった。


 齋藤が合図となる悲鳴を上げる。


「キャーッ!」


 まず最初に物陰から飛びだしたのは綾香。

 片腕をかばいながらも今泉にタックルして、全身を使って押さえ込む。


 男子生徒たちがその異変に気づいて隊列を崩す。今泉を押し倒した綾香の存在に気付き、背後から飛びかかろうとした所に、海一が飛び出していく。

 綾香に伸ばされそうになっていた男の手を引っつかみ、指一本すら触れさせることなくグルリと背負い投げる。更にもう一人の足を払って転ばせ、その間にもう一人を片付ける。


 海一が一気に三人の相手をしている間、齋藤はすばしっこく逃げ、理科実験室を出て外側から鍵をかけた。

 これで完全な密室のバトルロワイヤルと化した。


 海一に対し一気に三人の男が襲いかかろうとしたとき。動きの鈍くなった一人に、宇津田が背後からスタンガンで攻撃する。


 海一はそのスタンガンの二次被害に遭わないよう男子生徒からは距離を置きつつ、他の男たちにダメージを与えていく。

 それでも男子生徒たちになるべく怪我をさせぬようギリギリの加減はしていた。

 ある程度弱ったところを宇津田の方へ投げ、宇津田がスタンガンで止めをさし気絶させていく。


 相手は年上で大柄な三年生たちであったが、海一は全くひけを取らず、同等かそれ以上に戦っていた。

 自分を片腕で取り押さえた綾香以上の戦闘能力に、宇津田は必死に自分の役割をこなしながらも、彼は一体何者なんだろうと思案していた。


 一方綾香は、小柄な今泉をいとも簡単に押さえつけることに成功していた。


「ちょっと、放しなさいよ! わたくしを誰だと思っているのっ」


 わめく今泉の声は部屋に響くことなく、男たちの声によってかき消されていた。


「知っているわ。あなたは今泉麗、理事長の娘!」


 綾香は彼女に馬乗りになるようにして自分の顔をしっかりと見せつけた。


「あんたは川崎 綾香……どうして!?」


「ボランティアよ!」


 男子生徒らの咆哮も次第に消えていき、綾香は今泉の腕を片手で捻りあげ、理科実験室の中央に連れて行かせた。


 そこにはひと仕事終えて息の荒い宇津田と、何もなかったかのように涼しい顔をしている海一がおり、横には今泉が連れてきた男子生徒が無残に山になって倒れていた。


「あんたたちは、宇津田明良に神無月海一……」


 どうして、と言われる前に海一はすらすらと説明をする。


「彼は彼女を守るため、俺はボランティアだ」


 そして綾香が呼びかけたことにより室内に戻ってきた齋藤は、今泉の視線にびくつきながら宇津田のすぐ後ろに立った。宇津田はそれをかばうようにわずかに前に出る。


「真奈美……あんたが仕組んだのね! 許さない!!」


「……今泉さん、あなたバカじゃないの」


 齋藤を怯えさせる鋭い言葉に、今泉の腕を押さえつける綾香が背後から冷たくそう言い切った。


「私の腕を怪我させた。それに今だって齋藤さんを暴力で屈服させようとした。あなたの方が私は許せない」


 今泉はぐっと唇を噛んだ。


 海一はいつになくドライな態度の綾香を視線で制し、会話の主導権を握る。


「話してもらえないないか。あなたがなぜこんなことをしているのか」


 彼女の瞳は少し濡れていて、海一を見る気はなさそうだった。


 宇津田も口を開く。


「学園長の息子として言わせてもらう。今泉、お前は今とんでもないことに利用されているかもしれないんだ。知っていることを全部話してくれないか?」


 宇津田をちらりと見つめる今泉。宇津田はゴクッと唾を飲んだ。彼女の荒んだ眼差しがあまりに痛々しかったからだ。


 しばらく待っても何も喋らない今泉に、海一は少しネタをくれてやった。


「中川由紀子……彼女が関係しているんじゃないか?」


 その時初めて海一と今泉の目が合った。


「図星のようだな」


 その言葉と鋭い眼差しに再び顔を背ける今泉だったが、海一は言葉を続けた。


「この一連の献金騒動、黒幕が中川だと言ったらどうする? お前は中川のために動いていたことになるんだぞ。それでもいいのか?」


 理事長と中川の不倫を今泉が知っていると踏んでの、ほぼ賭けに近い挑発だった。


 しかしそれは的中、今泉は思いつめたような表情に変わった。


「俺たちはそれを解決したいと思っている。それにはあなたの協力が必要だ」


 海一の最後のひと押しに、扉は開いた。


 今泉は小さく、「腕を放して、逃げたりしないから」と綾香に言った。


 綾香が視線だけで海一に判断をゆだねると、海一は浅くうなずいてOKサインを送る。


 ゆっくりと体を自由にしてやると、今泉は制服の乱れを直して話し始めた。


「お節介なボランティアさんですこと。わたくしの知っていることを話せばいいんですのね?」


 今泉麗は海一を見つめ、それから綾香、宇津田、齋藤を見てから話し出した。


「中川由紀子が転任してきてから、仲の悪かったわたくしの両親の仲はもっと険悪になった……。お父様があの女と不倫していることはすぐに分かりましたわ」


 そこで宇津田が口を挟む。


「ちょっと待てよ、中川は俺の親父と再婚するんじゃないのか?」


 海一が宇津田を制する。


「それが中川由紀子のやり方なんだろう。今泉さん、続けてくれ」


 今泉も多少戸惑いの表情を浮かべながら、うながされるまま話を続けた。


「それからお父様は、特定の生徒に高額の献金させるようにわたくしに指示したんですの。どんな手段を使っても構わないから、と」


 “どんな手段でも構わない”という言葉の結果が、海一たちの横に山になって倒れていた。


「わたくしは理事長の娘として名を汚すわけにはいかないと思い、そこの齋藤 真奈美を私のかわりに悪役に仕立て上げた。表立って脅迫をするのは全部コイツの役目」


 齋藤は宇津田の制服の袖を少しつまんで、体を小さく震えさせていた。その指先にそっと宇津田の手が重ねられる。


「そこで倒れている男子生徒たちも、金や退学をちらつかせて脅迫なり何なりすれば何だって言うことを聞いたわ」


 視線をちらっと倒れた男子生徒たちに送るが、それはとても冷たいものだった。一同には彼女の大きな瞳がとても鋭く見えた。


「それも全て、お父様とお母様が仲を戻してくれるため……。わたくしがお利口に言われたことをやったらお母様とも仲良くしてくれるって、お父様がおっしゃっていたわ」


 強い口調で断言する今泉だったが、綾香がそこで口を挟んだ。


「自分勝手ねぇ!」


 その大声に一同は驚いて綾香を見つめた。今泉もその大きな瞳を見開いている。


「あなたのせいでどれだけ苦しんだ生徒、家庭があったと思っているの? 負傷した私もそう、悪役を押し付けられていた齋藤さんだってそう!」


 食ってかかる綾香を、海一は腕で軽く制した。


「やめろ、綾香。一番悪いのは彼女じゃない」


 悔しそうに目に涙をためた今泉が綾香に怒鳴り返す。


「お父様とお母様が目も合わせない家で、あなたは暮した事がありますのっ?! わたくしの気持ちも分からないで好き勝手言わないで下さるっ!」


 今泉の叫びに、綾香は思わず口を閉じた。


 綾香の死に別れた家族たちはいつも笑顔で仲が良かった。ケンカをすることだって沢山あったけれど、それを含めたって笑いの絶えない家だった。


 だけど今は、その家族も家も、もう何もない。


 任務に追われて忘れていた一年前の感傷に引き戻されて、綾香は何も言えずに居た。


 急に勢いを無くし黙り込んでしまった綾香を周囲は不思議そうに見つめていたが、海一だけはそばに寄ってそっと彼女の肩に手をかけた。


 彼を見上げると視線が重なる。会話を交わさずとも、綾香は小さくうなずいた。そして海一もうなずき返す。


「言い争いはやめよう。もっと進歩的なことを話したい」


 そして海一は今泉を見つめて言う。


「事の元凶である中川を叩く。協力してもらえるな?」


 不思議と力を持った海一の言葉に、今泉はコクンとうなずいた。


 スタンガンのせいで焦げくさい理科実験室で、ついに五人の力が集結することになった。

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