赤きつねと緑の記憶
アイク杣人
第1話 赤いきつねと緑の記憶
「3番テーブルさん、かき揚丼2つ上がります!」
勤務終了時間も過ぎ、残業を依頼されてしばらく経つ。私は壁にかかった古びた時計を見つつ、心ここにあらずでホールの人に配膳をお願いした。
「
ホール担当の女子大生、あかりちゃんが驚いて私を見た。私は彼女が持ってる丼を確認すると慌ててタレを丼にかける。
「あっ、ゴメンなさい。よろしくお願いね」
「オッケー!大丈夫ですよ!」
あかりちゃんは軽くウインクしてお客さんの元へ向かい、私もそれに笑顔で返した。もう一度時計を見るとすでに18時を過ぎている。連休だからかお昼のお客さんが多く、終わりが見えないままこの時間になってしまったが、オーダーが少し収まってきたので今のうちに更衣室で着替えることにした。
3年前に旦那が事故で死んでから、地方のチェーン店であるこの「丼飯ファクトリー」で働き始め、なんとか厨房のリーダー的な立場まで昇格してもらったが、時給は相変わらず安くて余裕のある家計には程遠い日々を送っている。
(こんな失敗をしてるようじゃまだまだか……)
私は自省しつつも18時からのシフトの人に挨拶をし、あかりちゃんに手を振ってからタイムカードを打った。
店からちょっと歩いたところにあるバス停で、今日のことを思い出しつつ時計を見る。本来ならば今日は16時に終わっていたはずなのだが、アルバイトの子が急病でシフトに入れなくなり、仕方なく私が残業する形になったのだ。
「また、晩御飯作れなかったなぁ……」
私はそう独り言ちつつ郊外行きのバスに乗り、20分ほどで自宅の最寄りに着いた。バスを降りアパートへ向かう道すがら、周りの家からは夕餉の匂いが否応なしに漂ってきている。
「今日も遅くなっちゃったけど、
今年、8歳になる雅彦と3つ下の恵美子。私の宝。
旦那に似たのか知れないけど、雅彦が歳の割にしっかりしているのが救いであった。妹の恵美子の世話もきちんと見てくれている。
私はアパートの階段を駆け足で登り、カギを一度落としてから慌てて扉を開けた。
「ただいまー……雅彦!まーくん、良い子にしてた?」
「あっ、ママ!おかえりなさーい」
雅彦がその手にお気に入りの本を持ちつつ、リビングから走ってお迎えにきてくれた。私は軽く抱擁しつつ雅彦に問いかける。
「恵美子はどうしてる?」
「えみちゃんはさっきまで絵本を読んでたけど今は寝てるよ」
まだあの子が愚図ってないだけでも助かった。そして私は雅彦の肩を持って言い聞かせる。
「ゴメンね、まーくん。今日は遅くなって晩御飯を作れそうにないの。だから……お湯を沸かしてくれるかしら」
すると雅彦はその意味を察したかのように口を尖らせて不服そうに言った。
「えー、また『赤いきつね』なの?」
「そんなこと言わないの。みんなで食べる『赤いきつね』は美味しいでしょ。明日はきっとママが作るからね」
まだ旦那が生きていた頃、『赤いきつね』の頻度は今ほど多くなかった。たまに外出して疲れた時など、晩御飯の用意がめんどくさくなって食べるくらいで、その時は旦那が『赤いきつね』に一工夫して作ってくれていたものだ。
その一工夫してくれる人もいない今、私たちは『赤いきつね』を何も入れずに普通に作って普通に食べた。
その後、なんだかんだで満足した二人をお風呂に入れていると、ちょっとウトウトしてしまい、雅彦から「ママー、お風呂で寝たら伸びちゃうんだよー」などと言われてしまう。以前、旦那がうどんに例えて子供たちに言っていたのを思い出し口が緩んだ。どうやら自分でも気づかないところで疲れているらしい。
翌日、二人を小学校と幼稚園に送り、掃除・洗濯などの家事を一通り終えた後にパートへ向かう。制服に着替えて厨房に出ると、あかりちゃんが手招きしていた。
「どうしたの?」
「いや、なんか今月は売り上げ悪くて店長が機嫌悪いんですよ。なんつーか、いろいろ言われてこっちの方が機嫌悪くなりそう。根津木さんも何か言われるかもしれないけど、あまり気にしないでくださいね」
彼女はそのかわいい頬を膨らませて愚痴をこぼしている。
「まあ、仕方ないわよ。みんな生活がかかってるんだから機嫌くらいは悪くなることもあるわ。とは言え、私たちに当たらないで欲しいよね」
「ですよねぇ!」
彼女との他愛無い話が準備運動になり私はそのまま作業に入る。すでに注文伝票はかなりの数が並んでいた。
結局また16時上がりのはずが17時半まで残業することになった。それでもなんとか落ち着いたのでタイムカードを打ち、着替えようとしたときに店長に呼ばれる。
あかりちゃんに言われたこともあって行くのは怖かったが、さすがに断るワケにもいかない。彼女は大学のテスト中ということでちょっと早めに上がっていた。
「根津木さんさぁ、最近ミスが多いよ。忙しいのは分かるけど、そこはリーダーでしょ?知恵と工夫だよ」
個人的にはミスの割合は以前とさほど変わってないように思うが、注文が多くなって忙しいこともあり目立ってしまうのだろう。
「は、はい。最近は急に注文が増えることもあって……」
「そこでバイトたちを引っ張っていくためのリーダーなんだよ。現にバイトからも君に対する意見が出ている」
「えっ……」
「
私も良い歳なのでそれなりにいろいろ経験してきたが、今回のこの言葉はかなり心に響いた。もちろん悪い意味で。
「あかりちゃんが……」
「いや、口外しないという約束だったんだが、やはり店舗のレベルを向上するという観点からも君に伝えた方が良いと思ってね。そもそも、厨房を回すというのは作る技術だけではなくて……」
後半の話の内容はほとんど覚えてない。「そんなことありません!」と言えたらどれだけ良かっただろうか。私は適当にうなずきながら同意し、何も考えられずに今後気を付けますという無難な返事をして店を出た。
疲労とショック。さらに、しっかりしなきゃ!という焦燥感が身体中を駆け巡っているが、身体はそれに全く反応せずただ帰り道をトボトボと歩いているだけだった。
「晩御飯……」
今日こそ作ると言ったのに……
肩にかけたバッグの紐を握りしめてアパートの階段を上り、緩慢な動作で部屋のカギを開ける。噛みしめていた唇が痛むのをこらえて雅彦を呼んだ。
「まーくん、良い子にしてた?……ゴメンね、ママ、今日も……」
「あっ、ママおかえり!」
「おかえりー!」
恵美子の声も一緒に聞こえるが居間から出てくる様子はない。私は若干イラつきながらも靴を脱いで居間へ入って行った。
「もう、何なの、まさひ……」
「ママ!これ!」
居間におとなしく座って私を見る瞳。テーブルの上を見ると、2人が作ったと思われる『赤いきつね』が3つ。
しかも、その中にはワカメのトッピング……そう、旦那が在りし日に一工夫してくれていた、ワカメトッピングの『赤いきつね』が用意されていたのだった。それを見て呆然としている私に雅彦は当たり前のように言った。
「ママ、ずっと疲れてたよね。みんなで『赤いきつね』食べようよ。昔、パパとこれ食べたもん」
その『赤いきつね』は明らかに作ってから時間が経っており、湯気も見えず麺も伸びているようだった。しかし、2人はいつ帰って来るか分からない私にわざわざワカメトッピングの『赤いきつね』を作ってくれていた。
雅彦の屈託のない笑顔、恵美子の良く分かってなくて眠たそうな顔、そしてワカメを入れたくらいで偉そうにしていた旦那のドヤ顔が頭の中を駆け巡る。様々な感情が入り乱れ、どんな反応をして良いのか混乱しつつも涙は溢れて来る。そして私は二人を抱きしめながら笑顔で言った。
「まーくん、お父さんの『赤いきつね』覚えてたのね……」
「か、えっ!? 母さん? なっ、なに……」
俺――根津木雅彦は、突然発せられたその言葉が理解できず、頭に置かれた母の手に困惑する。俺はただワカメトッピングの『赤いきつね』を食べさせただけなのに。
「あ、え、恵美子、恵美子!ちょっとこっち来いよ!何してるんだよ!」
「うるさいわねぇ、ここは一応、医療施設なのよ。こっちは旦那に連絡が付かずにイライラしてるのに」
彼女はスマホをいじりながら不機嫌そうに部屋に入ってくる。
「あら、えみちゃんも来てたのね。またまーくんと喧嘩してるの?」
彼女は柔らかく笑う母に驚き、手に持ったスマホを落として震えながら言った。
「あ……お、お母さん?お母さんなの?わ、私が解るの?」
「何を言ってるの?……それより、まーくん、ありがとう。お父さんの『赤いきつね』、ホントに久しぶりだわ」
母が認知症になって3年。最初はまだ症状も軽くたまに記憶が抜ける程度だったのだが、ここ1年ほどは担当医だけでなく俺たちの顔すら分からなくなっていた。
今回はたまたまコンビニで『赤いきつね』を見かけて、以前の微かな記憶から親父のワカメトッピングをなんとなく作ってみただけで、まさかこんなことになるとは思ってもいない。
「味覚や嗅覚などで症状が緩和することは良くありますが、ここまで症状が良くなったのはあまり見たことがありませんね。よほど嬉しい記憶があるのでしょう」
担当医はこういって母の回復を喜んでくれて、その半年後には自宅に戻れることになった。
それ以降『赤いきつね』は家族で食べることが増え、すでにワカメは我が家に必須の食材である。
最近は息子の雅人もお気に入りで、作り方も覚えたらしく「とーさん、緑の!緑の!」と言ってワカメを要求してくるようになった。
「おばあちゃんに緑のを入れた『赤いきつね』食べてもらう!」
(完)
赤きつねと緑の記憶 アイク杣人 @ikesomahito
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