第17話
私の姉の話をしよう。
五つ年上の私の姉はとても優秀な人だった。
頭が良く、優しく、綺麗な人だった。だから姉はお母さんの自慢の娘だった。
母から求められるもの全てに答えられる人だった。
品行方正で成績優秀。優等生の鏡。成績はいつも一番で、妹にも優しい完璧な姉だった。
母が望む学校に進み、母が望む品行方正な性格であり、母が望む成績を保ち続けた。
それは歪んだ在り方だったのだと、今なら分かる。
私は姉が友達といるところを見たことがない。けれど物心つく頃には母も姉もそうであったから、歪んでいない彼女たちを私は知らないのだ。
母は姉にばかり期待をかけていた。最初からそうだったから、自分には向けられない期待に対して寂しさを感じることはなかった。……もしも私がもっともっと子どもであれたら反発したりしたのだろうか。けれどそうするには私は中途半端に物分かりが良くて、私と姉の間にある差は圧倒的だった。
弁明するならば私の成績が特別悪かったわけではない、姉が飛びぬけて優秀だったのだ。
姉との差を私は理解していた。劣等感すら抱けないほどに。
母の自慢で私の自慢だった姉。それなのに優秀な姉は今はもうここにいない。
姉は、自我を持った。
突然だった。なんの予兆もなく姉はお母さんの言いなりになるのを止めた。
どんなきっかけがあったのかとか、詳しいことは何も知らない。私はお姉ちゃんのことを何も知らなかった。
何が好きで何が嫌いなのかも知らない。
お母さんのことをどう思っていたのか、私のことをどう思っていたのか。何も知らなかった。
その日は姉の高校の二学期の期末テスト一日目だった。天気が悪く、窓の向こうには曇り空が広がっていた。朝のニュースで夕方に小雨が降るかもしれないから折り畳み傘を持っていくことをお天気キャスターが口にしていた。
慌ただしく朝の準備をしながらいつも通り母は姉に「お姉ちゃんは当然、今回も一位取れるわよね」と聞いた。
問いかける様子を横目に、冷たい内臓を温めるように飲み込んだスープの熱さを私はまだ覚えている。
多分これからも忘れることは出来ない。
ずっと。いつまでも。どれだけ時間がたっても。
「……うるさい」
聞いたことのない這うような姉の声が聞こえた。絞り出すような声だった。それは徐々に膨らんでいって――弾けた。
「うるっさいのよ! いつも、いつも! 本当は私に興味なんて無いくせに! 自分の言いなりになる人形がほしいだけでしょ! ……私は! あなたの持ち物じゃない!」
「……え?」
お母さんは何が起きているのか分からないようだった。理解するのを脳が拒否していたのかもしれない。だってこれまでずっと姉は母の理想を体現していたのだから。
姉が声を荒げる姿を私はあの日初めて見た。
一方的に姉は母への不満を並べ立てた。母は表情を硬直させたまま口を挟むことも出来ずにただ姉を凝視している。
私は母が動揺して倒したカップからこぼれたコーヒーが、ダイニングテーブルから床へと伝い落ちていく様をただ見ていた。
それからの毎日は、ひどく息苦しいものだった。
見たく、なくて、顔をそむけてばかりだったから、あの頃の母の様子も姉の様子も、詳細には覚えていない。
ただ、ひたすらに息苦しい日々だった。
姉の心が決壊したのは、彼女が高校二年生の冬だった。
これまでの、大人からしたら短いけれど私にとっては全ての人生の中で、あんなにも世の中を彩る電飾が薄暗く見えた年はなかった。
夜に聞こえてくる、母と姉が言い争う声に耳を塞いだ。
二人の争う声が聞こえてくる度に私は部屋に駆け込んだ。
家にいるのが嫌になったのか姉まで帰ってくるのが遅くなり、――母は昔も仕事が忙しいと帰ってくるのは深夜頃だった――私は毎日のように一人で食事するようになった。
母は日に日に疲れていった。ただでさえ仕事が忙しいのに、予想もしていなかった姉の反抗に相当堪えたのだろう。
何度も何度も母は説得を試みていたが、姉の意志が固いと知ると、母もまた家に帰ってくるのが遅いばかりか、帰宅もしない日が増えた。
ねんまつちょうせいで大変なのだと私は母が電話で話しているのを聞いた。
母も姉も帰りの遅い家で私は、二人が帰ってくるのを待っていた。
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