死霊の街にて
@Unaf
死霊の街にて
美しかったであろう中世ヨーロッパ風の街並みはすっかり時代の影にのまれ、今やアンデッドが闊歩する死者の街と化した場所に、激しい戦闘音が響き渡る。曇天の空の下、廃れた街の入り口にてぶつかりあう、巨大なドラゴンと一つの影。
ドラゴンは一戸建ての家をゆうに凌ぐ大きさを誇っていた。その全ての光を弾くような純白の鱗に包まれた右半身は、神聖さすら感じさせる美しさを放っている。鋭いまなざしにずらりと牙が並ぶアギト。頑丈な骨格にぶ厚い膜が張ったような翼をはためかせ、短い右手と強靭な右脚の先には、なんでも切り裂けそうなほどに尖っている爪を備えている。筋肉のみでできた長い尻尾は、軽く薙ぎ払うだけでほとんどの生物を沈黙させてしまうだろう。しかし、それは右半身に限っての特徴である。
左半身はある種の美しさを放ってはいるが、おぞましいという言葉の方がしっくりくるのは間違いなかった。なにせ、皮も肉もない、骨のみの体なのだから。右半身との分かれ目は突然で、そのギャップがより恐ろしさを増している。
そんな異形のものと対峙するのは、錆びた全身鎧に身を包んだ大柄な男。右手には光り輝く、彼の背丈ほどもある長剣を携えている。彼の右薬指には指輪がはめられていたが、今は指輪というより、ただの鉛色のわっかというべきものだ。彼はドラゴンの猛攻を寸でのところで躱しつつ、ときおり右手に持った聖剣で反撃に出ていた。
互角の戦いが続く。そこで、このままでは埒が明かないと感じた男は聖剣の切っ先をドラゴンへ向けた。一瞬にして剣先から一筋の光がドラゴンへと伸びる。
光線はドラゴンの胸部に直撃するも、弾かれて四散した。ドラゴンはなんの痛痒も感じた様子がない。彼は戸惑った。聖剣の力は悪を滅するためだけの力。それが効かないということは、ドラゴンは悪ではないということを示す。それに加えてなぜか聖剣を握っていた右腕が痛んだからだ。
「なぜ俺を襲う!」
心からの疑問だった。もしドラゴンが悪の存在であれば戯れに攻撃してきたということもありえる。しかし、悪の存在でないにも関わらず、知能の高いはずのドラゴンが無暗に人を襲うことなどない。そうであれば攻撃される理由があるのかとも思ったが、彼にはまったく心当たりがなかった。それも当たり前ではあるのだが。
彼には記憶がない。目覚めたらどこかも分からない忘れ去られた街で倒れていたのだ。とりあえず人のいないこの街から出て生者がいる場所を目指そう。そう考えて街の出口にきたとき、ドラゴンに襲い掛かられて今に至った。
「知性があるのか……。哀れなものだ。せめて苦痛なく天に送ってやろう」
どこから出しているのかは分からないが、静かでいて真実を物語っているかのような声でドラゴンは呟く。彼は恐怖した。ドラゴンが彼を本気で殺そうとしていると理解して。
彼は背を向け、街中の方に向かって全力で駆けだす。剣と爪を交えたときから、決して勝てない相手ではないことは分かっていた。それでも、死にたくない。死ぬ可能性のあることをするのは絶対に嫌だ。そんな強い思いが彼にその選択を選ばせたのだ。
憐憫がこもったまなざしで彼を見つめながら、ドラゴンはその背に向けて聖なる魔法を放った。その魔法――白い炎を纏った鳥が、圧倒的な速度で彼に迫っていく。そしてとうとう着弾し、眩い閃光が辺りを覆いつくした。視界が晴れたあと、もうすでに彼はそこにいなかった。
瓦礫が散乱している細い道。そこでさきほどドラゴンと戦っていた騎士風の男と、古びたローブを羽織った小柄な少女が歩いていた。
「助かった。感謝する」
男は隣にいる少女に礼を述べる。彼が助かったのは、ドラゴンが放った聖魔法を少女の魔法――紫色の障壁が数瞬だけ防いでくれたおかげだった。そのわずかな間に、彼女に手を引かれてこの裏道に連れこまれたのだ。
「……はい」
「それで、お前も記憶がないのか?」
少女は俯いたまま小さく頷いた。フードの下に恐怖と不安が入り混じった顔を隠していたが、それは男も同様だった。記憶という人生の道しるべをなくし、いきなり死臭漂う壊れた城下町に投げだされたのだ。それも当然のことだろう。
「そうか、名前――いや、なんでもない」
男は名前を聞こうとしたが、覚えているはずがないという事実に気がつき言い淀んだ。
「……ミル。たぶん、ですけど」
「なぜ分かる?」
「ローブに書いてあったんです」
男は己の至らなさに落胆しながら、身に着けているものになにか自分の情報がないかを探した。だが、見つからない。鎧は傷が多く、おそらく名前が書いてあったところは削れてしまったのだろう。少しでも自分という存在を知りたかった彼は、肩を落とした。
「大丈夫。きっといつか、思いだせます」
「……すまない。ではとりあえずナイト、とでも呼んでくれ」
男は自分がなぜナイトというキザな名前で呼んでくれと言ったのかが分からなかった。不思議と頭に浮かび、しっくりきたのがその名前だったのだ。
「ナイト、ですね。分かりました」
「ああ、それと今後の行動についてだが、街中を探索してみないか? もしかすると俺たち以外にも同じ境遇の者たちがいるかもしれない」
「そうですね。でも今日はもう休みませんか?」
その言葉にナイトは頷く。彼はどうしてか体の疲れは感じていなかったが、精神的に困憊していた。ミルもかなりやつれた顔をしていて、とにかく彼らには休養が必要だった。
常に雲に覆われている空はさらに暗みを増し、唯一の光がミルの魔法になったころ、ようやく二人は仮の拠点を見つけた。それは白い塗装がところどころ残っている灰色の建物で、とても小さな城のようだった。屋根の天辺には片腕が折れた羽の付いている人の像。おそらく天使なのだろうが、苔に浸食されていて美しさは欠片も感じられない。それらの特徴から、教会なのではないかと二人は結論づけた。
ナイトは両開きの扉に手をかけ、おそるおそる中を確認しながら開けた。内装は二人が思っていたよりはましだったが、やはり苔が蔓延っている。二列に並べられた十脚の長椅子の先に教壇のようなものがあり、その上には一冊の分厚い本が置かれていた。教団のさらに後ろには無惨に破壊された神様の像の残骸。祟りがありそうで怖くなった二人は、思わず両手を合わせて祈りを捧げた。
「俺は寝る。明日のことはまた明日考えればいい」
「了解です。あの、隣で寝ても良いですか? 少し怖いので」
「構わない」
二人は教会の端で肩を寄せ合いながら目を閉じた。しかし、いつまでたっても夢の世界に行くことができず延々と続くかと思えるほどに長い夜が続いていく。互いに相手が起きていることに気づいていたが、寝れていないということを隠すため、話しかけることはなかった。
朝日も拝めない悲しき街。小鳥のさえずりの代わりにスケルトンの骨を鳴らす音が響き渡る。
「なにもないな」
結局最後まで眠れず朝早くから行動し始めたナイトとミル。眠れなかったからといって意味がなかったわけではなく、目を閉じて落ち着く時間が取れたことで二人の精神はかなり回復していた。
「……はい」
どんなに歩き回っても、あるのは同じような廃屋ばかり。せっかく余裕を取り戻した二人の心は、早くも疲れ始めていた。
「期待は捨てるか」
様相は変わっても本質的には何の代わり映えもしない景色にナイトは飽き飽きしていた。ミルがいたのだからまだ他にも生者がいるかもしれないという淡い願望を抱いていたが、探索を初めてはや二時間が経過し、そんなものは粉々に砕け散った。
「アンデッドならたくさんいるんですけどね」
動く白骨死体であるスケルトンに、悪臭を撒き散らす腐肉を纏ったゾンビたち。さらにはスケルトンの上位種であるスケルトン・アーチャーやソードマンなども徘徊している。なぜか二人に襲い掛かってはこないが不気味であることには変わりなく、心を擦り減らす一因となっていた。
「……分からないな」
ナイトが思わず溢したその言葉には、何重もの意味が込められていた。
「なにが、ですか?」
ミルの問いの答えが、ナイトには思い浮かばなかった。強いて言うなら、すべてだ。自分のこと、この街のこと、ドラゴンのこと、少女のこと。な何一つ分かっていないことだけをナイトは理解していた。だが、すべてではミルの答えとして不適当と考えたナイトは、たった今できた新たな疑問――分からないという言葉を漏らしてしまった理由をそのまま口にする。
「俺はなぜアンデッドに情を覚えているのか、だ」
ナイトの知識には、アンデッドは憎むべき敵であり滅ぼすことが正義とあった。しかし、今は不気味とは思うものの敵だとは思えない。それどころか普通の日常を過ごしているかのような彼らを見ていると、ナイトの心の片隅に原因不明の罪悪感が湧きでてくるのだ。
「……奇遇、ですね。私もです」
情を覚えているのは同様だったが、ミルの感情はナイトとは少し違っていた。ミルにはアンデッドたちが仲間のように思えて、彼らを見ていると謎の感謝が浮かんでくるのだ。
二人はしばらくの間立ち止まって、流れゆくアンデッドの日常をぼんやりと眺めていた。
「寂しいものだな」
埃を被って薄汚れた赤色のカーペットの上を二人は歩いていた。右側には大きな中庭があり、綺麗な人工芝が広がっている。その中央には崩れてはいるものの、水を垂れ流し続けている、どこか幻想的な噴水があった。中庭と二人がいる通路の間には何本もの錆びた大理石の柱が天井を支えている。そのうちの何本かは折れて、真ん中の部分だけが通路を塞ぐように転がっていた。左側にあるのは、今はもう薄汚れてしまっている白を基調とした金色が散りばめられた壁。三メートル置きに劣化と損傷が激しい絵画が飾られていて、物悲しい雰囲気が漂っていた。
「でも、綺麗ですね。この場所」
「当たり前だ――」
権力の象徴だからな。そんな言葉をナイトは呑み込んだ。もうなにもなくなってしまったというのに、美しさだけが残っているというのは虚しいものだ。その美しさも光が差すことのない街では本来の輝きを発することができない。彼のなかで寂しさが膨らんでいく。それが分かった彼は、今いる場所――風化した城が自分と関係のある場所なのだと察した。記憶を思いだすことはなかったが。
そこはさきほどの中庭と同じ城内にあるとは思えない無骨な場所だった。石の階段のような観客席に囲われた大きな広場。硬そうな地面はひび割れ、平らではなくなってしまっている。そしてもとから美しさなどなかったがゆえに、その様相はナイトの知識の中にあるものとほとんど一致していた。
「ここは?」
城というものに華やかなイメージしか持ったことがなかったミルは首を傾げる。
「訓練場、騎士が鍛錬に励む場所だ」
ナイトはぼんやりと虚空を見つめていた。ミルには彼がなにを感じて、なにを考えているのかが分かった。自分も街を歩いていた時、今のナイトと全く同一の行動を無意識のうちにとってしまっていたことがあったからだ。そのときミルが感じていたのは、どこからともなく湧いて出てきた喪失感。そして、自らの大切なものは失われてしまったのだろうか、ということを考えていた。記憶がない以上、考えたとしてもその問いに答えが出ることはありえない。それでも、考えずにはいられなかった。
「少しだけ、時間をくれないか?」
ナイトの表情には暗い影が差していた。
「いくらでも」
ミルがそう言うとナイトは観客席を降りていき、剣を抜きながら広場の中央へ向かっていく。ミルはその後ろ姿をじっと見つめていた。
ナイトは止まっているのではないかと錯覚するほどに遅い動きで剣を振り、型をなぞる。次第に剣速が上がっていき、しばらくするとミルの目では捉えられないくらいになっていく。見えていないミルの目すらも釘付けにする力強い演舞。それは限りなく美麗なものだった。
ひとしきり剣を振るい負の感情を心の隅へ押しやったナイトは、優美な所作で納刀する。戻ってきた彼の表情は微かに柔らかくなっていた。
「誰と戦っていたんですか?」
ナイトの演武は完璧なものだった。完璧だからこそ、ミルは違和感を覚えたのだ。まるでナイトの前に強大な敵がいるように思えて。
「分からない」
ナイトは確かになにかと戦っていた。頭で考えていたわけではなく体が覚えていた通りに動いただけで、なにと戦っていたかは彼自身にも分からなかったが。ナイトに理解できたことは、勝利を収めた感触だけだった。
城の最上階、天井も壁も崩れ去ってしまっている開けた通路にて、二人は町全体を見渡していた。そよ風というには強すぎる風が吹き、ミルのフードがなびく。
「ここにはもう、なにもない」
二人の後ろ姿からは哀愁が漂っていた。
「俺はここを出ると決めた。ミル、お前はどうする?」
静かに、それでいて強い決意が籠った声。ナイトはこんなところで死にたくなかった。
「私も。この場所にいても、辛いだけですから」
ミルは新しい道に進むことを決めた。彼女は悲しみがとめどなく溢れだしてくるこの場所にいたくなかった。
「そうか。ならあいつを倒さななければな」
「……そうですね」
二人は街の入り口にてのんきに寝そべるドラゴンを遠目から睨みつける。決意の理由がたとえ後ろ向きなものだとしても、それが揺るぎないものだということに変わりはない。
ミルが天に向かって漆黒の光を放ち、ナイトはドラゴンに剣先を向ける。これが二人なりの宣戦布告だった。
城と街の入り口を繋ぐ目抜き通りにて、カタカタと乾いた音を立てながら、我先にと二人に群がるように迫りくるスケルトンの大軍。ふらつきながらも両手を二人に向けて伸ばし、ゾンビのような鈍い動きで近寄ってくる。もしかすると救いを求めているのかもしれない。
そんなスケルトンの一団の真ん中に半透明の白いバランスボールが弧を描くようにふわりと飛んでいき、着弾する。バランスボールが破裂し、その中から流れでてきたのは白い風のようなもの。それに触れたスケルトンからは偽物の魂が抜けて、体だけが崩れ落ちる。そしてその体も次第に輝く砂となって白い風に流されていった。
たった一つの聖魔法で二十ものスケルトンを昇天させたミルは、涙を流していた。そんな無防備のミルを守るようにスケルトンの前に立ちふさがったナイト。彼は襲い来るスケルトンを、白銀の聖剣で一体一体丁寧に両断していく。ミルが放った魔法と同じ性質を持つ剣で一刀のもとに切り伏せられたスケルトンは、やはり同じように輝く砂と化して風に運ばれていった。
ほどなくして戦闘が終わると、辺りの様子は戦闘前となんら変わりがなかった。本当に戦いがあったのか疑いたくなるほどだ。
「大丈夫か?」
「……は、い」
ミルはアンデッドたちにどこか懐かしさを覚えていた。そんな彼女には、存在していたという証明すら残さずに彼らが消え去ってしまったことが、どうしようもなく悲しいことに思えて仕方がなかった。彼らを昇天させたいと望んだのは自分だというのに。
ナイトはミルとは反対に、彼らが無事に逝けて良かったと思っていた。理由も分からぬ罪悪感から、せめて安らかに眠ってくれと彼は真に願っていたのだ。
二人に共通していること、それはアンデッドを想っているということだろう。ミルも彼らが消え去ってしまったことを悲しんでいるものの、無事に逝けたことは良いことだと理屈では分かっていた。
「自らの手で屠るのが辛いというのなら、すべて俺がやってもいい」
「……私の手で送ってあげたいんです。それに、戦いの経験を積まないとドラゴンに勝てませんから」
ミルの目は赤く腫れていて、それでも強い光を放っている。それを見たナイトは己の浅はかな言動を恥じた。
「悪かった。決めたんだったな」
「はい」
「なら泣いている暇はない。次へ行くぞ」
二人は力強い足取りで歩き出す。あてもなく彷徨い続ける死者たちに終わりを告げてやるために。
四方の壁にいくつもの火がともされている松明がついている。それでも広すぎるせいで薄暗い。そんな地下空間に、王冠を被り豪奢なローブをはためかせながら佇む一体のアンデッドがいた。艶のない肌、骨張った体。そいつは長細い両腕を広げて来客を歓迎していた。
「……リッチ」
ナイトは眼前のアンデッドがどれだけ恐ろしいものなのかを一目見ただけで理解した。強者の風格とでもいうべきものをそいつが纏っていたからだ。ナイトのただごとではない雰囲気を感じ取り、ミルも身構える。
張り詰めた空気が漂う城の地下。その沈黙を破ったのは、リッチが放った魔法が空気を焦がす音だった。燃え盛る特大の炎球えんきゅうがミルに迫る。
輪郭が定かではない炎そのものが、ミルを焼き尽くし死に至らしめる光景。それを想像してしまったナイトの顔が、真っ青に染まる。自らが盾になればいい。そうすればミルを助けられる。そんなことは分かっていた。しかし、彼は動けなかった。動こうとはしたが、脳裏に死の可能性が過り彼の体は硬直してしまったのだ。
轟音と共に爆炎が舞う。そしてミルは吹き飛ばされ、壁面に叩きつけられた。壁に亀裂が走る。
「ミル!」
「ごめんなさ……い」
ミルは死んでいなかった。咄嗟に紫紺の障壁を張って炎球の威力を弱めたのだ。しかし、障壁を破壊してなお止まらなかった炎に包まれた彼女は、もう意識を保っていられなかった。最後に謝罪とぼんやりとした黒い光の玉をナイトに残し、ミルは気絶する。
残された暗い光はゆらゆらと不規則な軌道を描きながらもナイトの所へと飛んできて、染み込むように彼の体の中に入っていく。ナイトは全身から湧き上がる力を実感し、強化してくれたミルに感謝した。
「任せろ」
そんな言葉とは裏腹に、彼は逃げることを考えてしまっていた。だがミルを背負って逃げれば、背後にある地上への階段へたどり着く前に炎球の餌食になることは確実だ。やむを得ず、彼はリッチと戦うことを覚悟した。
聖剣に心臓を貫かれ、リッチは宝石交じりの砂になって地面に積もる。周囲には壮絶な戦いを思わせる無数の跡があった。裂かれ、ひび割れた地面。高熱に耐え切れず溶解した壁。だというのに終わってみればナイトに目立った外傷はない。
彼はリッチの最期を見届けてから、壁際にもたれかかっているミルに駆け寄った。
「大丈夫か」
ミルの手を取って脈を確かめようとしたナイト。その直前にミルは目覚め、ナイトの手を振り払った。
「大丈夫ですから」
ミルはそっと微笑んだ。ナイトは安堵し、彼女の隣に腰を掛ける。そして二人が気を休めようとしたとき、二人の横にある地上に続く階段からナイトは何者かの気配を感じ取った。
階段の角から姿を現したのは仮面を被った明らかに怪しげな者。上下が繋がっている毒々しい色のゆったりとした服を身に纏い、両手には黒い手袋をつけている。肩に下げたポーチはなにかの骨でできた装飾が施されており、気味が悪い。
「強いねぇ、君」
耳障りな高い声でそいつはナイトに話しかけた。ナイトは片膝を立て、手を剣にかけながら何者かと問う。
「私が何者かなんて、君たち興味あるの? 今の君たちは、ドラゴンを倒すこと以外に考えていないんじゃないのかい? その目的の達成に手を貸そうか?」
優し気で、誘惑するような口調。ナイトは鋭い目つきでそいつを睨みつけた。
「もしお前が俺たちの立場だったとして、いきなり現れた顔も見せない奴を信用するのか?」
「しないね。でも、対価はいらないと言ったら? 私は薬品を作成するいわば錬金術師みたいなものでね、君たちは私が作った強力な薬品を使ってドラゴンを倒してくれればいい」
「お前にメリットがあるとは思えないのだが?」
「私のメリットは二つ。一つは薬品の効果を調べること。もう一つは、ドラゴンの死体という最高の素材が手に入ること。納得してくれたかな?」
「確かにお前にもメリットがあるということは理解した。だが、ダメだな。お前との協力には裏切りという最大のリスクがある」
「リスク、ね。なら今の君たちがドラゴンと戦うことにリスクはないと? むしろ私の提案を受け入れて戦いに勝てる可能性を高くする方がリスクを減らせるんじゃないかい?」
痛いところを突かれて沈黙する。ドラゴンは強い。見つけられる限りのアンデッドを浄化する過程で成長を遂げた二人とはいえ、確実に勝てる保証はない。むしろ負ける確率の方が高いというのがナイトの見解だった。
「良いだろう、提案を呑んでやる」
「それは良かったよ。じゃあ、君にはこれを――」
「ちょっと待ってください」
そいつがポーチから薬品を取りだそうとしたところで、ミルは止めた。
「ナイトさん。この人と協力するのは私はやめた方が良いと思います」
いつも控えめな彼女にしては強い語調。ミルは目の前の人物が間違いなく悪人だと直感的に見抜いていた。彼女には、匂いが分かる。そいつが発しているのは悪人特有の匂いだった。
「分かっている」
「なら――」
「ドラゴンに無策で挑むことこそ最悪手だ。ならまだこいつの薬品とやらを利用できるものなら利用したほうが良い。それに俺は危険が分かる。もし俺たちに害があるものを渡してきたなら、その時点でこいつを斬り殺す」
ナイトを信じることにしたミルは、不安を心の内に押し込めて頷く。
「ならこの二本を、君たちにあげるよ」
仮面の下に醜悪な笑みを隠しているだろうそいつは、二人に一本ずつ、別々の色の液体が入った瓶を手渡してきた。
街の入り口の前にある巨大な広場。そこで永遠の暇を持て余して惰眠を貪っていたドラゴンは目覚める。鎌首をもたげたドラゴンの視線の先にいたのは何日か前に仕留めたと思っていた騎士風の男と、見覚えのない小柄なローブだった。
「生きていたのか」
「俺たちは外に行く」
ドラゴンの呟きには答えず、一方的に宣言するナイト。この前とはどこか違う雰囲気を纏った彼に、ドラゴンは眉を顰める。
「悪いがここを通すことはできない、哀れな者たちよ。いや、撤回しよう。仲間ができたならば孤独ではないか」
ドラゴンはしばらく悩む素振りを見せた後、厳かな声音でこう言った。
「一生この街で生きていくというのならば見逃してやる」
「ないな」
ドラゴンにとっての最大の妥協案を一蹴するナイト。彼らは互いに相容れない運命だと悟る。ドラゴンから悪が発する匂いを感じられなかったミルも、戦いは避けられないということを理解した。
「残念だ。お前たちがその意思を貫くというのなら、我も使命を果たさせてもらう」
ドラゴンは宙へ舞い上がり、大きく羽ばたく。右翼は突風を巻き起こしたが、骨だけの左翼は違う。空を切るように動かされた左翼は、二人に向けて鎌鼬を放った。ミルを庇うように前へ出て、剣を抜き放つナイト。抜き放たれた剣は、純白の正反対である漆黒だった。彼は戦いに来る前、貰った透明の液体を剣にかけていた。その薬品の効果は属性を反転させるというもの。その結果、聖なる剣は闇を司る暗黒剣に変貌したのだ。
下段からの斬り上げで鎌鼬を相殺したナイトは、すかさずドラゴンに向かって走りだす。ドラゴンは翼を使って距離を取ることもできたが、そんな真似は最強の生物としての矜持が許さなかった。ナイトが持つ暗黒剣に匹敵するほどに長く鋭い爪で、彼を迎え撃つ。激しい近接戦が始まった。
巨体ゆえの力、そして腕が二本あることを生かして戦うドラゴンと、圧倒的な技術と小回りを生かして戦うナイト。襲い来るドラゴンの右鉤爪をナイトが飛んで躱したかと思えば、底を狙った左前脚による薙ぎ払い。ナイトは剣で防ぎながら、攻撃してきたドラゴンの左腕を蹴って逃れるという荒業を成し遂げてみせる。
一方ミルは、ナイトに強化魔法をかけ続けていた。実力不足の自分はドラゴンと直接戦うことはできない。だからせめて少しでも手助けを。その一心で、何度も何度も黒い靄が纏わりついた球体をナイトに送る。
ミルに強化されているとはいえ単純な力勝負ではドラゴンに分がある。ドラゴンの爪撃を剣で防ぐ度に、ナイトの右腕にはダメージが溜まっていった。そんな彼を切り刻もうとするドラゴンの右鉤爪。それを受けたとき、彼の腕に電流が走った。骨にひびが入ったのだ。激痛に彼の顔が歪み、体が硬直する。そしてそれは、致命的な隙に他ならなかった。
ドラゴンの強靭な尾が振り上げられる。それを見て動いたのは、ナイトではなくミルだった。守られてばかりではなく、守りたい。彼女の手のひらにちっぽけな炎が生まれる。リッチの魔法を見よう見まねで再現したそれは、みるみるうちに大きくなっていく。そうしてできあがった立派な炎球は、ドラゴンの頭部へと射出された。
眼中になかった相手からの予想外の攻撃。ミルの魔法はドラゴンの顔面に直撃し、炎を撒き散らした。しかしドラゴンは怯まず、鞭のようにしなる尻尾がナイトに強烈な打撃を喰らわせる。弾き飛ばされてミルの方へ転がってきたナイト。彼が身につけている鎧には大きなへこみができていた。
たった数日間で、なぜ強くなった気でいたのか。ミルは悔しさと恥ずかしさで顔を歪ませる。ドラゴンも、ナイトも。彼女には遥か遠くにいるように感じられた。
ミルはローブのポケットから深い吸い込まれそうな青色の液体が入った瓶を取りだした。
「物騒なもん突き付けないでよ」
「危険なものを渡してきたら斬ると言ったはずだ」
「これは確かに害を及ぼすものだけど。なにせ体の奥底に眠る魔力を強引に引き出す代物だからね。でも、お嬢さんはこれがないと力不足だと思うんだけど、違うかい?」
「絶対に使うな」
昨日の会話がミルの脳内に蘇る。使うのはやはりやめておいた方が良いのかもしれない。でもこれを飲まなければ私は、役立たずだ。そう思い意を決したミルは青い液体を一気に喉へ流し込んだ。
胸が焼けるように熱くなる。その熱が全身に浸透していき、ミルの体はそれを受け入れられずに悲鳴を上げた。痛い、痛い、痛い。それしか考えられない。頭に霧がかかっていく。
自らの身体が変化していくのがミルには分かった。変わっていくのは、形ではなく器。膨大な熱に対応できるように膨らみ続ける。そしてミルは、殻を破った。
たった数秒だというのに、ミルは何時間も苦痛を味わい続けていたような気がしていた。だが、強くなった実感がある。ナイトとドラゴンにはまだ到底届かないと気づけたくらいには。
ミルが立ち上がろうとするナイトに手をかざすと、ナイトを闇色の霧が包む。それが晴れたとき、ナイトは立ち上がって再びドラゴンと相対した。
「感謝する」
「感謝したいのは私の方です」
「そうか、ならまだその感謝はとっておけ」
そう告げたナイトはドラゴンに突撃し、ミルはナイトの補助に努める。剣風が荒れ狂い、ドラゴンを斬り刻む。強烈な一撃によって発生した風刃が、ナイトの頬に血色の線を走らせる。さらなる力を手に入れたミルが加わったことで戦況は互角となり、戦いは激化していった。
長い時間が過ぎた。ほとんどの外皮が傷つきめくれ、自慢の爪も何本か折れているドラゴン。ナイトの鎧もひしゃげていたり、切り裂かれている部分が目立つ。後方支援のミルは傷こそないものの、激しい魔力消費に息を荒げ吐き気を耐えていた。それでも、彼らの目は敵だけを見据えている。
「仕方ない。これは使うまいと思っていたが、そうはいっていられないようだ。今楽にしてやる」
ドラゴンの閉じた口から白光が漏れる。二人は本能的に危険を察知し、戦慄した。数秒間の間、身動き一つ取れない二人。そしてそれは発射される。ミルに向けて。
その白銀の光線がミルに迫る光景は、リッチの魔法に吹き飛ばされるミルをナイトに思い起こさせた。そうはさせるものか。死の可能性など考えず、ナイトは動こうとしてミルへ手を伸ばした。ナイトの頭が出した庇えという命令。それに逆らう彼の体。――守れない。
辺り一帯が濃霧に包まれたかのように白一色となった。焼けるように痛む全身。また動けなかった自分への失望。たった一人の仲間を失うことへの不安。ナイトの顔は悲壮感に満ち溢れていた。
白霧が消えて晴れたナイトの視界に映ったのは、赤色に輝くペンダントを首に下げたスケルトン。そいつはミルの前で両手を広げ、彼女を守るように佇んでいた。
「……お母さん?」
ミルは意識もせずにそう溢していた。その言葉に反応するかのように、スケルトンは振り向く。その顔に表情はない。だというのにミルは溢れんばかりの慈愛を感じていた。訳の分からないまま涙を流すミル。スケルトンはそんな彼女の頭を撫でようとして、しかしその手は届かなかった。
スケルトンの体が足の先から綺麗な砂へと変わっていく。目を見開いたミルは小さな手で舞い散る砂をすくった。しかし、その小さすぎる手では僅かなものを取りこぼさないようにするのが精一杯で、さらにその手に残った砂さえも地面に溜まったものとともに風に攫われていく。必死に手を伸ばして掴もうとするも、それは指の間を縫うように消えていった。地面には残ったのは赤から灰色に変わってしまったペンダントのみ。ミルはそれを拾って、大事そうに胸に抱え込んだ。
そんな光景を目にしたナイトの頭に、大切な記憶が次々と蘇る。彼を守り、千の矢を受けて死んでいった父の背中。父に憧れて入った騎士団の過酷な鍛錬の日々。全てを守り切ると誓った戦い。守り切れずに部下を庇って死んでいく自分と、深紅の輝きを放っていた指輪。断片的ではあったが、彼が自分が騎士だったことを思い出すには十分だった。鉛色だったはずの指輪が、青色に光りだす。勇気を取り戻し、甘さを克服した彼の冷たい決意を宿したかのように。
「……防がれたのならば、もう一度放てばいいだけだ」
想定外の事態に動揺するも、すぐに冷静さを取り戻したドラゴン。再びミル目掛けて白銀の光線が放たれた。
騎士とは誰かを守るために存在する者。ここで動かなければ俺は騎士失格だ。そう思ったナイトは光よりも速く移動し、光線を斬り裂こうとした。膨大な二つの力がせめぎ合う。
正面から打ち砕くには、あまりにもその力は大きすぎる。咄嗟にそう判断したナイトは剣の角度を変化させ、斜め上へと振り抜く。すると光線は方向を変え、灰色の空を貫いて消えていった。
ドラゴンとナイトは睨み合う。ミルも言葉を発さず、ただ敵を見据えている。時が凍り付いたかのような静けさ。そのなかで、ナイトはこう考えていた。こいつはここで殺さなければならない。そうしなければ、必ず自分たちの安全を脅かす脅威として何度でも立ち塞がるだろうと。そして、ドラゴンも同じことを考えていた。こいつらをここで排除しなければ、世界の脅威となるだろうと。
長い静寂を打ち破ったのは、落雷の音だった。それを合図として、限界まで張った糸が切れたかのように彼らは動き出す。
突然の豪雨を気にも留めず、ナイトは駆けだす。一際強く地を踏みしめ、飛び上がる。ナイトの目にはドラゴンしか映っていなかった。
「愚策だな。お前には翼がないだろう?」
わざわざ逃げ場のない空中に跳んだナイトを訝しむように、ドラゴンは目を細める。しかし、ドラゴンにとっては絶好のチャンス。自身最大の一撃をもってナイトを昇天させてやろうと、巨大なアギトを開いた。その口腔には今までとは比較にならないほどの眩い光が溜められている。
ナイトは怯えた様子を見せない。彼はもう、誇りのない生き方をすることを止めたのだ。ドラゴンに向けられた全てを吸い込むような闇色の剣。どす黒いオーラとでもいうべきものがその刀身から湧きでていた。
先手を打ったのは、魂を救う純白の奇跡。ナイトの全身を簡単に包めそうなほど太い光線は、彼の視界を白で覆い尽くした。呑み込まれる直前、爆発する黒。聖なる光を喰らい尽くそうとする漆黒は、徐々に光線を押し返していく。じわりじわりと侵食するように、勢力を増していく。そしてとうとう、白が散った。
地面に横たわっていたのは、もう二度と目覚めることはないドラゴンだった。二人は手を合わせて祈らずにはいられなかった。衝突してしまったのは、ただ互いの譲れないものが相反していたというだけのこと。恨む理由は二人にはなかったのだ。
「行くか」
「……はい」
ミルは寂しかった。おそらく、ここに戻ることはもう二度とない。大切な人たちはいなくなってしまったけれど、それでもここはミルの故郷なのだ。旅立つことに寂しさを感じないはずがなかった。
ナイトは悔しかった。人も物も守り切れずにここを発つ。まだ美しい景色を留めていた城も、きっといつかは跡形もなく崩れ去る。その悔しさは、一生忘れることはないと確信するほどだった。
二人は街の入り口から果てしなく続く草原へと、一歩を踏みだした。進む方向は分かっている。不思議と生者がいる方角が分かるのだ。振り向きもせず、二人は歩きだした。
幾日かが経ち、街が見えてくるんじゃないかと思えてきたころ、前方から少数の人影が歩いてくるのが見えた。待ち望んでいた生者との出会い。しかし、二人に感動はなかった。あるのは底知れぬ空腹感と、食べたいという思い。とうとう二人と四つの人影は接触する。
「気を付けてください。人間に見えますけど、不死者です」
「人型のアンデッドか。厄介だな」
「アンデッドなど粉砕してくれる」
「そうね、しかも良い物持ってそうじゃない」
二人の心にその衝撃的な事実は、すんなり入ってきた。薄々感づいてはいたのだ。自分たちが人ならざる者だということくらい。しかし、それでも少し、少しだけ二人の心は締めつけられるかのように痛んだ。
冒険者たちは二人に嘆く暇さえ与えてくれない。剣士と斧戦士が左右から襲い掛かってきて、さらに後ろから前衛の間を縫うように攻撃魔法が飛んでくる。僧侶の支援魔法がパーティ全体を強化して、一分の隙もない陣形。その連携は完璧で、逃がれる場所などないように思えた。
彼らには誤算が一つだけあった。それは相手が規格外の強さを持っていたということ。ナイトは邪悪なオーラを纏う剣を抜き、振った。それだけで剣士と斧戦士の上半身は、下半身と別れを告げる。鮮血が舞い、返り血を浴びるナイト。間髪入れずに彼が剣先を僧侶に向けると、輪郭のおぼつかない闇色の球が飛んでいき、彼女を吹き飛ばした。残された最後の一人は突然の仲間の死に悲鳴も上げられず、呆然としていた。
人では絶対に届き得ない強さを持つドラゴンを倒した騎士に、人類の中では多少強い程度の冒険者が勝てるわけがなかったのだ。ナイトは残された少女を見て、こいつは自分たちの脅威にはなりえないと判断した。しかし、同時に彼らを逃せばさらに強い冒険者たちが討伐に来るだろうということも理解していた。
アンデッドとなり、殺すことに忌避感は覚えなくなった今でも、もと人として殺しはしたくはない。しかし、甘さは周りの大切な人を殺すということを彼は学んでいた。たった一人、ミルだけを守り抜ければそれでいい。ナイトはせめてもの慈悲に、痛みを感じないよう一太刀で少女の首を斬り飛ばした。噴水のように噴き出した血。若草色の地面にできた赤い水たまり。ミルは俯いていた。
人間の町に二人の居場所はない。知りたかったことも、確かめられた。二人は街に行くことを止めて、どこか知らない方角へと歩きだす。行く当てもなく目的もない虚しい旅路。それでも、二人の目は決して死者のそれではなかった。ナイトには、守るものがあるから。ミルは、助けられてきた偽りの命を生き抜くと決めたから。ナイトの指輪には深い青の輝きが、ミルのペンダントには、太陽のような赤の輝きが宿っていた。
死霊の街にて @Unaf
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