2-7 君は桜

 後ろに蕪木を乗せていたため速度を出し辛かったということもあるが、目的地までは中々の距離があり三十分以上はかかったと思う。その距離を一人漕ぎ続けた自分はもちろん汗だくで疲弊ひへいしていたのだが、蕪木は涼しい顔で自転車から降りた。

 賭け事の結果だったとはいえお礼の一つも言ってくれれば良いものを、何も言うつもりはないらしい蕪木の唇は動く気配すら見せない。ただ、お礼の代わりなのか、それとも汗だくな姿を見かねたのかスカートのポケットからハンカチを取り出すと、自分の鼻へと押しつけた。


「お礼は要らないわ」


 さも当たり前のように言う蕪木に少し苛立ちを覚えた自分だが、汗だくのままではいられないので素直にハンカチを使わせてもらう。 ……もちろん、自分のハンカチを持っていることは内緒の話。


 汗を拭き終わるのを待ってくれるはずもない蕪木は、自分を残しつかつかとクリーム色の校舎へと歩いていく。

 自分は手早く汗を拭きとりハンカチをズボンのポケットに突っ込むと、塀の影に自転車を隠すように停め蕪木の横に並んだ。

 

「ここが」

「中学校よ。わたしが十二歳から十五歳の間過ごした」


 そう言う蕪木の声に明るさがないことは言うまでもないだろうか。


「それで、見たいものって」

 と尋ねようとしたところ、蕪木は自身の唇に人差し指を当て自分の言葉を制止した。


 湯気が昇るように上昇していく頬の熱。対して蕪木はどこまでも冷静に、

「急かしては駄目よ。過去は逃げたりしてくれないんだから」

 と自分に告げるのだった。


「……そうだな」


 嫌でも分かってしまう蕪木の後悔の深さに冷静さを取り戻した自分は、少し下唇を噛みポケットに入れた蕪木のハンカチを握りしめた。

 蕪木は少しだけこちらに視線を向けた後、ついて来なさいと言わんばかりに足を速め正面玄関の中へと消えていく。自分は急いでその後を追った。


 蕪木が三年間過ごした中学校に大きな特徴はない。正面玄関から入ってすぐにあるメインホールから最上階の三階まで吹き抜けになっている構造が、少し珍しいと言ったこところだろうか。

そういったわけで、建物の詳しい説明を省かせてもらう。何より、蕪木にとって最も重要なのは建物そのものじゃないからだ。

 事務室で建物の中に入る許可をもらうと、自分たちは階段を上り三階まで上る。上りきると向かって一番右奥の教室へ行き、教室の後ろの扉から中へ入った。


「ここがわたしの過ごした教室」

「何て言うか、高校の教室と大差ないのな」


 床が木のタイル調だったりとか、黒板の隣に時間割が書く場所があったりとか、本当に些細な違いで特筆すべき場所はない。

 だけど、蕪木にとってこの場所は中学学校の三年間を過ごした場所で、おそらく後悔を生み出した場所の一つなのだろう。静かに揺れる蕪木の瞳が矛盾にも雄弁に語っている。


「本多。中学校の時のあなたの席はどこなの?」

「廊下側の一番前の席。いつもギリギリに教室に入ってくるから、担任に指定されてな」

「あなたらしいわね」

「そういう蕪木はどこだったんだよ」

「窓側の一番後ろの席よ」

「うわー。お前らしいな」

「ええ。一番の特等席だってことだったわ」


 少しの傲慢ごうまんさもなく淡々と答える蕪木に、自分は苦笑するしかなかった。

 

 そんな蕪木の中学生の姿はどんなものだったのだろうか。

 そもそも持っているとは思えないけれど、写真を見せてくれと言っても蕪木は見せてくれないだろう。

 それなら、そうぞうするしかないのだが、例によって部長の口癖が頭の中で鳴り響く。


 『想像力を高めなさい。そうしたら人生はきっと豊かになるわ』


 ……ああ、そうだな。部長。

 

 自分は目を閉じた。そして、洞窟の奥地のような頭の中の暗闇から湧き出した想像力を使い、自分が見たこともない中学生の制服を着て窓際の席に座る蕪木を瞳に映し出す。


 ばかみたいに背筋を伸ばして座る蕪木。その瞳には周りのクラスメイトの幼い顔なんて映っていなくて、黒板を埋める教師のガタガタの字と、自らのノートに記される洗練された文字しか映らない。

 そう考えたら何だかおかしくなり、思わず含み笑いをしてしまう。どこまでも不器用で飾らない美しさを持つ蕪木が、自分の知らない中学校時代から居るのだと思ったからだ。

 想像の旅から目を開けると、蕪木の瞳が真っ直ぐこちらを覗いていた。


「ねえ、もし中学時代にわたしたちが同じ教室に居たとしたら、あなたはわたしに話しかけてくれたのかしら?」

「あくまでもおれがお前に話しかけることが前提なのな」

「そうよ。わたしの性格、知っているでしょ」

 「知っているよ」。と言う代わりに苦笑いをした自分は再び目を閉じる。

 そしてもう一度、想像を膨らませる。


「多分。話かけてはいないと思うよ」

「あら、そう」

「でも、クラスの中で誰よりも気にかけていただろうな」

「……やさしいのね」

「そんなんじゃないさ」


 自分は首を振らず、言葉だけで否定した。想像の中に生まれた蕪木のイメージを壊したくなかったからだ。

 もし、中学校の教室に蕪木わたが居たら。

 ふてぶてしく眠るふりをしながら、自分はクラスメイトたちの隙間を縫って蕪木の横顔を盗み見る。

 その時の感情をひねくれずに表すのなら、恋なのだろう。万次郎の言葉を借りれば、自分は蕪木に恋をする。だけど、話そうと、関わろうとはできない。

 病床から眺めるソメイヨシノのように、憧れて、焦がれて、三年間を過ごすのだ。

 だから、出会ったのが高校生になってからで良かった。つむじが曲がり始めてなければ、他の同級生と変わらない、眺めるだけの人であっただろうから。

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