それからの君達 ~翼あるもの~

美袋和仁

第1話 復活


 もう、やだ......


 檻の中で繋がれた幼女は、ぽつりと呟いた。

 手足を太い枷に戒められ、果てる事のない責め苦を味わわされる少女は、精も根も尽き果てて命の灯火が今にも消えそうだった。

 ここは、ある村の地下牢。長く使われている檻の中は苔むし、隅に積み上げられた襤褸な服や毛布の残骸と、用足しの穴だけが存在する。


 みるからに劣悪な環境だが、生まれてからずっと地下牢しか知らない幼女には、そんな事は分からない。


 アタシは何もしてない....


 ほたほたと零れる雫。頬の曲線を伝い、痩せた顎から滴るそれは、突き刺すような冷たさの甃に小さな水玉模様を作る。


 彼女の一日は、腐りかけた残飯のような食事から始まり、汚い臭いと水を浴びせかけられ、陽が落ちればやってくる男達から、代わる代わる暴力を受ける。

 人語に尽くせぬ虐待を幼女に行いながら、男らは口々に彼女を罵った。


「魔王の血族がっ、穢らわしいお前が生きていられるのは、俺達の慈悲なことを忘れるなよっ!」


「お前の父親である魔王が仕出かした事に比べたら、ずっと生易しい罰だ、ありがたく思えっ!」


 吐き捨てられる暴言の数々。


 数百年も前に世界を震撼させたという悪の代名詞、魔王。

 多くの人々を無惨に虐殺し、この世を恐怖に陥れた魔王の直系。それが彼女だった。


 魔王は元々は人間で、邪悪な力を手に入れてからも手当たりしだいに気に入った女性らを侍らせ、蹂躙し、多くの子供らを拵えたという。

 その子供らの殆どは殺されたが、魔王に厭悪憎悪を滾らせる人々により、数人の少女達が生け贄として、ある小さな村の地下に閉じ込められた。

 毎日のように折檻し、踏みにじる対象として残された魔王の娘達は、延々と終わりのない苦役を背負わされ、魔王の罪の贖罪を強要される。

 命尽きるまで蹂躙し尽くされ、その短い生の間に生まれた子供らが、また新たな生け贄となり、途切れる事なく人々の狂喜に晒された。


 数百年にわたり継がれてきた狂喜の生け贄。その最後のひとりが、檻に繋がれた幼女である。


 長く続けられてきたこの陰鬱な宴。


 勇者の活躍が伝説となり、魔王の末裔も先細りとなった現在、ようやく人々が罪悪感を抱き始めた。

 だが行ってきた蛮行の歴史は消せない。

 幸い残るは幼女一人。彼女を最後に、この村で今まで行われた言語に尽くせぬ不埒な行いや残虐な遊戯の事実を、闇に葬むるべきだろう。村人はそう考えた。

 万一にもこの事実が周辺に知られたら、この村はただではすまない。


 魔王は死んではいないのだ。封印されているだけ。

 もし復活して、この事実を知れば、その怒りはこの村を襲うだろう。それだけの事を村人達は魔王の血族に行ってきた。


 これが各国に知られれば、過去に村の先祖が周辺の国々を謀り、魔王の娘達を盗んだ事がバレてしまう。


 元々、勇者の戦いに加勢した奴隷兵士達が、魔王討伐の褒美として自由民となり、この地に村を築いた。

 そのさい、処刑される予定の魔王の子供達から、見目の良い娘達を掠めとり、地下牢に繋いだのが、この惨劇の始まりである。


 子供のいない村に未来はないからだ。


 元奴隷な自由民。いくら戦功をたてたとはいえ、そんな荒くれ者らに嫁ぐ女はいない。

 男所帯の兵士あがりが築いた村には女が足りなかった、女に飢えていた。

 そんな彼らが、ただ死を待つのみの魔王の娘達に眼をつけたのは自然な流れだっただろう。


 彼等は娘達を処刑した形に装い、そのまま秘密裏に村の地下牢に閉じ込めた。


 そこから連綿と続く狂喜の宴が幕を上げたのである。




 幼女は自身の母親が、散々男どもの慰み者となり口にするもおぞましい道具や行為で嬲り殺されるのを最後まで見ていた。

 だが悲しいとか、寂しいとかいった感情は湧かない。何故ならそれが日常だったから。

 母親が動かなくなり、牢から引きずり出された時、幼女は思った。


 次は自分が殺される。


 小さな村が、たまたま手に入れた娘達。それを繁殖に使ったのが最初の理由だったが、そういった行為はしだいにエスカレートする。


 子供が男なら村に迎えて労働力とし、女なら地下で子供を孕ませ続けた。

 魔王に憤る人々の生け贄として、男どもの劣情の汚濁に延々と捧げられた娘達。

 しかし、数百年の長い年月が奴隷の村という汚名を払拭し、普通に嫁を娶り、村は十分な人数になった。

 魔王の血を引く男達は、村で馬車馬よりも散々こきつかわれて、発展の礎となり、この世にはいない。

 地下の娘達にも子供が生まれにくくなり、ここ数十年、女しか生まれてなく、奴隷を生む畠としても用をなさなくなってきた。

 一人残されたのは幼女の母親だけ。もはや地下牢は役立たず。

 結果、証拠隠滅と遊びを兼ねた残虐な宴が開かれ、最後のお楽しみに村の男らが総出で幼女の母親を嬲り殺したのである。

 じっくり、ゆっくり、懇切丁寧に時間をかけて。

 その最後の悪行を舌なめずりして楽しんだのだった。




 アタシ死ぬのね


 まだ七つにもならぬ少女は、単なるサンドバッグとして存在していた。殴る蹴るは日常茶飯事。

 相手の持ち込む道具によって、その日の責め苦は変わるのだ。

 盥の水で溺死寸前にされたり、蝋燭の火で手足や髪を炙られたり。

 今まで、他の生け贄らがされていた残酷な遊びの数々。現在、それは、小さな幼女ひとりに集中している。

 彼女が年端もいかぬ子供なため、性的な道具が使われないのは幸いだが、とてもそれを幸運と思える状況ではない。


 びしょ濡れな服に爛れた手足。


 生まれてから一度も湯に浸かった事はなく、檻の片隅に積み上げられた襤褸以外、着替えた事もない。


 ときおり気まぐれな村人が檻に水をうち、幼女を襤褸きれな服ごと丸洗いする程度。

 檻の中は不潔で劣悪極まりなく、村人らは滅多に寄り付かない。

 よっぽど腹に据えかねたり、ムカついたりした時にしか現れないが、その激昂の発露は幼女にとって歓迎出来るモノではなかった。

 

 死んだら楽になるのかな。


 胡乱な眼差しで幼女は明かり取りの窓を見つめる。あれが明るいうちは男達の来訪はない。安全だ。


 そして、何とはなしに自分の死を思う。

 母親のようにモノ言わぬ肉塊と成り果てれば、ここから出られるのだ。

 痛くも苦しくもなくなる。

 それは酷く素晴らしいことに思えた。


 まだ数年しか生きていないのに、幼女の脳内には、現世を終わらせたいという凄絶な渇望しか残っていない。


 でも痛いのは嫌だな。


 小さな明かり取りの窓から日光が消え、夜の気配が忍び寄る。


 それは狂乱への合図。


 毎夜嬲られる幼女にとっては、背筋の凍る時間だった。




 だが、その日は違った。


 地下は静かなまま誰も訪れず、幼女は訝しげに階段を見つめる。


 今日は、眠ってもいいのだろうか。

 以前、遅くにやってきた男達が、眠っていた幼女に腹をたて、朝まで折檻された事があり、彼女はどんなに眠くなっても横にならないよう心に誓った。

 

 しかし、待てど暮らせど誰も来ない。


 本当に誰も訪れないなら、今日は良い日だ。


 知らず眠気におされ、うつらうつらと幼女が船を漕ぎ出した頃。


 階段からカツンコツンと足音が聞こえ、慌てて彼女は顔を上げる。


 やはり来た。....蝋燭は使われませんように。


 爛れて中指と薬指が癒着してしまっている手を合わせて、幼女は心から天に祈った。

 幼女を泣き叫ばせるためなら何でもやる男達は、容赦なく彼女を嬲る。

 以前、蝋燭の火で念入りに炙られ、幼女は絶叫した。

 その絶叫がお気に召したのか、男らは執拗に彼女を炙った。

 皮膚が溶け、肉の焼かれる匂いが充満する地下牢で、あまりの激痛や苦悶に、幼女は意識を飛ばす。

 翌日、目覚めた幼女の手には襤褸が巻かれており、痛みが薄れるまで触ることも出来なかった手から、数日後襤褸を外した時、彼女の指は癒着して外れなくなっていたのだ。


 似たようなアレコレで幼女の身体はガタガタだった。

 殴る蹴るで外れたり折れたりした骨も適当な処置をされて変形し、焼かれて引きつれたケロイドが全身のいたる所にある。

 鞭や刃物でついた並び傷は塞がる事がなく、常に疼き、生々しい肉から血を滲ませていた。


 折檻のたびに増えていく怪我。治るものもあれば治らないものもある。


 今夜は一体どうされてしまうのだろう。


 ガタガタと身体を震わせて祈る彼女の前に、見慣れない足が止まる。

 靴の主は何も言葉を発さずに少女を見下ろしているようだ。


 誰? 村の人ならくたびれたブーツかサンダルなんだけど。


 怖々と薄目で確認した足には綺麗なロングブーツ。丁寧に鞣された如何にも高級品な靴は、地下の淡い光に照らされ艶々と光っている。


「お前は......? いや、こんな場所にいるんだ。村の者ではないな」


 耳障りの良い穏やかな声。


 外側からしか開けられない鍵を開け、その人物は檻の中に入ってきた。

 そして幼女の傍にかがみ、その手足を検分する。

 一見して分かる痛々しい姿に、男性の声が少し低くなるのを幼女は感じた。


「これは? 村人が?」


 まるで余所の事のような話し方。この村の関係者ではないようで、その声には明らかな非難の色が窺える。

 だからと言って彼女の味方とも限らない。

 幼女はゴクリと唾を呑み込み、相手の問い掛けに小さく頷いた。


「ちっ、これだから人間は...」


 あからさまに舌打ちをし、彼は幼女の両手を一纏めにして、その大きな掌で包んだ。

 すると光が零れるように溢れ、満身創痍だった彼女のキズが癒えていく。

 癒着していた指が離れ、癒えることのなかった生傷がふさがり、全身を覆うケロイドも、みるみる滑らかになり痕も形も消え失せた。

 変形して、動く事にすら激痛を走らせていた全身の骨も、全く違和感なく歪みが矯正される。


「魔法......?」


 幼女を包むかのように、キラキラと辺りに飛び散る光の飛沫。まるで夢のような光景。

 殴られた腫れもひき、彼女の大きな瞳が煌めいた。


「痛くないか?」


「........ないです。ありがとうございます」


 驚き、顔を上げた幼女の眼に、真っ白な男性が映る。

 髪も瞳も銀に近い白で、透き通るような透明感が、酷く淡い印象を彼に帯びさせていた。

 滑るように艶やかな肌は柔らかく、握られた手も滑らかで、とても男性の手とは思えない。

 鼻梁の高い整った美貌。下手をしたら女性と見まごうばかりのたおやかさ。


 御貴族様かしら。


 小耳に挟んだ事しかない単語を思い出して、幼女は羨望の眼差しで男性を見上げた。

 御貴族様は労働をなさらないので、綺麗な手をしていると、幼女は何処かで聞いた覚えがある。

 高位の貴族には魔法に長けた者が多いとも。


 熱い憧憬の視線に気付き、男性は薄く優美な笑みをはいた。

 そして形の良い指で、優しく幼女の頭を撫でる。

 まるで壊れ物を扱うかのような丁寧な指先に、幼女は鼻の奥がツンとした。


「そなたは何ゆえ、こんな地下に?」


 柔らかな声音に誘われて、幼女は辿々しく経緯を語る。

 途中で声がつっかえ、涙が零れてきて言葉にもならなくなったが、男性は何も言わずに辛抱強く話を聞いてくれた。


 全てを話し終え、涙が止まらずしゃくり上げる幼女を優しく抱き、男性は静かだが、地を穿つような低い声で呟く。


「懐かしい匂いを感じて来てみれば........ そう言う事か」


「あなた様は御貴族様ですか? アタシを助けてください」


 ぽろぽろと涙を零して男性の上着を掴む幼女。

 それを抱き上げて、彼は口角を不均等に歪めた。

 凄惨な覇気を漂わせ、たとえようもない凄みを浮かべた笑顔。

 そんな言葉を知らぬ幼女でも、思わずゾワリと背筋が粟立つ。


「無論だ。そなたは我が娘同然。こんな村は灰にしてくれよう」


 歪められ、捲れ上がった唇から覗く研ぎ澄まされた大きな牙。

 よくよく見れば、男性の頭の左右にも、羊のように立派な銀の角がある。

 思わず口を押さえつつ、それでも幼女は呟いた。


 まさか?


「魔王......さま?」


「......そうだ。私がいたらぬばかりに苦労をかけたな」


 切なくすがめられる美しい銀の瞳。悔恨の残滓が渦巻くその瞳に魅入られ、幼女は彼の首に抱きついた。


「......お父さぁんっ」


 絞り出すように悲痛な万感の叫び。


「ああ、ああ、すまなかった。これからは私がそなたを守る。約束しよう」


 遺伝子上だけの父親は村の男の誰かだろうが、幼い少女にそんな事は理解出来ない。

 今まで散々魔王の子と蔑まれて来た幼女にとって、父親は魔王だけだった。


 おとうさん、おとうさん、おとうさんっ!

 

 幼女は胸が一杯で言葉に出来ない。


 必死にすがりつく彼女を抱き締め、魔王も懐かしさに眼が潤む。


 なんと小さく柔らかいことか。こんな脆い生き物をいたぶるなど人の所業ではない。


 かつて魔王には多くの子供達がいた。己の血を引く子供らを、彼はいたく可愛がっていた。

 なのにその全ては殺され、彼は子供を救う事も出来ずに封印される。

 未だに耳に残る子供達の悲鳴。封印されていても、魔王はそれを感じとっていた。


 身を切るような哀しみに、やめろと絶叫すれども、封印された魔王の慟哭は届かない。

 そして長い年月の間に子供らの悲痛な叫びは途切れ始め、涙の褥で夢現だった魔王を覚醒させた。


 復活した魔王は、自分の子供らの悲鳴が長く続いていたこの村へ一直線にやってきたのである。


 ここで、間違いなく我が子が殺された。それも残酷極まりない方法で。

 喉が裂けんばかりに絶叫していたあの声を忘れはしない。


 そしてやって来てみれば........ こんな小さな幼女までもが満身創痍で放置されていた。


 他に誰もいない。全て殺されたのだろう。自分は少なくとも数百年は封印されていた。その間に生まれた血族全てが、残忍に虐殺されたのだ。


 この子ひとりを遺して。

 

「そなた一人でも生き永らえてくれていて良かった。本当に」


 永く封じ込まれていた数百年。救いを求める血族の絶叫に血の涙を呑み込み続けて、魔王の憎悪は臨界点を突破した。


 人を呪い、怨み、魔王と成り果てて復讐を行った過去の自分。それを後悔した事はない。


 だが安寧の数百年が人々を腐らせ、多くの邪心が吹き溜まることで、再び魔王は力を得る。

 長い年月に綻びた封印を破る力まで得た。


 あれだけ蹂躙し尽くしてやったのに、人間とは変わらぬようだ。


「まずは、この村を狼煙としようか」


 にたりと陰惨な笑みを浮かべ、彼は幼女を抱えて地下の階段をあがっていく。

 意気揚々とした彼の後ろ姿は、新たな旅立ちの歓喜に満ちていた。




 その日、地図からひとつの村が消えた。


 地獄の業火に焼き付くされた村人の遺体には、無数の小さな穴が穿たれ、中には四肢を切り落とされて、達磨のような姿で焼け焦げたモノあったという。


 明らかに常軌を逸した遺体の数々。


 数百年前の人々ならば知っていただろう。

 この遺体は、魔王の逆鱗に触れた者の末路なのだと。

 全身の急所を避けて編み針のように細い槍で全身を穿ち、その四肢を細切れに落としていく。

 相手が自身の死を自覚出来るほどにゆっくりと陰惨に責め苛むのは、魔王の十八番だった。


 そのあまりに凄絶な村の惨劇は各国の王宮まで届き、古い歴史を知る王侯貴族らにまことしやかな噂が流れはじめる。


 魔王が復活したと。


 ここから、肩書きと不条理に翻弄される人々の物語が始まる。

  

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