背後の小笠原は震えている。綾香は彼女をかばううように前に出た。

 頭の中では、昨日壁越しに聞いた初等部の男子生徒の震える声を思いだしていた。


 綾香はじっと、齋藤に険しい眼差しを送る。


「何ですの、その汚らしい目つき」


 齋藤はピシャリとそう言い放つ。


 綾香はもう遠慮する気などなかった。


「あなたに汚らしいなどと言われたくないですわ」


 負けじと言い返す。

 背後から小笠原が小声で「やめましょう、川崎さん! 逆らっちゃだめです」と必死にささやいている。


 齋藤の額に青筋が浮かんだように見えたのは、綾香の気のせいではなかった。

 それでも綾香は言葉を止めない。


「齋藤さん、そこの彼女をいじめているんですの?」


 綾香は強い口調で今泉について触れる。


「随分な言い方をしてくれるわね」


 齋藤は怒りで頬を痙攣させながら答える。


「いじめじゃなくって、お話しよ」


 綾香はずんずんと大股で教室の中に入り、二人の間に割って入った。勿論、今泉に己の背を向けて。


「齋藤さんの言う“お話し”なんて信じられませんわ。その高圧的な態度を自省してから、もう一度言ってみなさい!」


 綾香は言いたいことを全て言ってやった。


 小笠原の姿はもうそこにはなかった。齋藤の与える恐怖に耐えきれず逃げてしまったのだろう。


「……あなた、このあたくしに逆らう気ですの?」


「その通りで・す・わ!」


 わざとらしく強調したお嬢様言葉で、綾香は肯定した。


 言葉も返したくないくらい頭に来たのだろうか。怒鳴り返すとばかり思っていた齋藤は露にしていた怒りをふっとおさめ、教室を出て行こうとする。


「逃げる気?!」


 綾香が問いかけると、


「フン、あなたなんかに付き合ってる暇はございませんわ。今に見ておきなさい。あなたはあたくしに泣いて赦しを乞うことになるわ」


 と、不敵に笑みを浮かべて齋藤は去って行った。


 齋藤がドンッと大きな音を立てて扉を閉めたあとは静寂が続き、しばらくしてようやく綾香は振り返った。


「大丈夫?」


 そこには、綾香よりもかなり背丈の低い少女・今泉麗が立っていた。


 こうして正面からしっかり見るのは初めてだ。

 まるで人形のようにつややかな栗色の髪を胸元で切り、大きな二重の瞳は本当に愛らしい。齋藤などと比べると少し子供っぽく見えるかもしれないが、人形のような美しさを持つ少女だった。


「ありがとう、ございます」


 少し戸惑ったように頭を垂れる今泉。


「私は川崎綾香。あなたは?」


「五組の、今泉 麗、と言います」


 今泉はおずおずと、そこそこ背のある綾香を見上げるようにして自己紹介をする。さながら小動物の様だ。


「いつもこうやっていじめられているの?」


 綾香が言うと、今泉はそれを認めたくないとばかりに口をつぐんだ。


「あ、ごめんね……。失礼なこと言っちゃった」


 綾香はすまなそうに目を細める。

 今泉に目線を合わせるように腰を落とし、改めて言った。


「困ったら、何でも言って!」


 屈託のない綾香の笑顔につられたのか、今泉は少し口元に微笑みを浮かべてコクンと頷いた。


 そしてもう一度頭を下げて、今泉は走り去った。


 綾香はその小さな後ろ姿を見送ると、ふうと息をつく。ようやく齋藤に思いの丈を言い返せて、ちょっとはすっきりしたわ、といったところだろう。


 すると、今までどこにいたのか小笠原が飛び出してきて、勢いよく綾香に詰め寄った。


「川崎さんっ!!」


 今まで聞いたことのないくらいの声量と共に小笠原が顔を寄せてくるものだから、思わず綾香は目を丸くしてしまう


「な、なんですの小笠原さん」


「まずいです、謝った方がいいです、こんな風に齋藤さんに逆らうなんて無謀過ぎますっ。平穏な学校生活が送れなくなってしまいますわ!」


 血相を変えて綾香に飛びつく小笠原。

 まるで昨日耳にした男子生徒たちの脅えっぷりのようだと、綾香は思った。


 綾香は小笠原の両肩をしっかりつかんでこう口にする。


「大丈夫ですわ。わたくし、自分の正義に適わないものは怖くありませんもの」


 そして「ね?」とウインクを一つ添えると小笠原は一瞬ぽーっと見とれたような表情になるも、すぐに現実を思い出して綾香に声をあげていた。


「齋藤さんのバックに誰がついてると思ってるんですの! これから高等部までやっていかないといけないのに……絶対やめた方がいいですわ!」


 なかなか引き下がらない小笠原。綾香はそれらの言葉を適当に流してかわし、他の生徒たちが学校に来る頃には小笠原も諦めたのか静かになった。





 朝のホームルームが始まる頃には再び齋藤の姿も見え、階段状の座席には全ての生徒が着席していた。

 変わりのない、日常の風景。


 小笠原も、初等部の男子生徒も「学園生活が送れなくなってしまう、怖い」と言っていた。

 彼らが守りたいのはこの風景なのだろうか。綾香は考えていた。


 中学生になってからSSとして全国各地の中学校を転々とし、唯一ずっと一緒にいる相手といったら、仕事仲間の冷淡なポーカーフェイス男一人。


 だから綾香には、自分は普通の学校生活という感覚が麻痺しているのだろうという自覚があった。

 どれだけトラブルがあっても、ケンカになっても、時には淡い恋心を抱いても、任務が終われば転校してしまう。


 ある意味スッキリとしてはいるのだ。何をしても怖くはないと。

 しかしそこには淋しさも残る。そんな感覚は随分前に慣れて、もう無くなったとさえ思っていたが、転校をするたびに綾香はその感覚を思い出すのだった。


 小笠原や初等部の男子生徒たちが守ろうとしているのは、平穏な生活。平穏とは決して、全く何もないことではない。それでも心身の安全を心配するような状態ではないだろう。


 齋藤は人ひとりの心身の安全をそれだけ脅かせるような存在なのかと、綾香は改めて考えた。




 この今朝の一件から、齋藤は綾香への敵対心を一気にむき出しにしてきた。

 今までは睨んだり無視をしたりと、別に直接的被害はないものだったのだが。


 例えば一時間目。

 席が最後列の綾香の元まで、配布されたプリントが届かない。


 同じ列のクラスメイトの誰か、恐らく齋藤の配下の人間がプリントを一枚余分にとって知らん顔をしているのだ。

 下らないことを、と思いつつ綾香はその度階段を下り教壇へプリントを取りに行くが、決まって足をかけられる。


 しかしこのまま引っかかってあげるような綾香ではない。華麗なステップでその不躾な足を避けて行く。勿論帰りだって気を抜かない。


 次に二時間目。


 体育の授業ではバレーボールで一切綾香にボールが回ってこないという、非常に地味だが普通の女子だったら相当こたえるやり方をされた。


 けれど綾香はそんなことでめげたりしない。


 逆に声を張って、「よーし、皆よく出来てますわよー!」とまるで監督のような振る舞いを見せる。

 齋藤の派閥に完全に属しているわけではない生徒の何人かはクスクスと笑い、体育の教師は「川崎! 口はいいから体を動かせ!」と叫んでいた。

 小笠原が認めてくれたクラスの新しいムードメーカーは、こんなことではくじけなかった。


 更に三時間目、理科の授業で理科実験室に移動した。


 薬品を使った実験の際、齋藤はなかなかの強行手段に出た。

 班に分かれ、その中の一人が準備室に薬品を取りに行く役割を担う。

 綾香は別の役割で、机で実験道具の準備をしていたのだが。


 その時、細い悲鳴を聞いた。


「キャーッ!」


 綾香は背中に違和感を覚え、瞬時にベストを脱ぎすてた。するとベストの背中部分には謎の液体が広がっていて、その部分だけすっかり変色していた。


 背後から小笠原が叫ぶ。


「川崎さん、シャツに!」


 なんとシャツにまで液体が移って変色し始めているというのだ。


 齋藤一味が笑っているであろう様子が目に浮かぶようだったが、綾香は何の迷いもなくシャツのボタンを外し始める。


 周りの女子が恐怖と、シャツを脱ぐという大胆な行為に悲鳴を上げ、男子も慌てふためいていたが、その中で綾香だけが冷静で、素早くシャツを脱ぎ捨てた。

 シャツを脱いだ下には、先程の体育で着られていた体育着が着用されていた。


 さすがにそこまでは液体は付着していなかった。


「体育のあと実験だとホンット時間がないわよねぇ。あんまり汗かかなかったから、そのまま上に着ちゃったわ」


 と、綾香はおどけて見せる。


 スカートの上に体育着という珍妙な格好の綾香だったが、何故だか周りからはとてもスマートに見えていたようで、「おお~」「良かった良かった」と拍手を浴びてしまった。


「どうも~」


 と、満更でも無さそうにニコニコする綾香。


 騒ぎを聞きつけ実験室から理科教師が慌てて飛び出してきて、すぐに綾香の体の無事を確認し、その後薬剤をこぼした生徒を厳重に叱った。


 綾香はかばうでもなく責めるでもなく事態を静観していた。


 残りの授業時間は説教と薬物の危険性を説くことで終わってしまった。


 事故を装い自分に故意に薬剤をかけた生徒には、綾香は別に何の感情も抱いていない。どうせ、指示をしているのは齋藤だ。


 そんなこんなで四時間目を迎えた時。

 綾香は学校の貸し出し用のワイシャツとベストを身につけて席についていた。


 授業は数学で、前からプリントが回されてくる。

 どうせまた自分の分だけないのだろうと思っていたが、今回はしっかりと届いた。


 いぶかしんだ綾香はプリントをひらひらとさせ、何か怪しい物でもついているのではないかと確認をしたが、特別変わった細工もないようだ。


 綾香は疑うのをやめ、プリントを机に置いてみる。


 するとそこに書かれていたのは数学の問題ではなかった。

 恐らく予め書いておいたのであろう、齋藤からのメッセージがあった。


『川崎綾香

 昼休み、家庭科室に来なさい

 逃げたら殺すわよ

 人をなめるのも大概にすることね』


 “殺す”って、と苦笑をこらえながらメッセージを読みきる。

 安易に“殺す”だとか、いい加減コドモは卒業しなさいよ、と深いため息をつく。


 そしてそのため息が届いた相手は、すっかり綾香の宿敵である数学教師で、


「川崎さんっ、何をため息なんてついてらっしゃるの!」


 と睨みつけられる。


 怖い怖いと思いつつ、文面を裏返してプリントを見せて「ミスプリントみたいです、白紙でしたわ」と返した。


 数学教師は一切謝ることもなく「あらそう」と一蹴すると、欲しかったら勝手に取りに来いとばかりにそのまま授業を始めた。


 冷たいなぁと心の中で不満を言ってから綾香は教壇にプリントを取りに行く。

 その際は行きも帰りも足をかけられることはなかった。


 随分と昼休みに本気なのね、と綾香はごく小さく肩をすくめた。


 席に戻った綾香は自分の学生鞄に手を忍ばせる。指先が冷たい塊が触れる。


 海一に連絡しておくべきかしらね。


 と、画面を見ずに指先の感覚だけで携帯電話のメールを打ち出す。


『昼休み、齋藤から家庭科室に呼び出しあり』


 綾香は画面を一度も見ずに見事に文章を打ちきり、送信ボタンを押した。


 この学校では携帯電話の持ち込みは禁止されている。

 心なしか、やましい事をしている時は教師の視線が妙にこちらに注がれているように感じる。

 とはいえ、そんな規則など誰も守っていない。ほとんどが親に言われて持たされているし、教師側も黙認している。


 それにやましいなどと言い出したら、まず己の転入自体が非常にやましいのだ。

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