孤島の奇態、羽虫の合唱

神﨑らい

新婚旅行


「わあ、涼しい――」


 歓喜の声を上げ、小型船から身を乗り出すリホを覚めた目で見ていた。

 俺とリホは先月、泥沼化した不倫関係から抜け出し結婚した。いわば新婚だ。彼女との関係を何度後悔したかわからない。だから、彼女を愛しているかと問われれば、悩んだ末にNOと口にするだろう。

 俺は上機嫌にはしゃぐリホに悟られぬよう、そっと顔を背けてため息を吐いた。乗り気じゃない旅行のために、気分は暗鬱と沈んでいる。リホにどうしてもと懇願され、彼女が全て計画するならばと承諾したのだ。

 このご時世であるから海外への旅行は断念し、国内のどこかで、と新婚旅行を計画した。現在向かっている先が、リホの探し出てきたとある島だ。本土から遥か南に位置するそこは、かつてモズク産業で栄えていた島だ。裕福な島であったというのに、過疎化を止めることができず島民は移住してしまい、長らく無人島となっている。ほとんど人の手の加わらない現在、国内の秘境と呼べる程の自然豊かな美しい場所だ。時折、元の住人が保護、管理の為に訪れているらしいが、それでもほぼ手付かずで放置されている。

 アウトドア好きでアクティブなリホは、旅館やホテル、観光地を嫌がった俺に、それならば――と、無人島でのキャンプなら問題ないだろうと言い、この島を見つけ出してきた。俺の旅行へ行きたくない言い訳を、簡単に封じてきたのだ。彼女は早々にキャンプの許可を取り、送迎のボートまでをも手配して今に至る。


 ボートの操縦士に迎えは十日後と約束し、大量のキャンプ道具を担いで島に上陸した。これからキャンプと言う名のサバイバルが始まる。俺は楽しみなど皆無で、不安と憂鬱さにげんなりと下を向いた。

 まあ、ここまで来たのだから――俺は腹をくくる。アウトドアを好む俺は、もちろんキャンプは大好物だ。前日までの疲弊した精神と、共に過ごす彼女のことさえ無視できれば、きっと楽しめるはずなのだ。

 入念にテントを張り、黙々と薪を集めて火を起こし、持参した食料で夕食を仕込む。段々と楽しくなってきた。翌日からは現地で調達した魚や野草なども加え、快適な生活を過ごすこと三日。湧水も空気も最高に旨い。天気にも恵まれ、どんどんと楽しい時間が過ぎて行く。

 そんな日の晩、リホが熱に浮かされた。風邪かと思ったが、全身に発疹ができそれが膿始めた。なんらかの病原菌、もしくは口にした野草や魚から毒をもらったのかもしれない。不安で仕方なかったが、俺にはどうすることもできない。迎えは六日後だし、助けを呼ぼうにも電波がない。泳いで本土や近隣の島へ行けるわけもなかった。

 とにかく可能な限りの看病をした。持参した抗生物質なんかも試したが、一向にリホの容態は回復しない。ニキビのような発疹が全身を覆い、潰れて爛れ始めた。裂けた皮膚から黄色い膿が垂れ、ジュクジュクに糜爛した肌には血や透明な体液が滲み、濁った黄色の膿が湧き、腐ったような悪臭を放っていた。

 俺はその傷口を丁寧に洗い、手持ちの軟膏を塗り清潔な布を巻いて傷を覆う。病状は酷くなる一方で、日に日に膿んで爛れる範囲が広がっていった。逃げたい。狂いたい。見捨ててしまいたい。俺は恐怖と不安に困惑し、本当に狂いそうになっていた。

「ああ――、あ゙あ゙――」

 二日半ぶりにリホが口を開いた。呻くばかりでまともな言葉はないが、心拍や呼吸以外で生きていることを確認できて、わずかにだがほっとする。ただ、剥き出された眼球はグラグラと揺れ動き、真っ赤に充血して焦点が定まらない。それでも彼女が目覚めたことに、俺は安堵し胸を撫でおろした。

「大丈夫か? 汗をかいたから水を飲んどこうか」

 そう言ってリホの背を支え、口許に水の入ったカップを寄せた。リホの口が開かれ水を飲むかと思いきや、勢いよくカップが弾かれる。カップと水が宙を舞い、リホの手に叩かれたのだと気付いたときには、ぎゃあと悲鳴を上げて彼女はのたうち始めた。リホは頭を抱え、陸に上がった魚のように狂い跳ねている。

「頭がっ! ガリガリ言う! 頭の中がガリガリ言ってる――!」

 リホは奇声を上げ悶える。涙や汗、唾液に加え鼻血が物凄い勢いで流れ出ていた。

「暴れるな! リホ、頼むから! 大人しくしてくれよ、リホ!」

 情けないことに俺もパニックになり、リホの両手を掴んで泣き叫んだ。どうしていいかわからないし、彼女が今にも死んでしまいそうで、堪らない恐怖が押し寄せる。とにかく無意識のうちに彼女を押さえ付けていた。

 リホの両手首を掴む手のひらが、妙に熱くぬるぬるした。無力さのあまり呵責の念に圧し潰されてしまいそうだ。俺は嗚咽を漏らし咽びなく。リホの両手首の皮膚が、ズル剥けていた。弱くなっていた肌を強く握ったせいで、ふやけた表皮を剥いでしまったのだ。

「ひいいっ――!」

 嘆かわしいにも程がある――俺は情けない悲鳴を上げ、リホから飛び退き尻餅をついた。リホの皮膚を手にしたままガタガタ震え、失禁して子供のように泣きわめいた。

 その間にもリホの皮膚は手首の糜爛を羽切に、ずるずると剥け広がっていく。とろけるように皮膚が剥げ落ち、赤い肉質が露になった。筋膜が震える度に体液が染み出し、辺りをぐちゃぐちゃに濡らしていく。

 血に混じって膿も垂れ流れ、それは卵や肉を腐らせた、生ゴミや吐瀉物のような臭いを放ち、俺は堪えられず嘔吐した。

「り、リホお――、お願いだよ、頼むからあ――元に戻ってくれえ――! リホお、リホお!」

 唾液と吐瀉物を吐き飛ばし、俺は狂い泣き叫んだ。リホを呼んでは嘔吐し、嘔吐が治まればリホを呼んで泣き喚く。握り締めた彼女の皮膚が、手の中でぐちゅぐちゅ鳴いた。

「へあっ? な、なんだ――?」

 膝どころか脚の付け根から下がガタガタ震えた。怖い――怖いのだ。彼女の姿が堪らなく恐ろしく、奇妙に、気色悪い物体として目に映る。

 彼女の筋膜の隙間に、ビッシリと蛆がこちらに顔を向けて蠢いていた。彼女の分泌液をまとってぬちゃぬちゃと糸を引いている。顔の表皮を糜爛させてねちゃりと剥ぎ落とし、その下の筋肉や筋の隙間に、蛆たちがおびただしく犇めき蠢いている。額に頬に唇に、眼球を溶解させ垂れ落とし、その代わりと言わんばかりに、狭い空間に蠢き悶えている。

「うわああああああっ――! ぐああああ! ぶわああああああああああああ――!」

 俺はイカれたように吠え続けた。息の続く限り悲鳴を上げ、大きく息を吸い、再び絶叫した。そうするしかなかった。叫び続けるしかできなかったのだ。

 狂えば楽だろうが、案外正気でいられるもので、都合よく狂えやしない。だから、狂ったように叫ぶ必要があった。

 感電でもしているように痙攣し、俺に顔を向けて失神しているリホがおぞまし過ぎるのだ。首も腕や脚だけに留まらず、垂れ出た舌にまで蛆が犇めいている。見ていられないが目を逸らすこともできないでいた。

 苦し気なリホの呻きが聞こえる度に、ひいっと悲鳴を吸い込む。自身の体液とリホの体液と吐瀉物にまみれた俺は、肩を抱き震えて泣いた。情けなくも、助けを求めて元妻の名前にすがり付いた。

「チカコお、助けてくれ――。助けてよお、俺が悪かった、俺が悪かった、俺がチカコを傷付けた。反省してるから、頼むから助けてくれ――。俺はチカコのところに帰りたいよお――」

 咽び泣く俺の耳に、リホの呻き以外の奇妙な音が聞こえた。羽虫が一斉に羽ばたいているような音だ。どこからだ、と辺りを見回すが音の出所がわからない。テントの中で音が反響し、テント自体が唸っているように羽音が響く。

 俺は音の正体を視界に捉え、わあっと仰け反った。ずる剥けたリホの皮膚の下。筋膜やら筋やらを押し退け、ずるずると見たこともない奇妙な羽虫が大量に湧いてきた。先の蛆たちが一斉に羽化したらしい。こんな異常事態があるものか。

 脚や腕やら胸や首、顔の肉の隙間や眼球を押し退けても、グチュグチュと奇怪な音を奏で、リホの体躯から這いずり出てくる。そして、彼女の肉の表面で留まり羽を広げた。

 ビニール袋を唇に挟み、勢いよく息を吐いて震わせた時のような羽音が、一斉に鳴り出す。幾百、幾千の羽音が共鳴し合い、俺の蝸牛神経を、脳をざわつかせる。肉塊同然だったリホは全身に羽虫を纏い、真っ黒になって振動していた。

「おえれろれろおろろっ――――!」

 あまりのおぞましさに、俺は幾度目かの嘔吐をする。膝元にびちゃびちゃと落ちた吐瀉物には、大量の蛆が蠢いていた。

 

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