1-2 九尾につままれる
心の中は複雑な感情でひしめき合っていた。驚きの感情はもちろん、殆ど初めて呼ばれた名前へのむずかゆさとか、色んな感情が混ざり合っていたせいで今自分が置かれている状況を整理するのが遅れてしまった。
それがこの後の不幸を呼び込んでしまったのだろう。
「こちらを見る必要はないわ。そのまま真っ直ぐ本棚を見ていて」
「は? 何を言って!」
刃が押し出されるカチカチという音。そして、背中には薄いポロシャツの上から感じる無機物の冷たい感触。
背中に脂汗がにじむ。耳に届いた音と背中の感触が、自分に対し突きつけられたものをよく伝えていたからだ。
「この音と状況で、何を押しつけられているのか分かるわよね?」
「分かりたくないが、正直分かってしまうのが悲しいよ」
おそらく、蕪木が手にしているのはカッターだろう。幸か不幸か薄いポロシャツ越しだとその形状が良く分かってしまう。
司書の
「何でそんな物騒なもん突きつけられているんですかね、蕪木さん?」
「あなたに聞きたいことがあったからよ」
さも当たり前でしょ。と言うように、名前を呼んだ時と変わらず緊張感のない平然としたトーンで話す蕪木。この状況に慣れているようにすら思えてきて、自分は更に汗をかいた。
「もしかして、刃物を突き付けないとまともに会話できないんですかね?」
「そうね。あなたのようなおべんちゃらが得意な人も、素直に話してくれるようになるのだからとても楽よ」
冗談のつもりで言ったのだが、まともに返ってきしまった。
表情が見られないのでどんな顔で言ったのか分からないが、冗談が通じていないところを考えると、相当自分はやばい状況に追い込まれているらしい。
「冗談抜きで真面目に聞きたいんだが、どうして自分はこんなことをされているんですかね?」
「わたしに答える義務はないわ」
「なっ」
「……冗談よ。そうね、真実なのかどうか確かめたいというのが一つ。もう一つは仮に噂に過ぎず軽薄な嘘の情報だったとしたら、あなたには黙っておいてもらいたくて」
「だからってカッターを突きつけなくたって良いだろ」
「仕方ないじゃない。だって、あなたのことよく知らないし」
「……まあ、そうだよな」
仕方ないかはともかく、お互いをよく知らないのは確かだ。
目線は交わしても言葉は交わさない。自分が読む本も蕪木が勉強していることもお互いに一切詮索すらしない。そんな関係。故に自分たちの間に信頼なんてものは微塵も存在しないし、蕪木にとって正面切って話をするのに抵抗感があるのは理解できる。
とは言え、この状況はやりすぎだと思うのだが、蕪木は突きつけたカッターを下げることはなく自分に質問もとい尋問を始める。
「あなた、未来人なの?」
「違う。残念ながらお前と同じ年に生まれているわ」
「じゃあ、並行世界から移動してきた?」
「違うよ。アニメじゃないんだ、そんな能力は持ち合わせていない」
「そうなの。じゃあ最後に……過去を変えられるって聞いたのだけれど」
「…………」
「これは、本当なのね」
そう言うと蕪木はカッターをより背中に近づける。詳しく話せということなのだろう。
いつ刺されるか分からない状況に息苦しさを感じつつ、自分は語りだした。
「変えられるっていうのは、正しくない。過去自体は変えられない。想いが伝わるだけだ」
「想いだけ?」
「ああ。とんでもなく後悔しているな」
「……後悔」
その単語に引っかかったのか蕪木の重心が後ろに下がる。同時に少しだけカッターが背中から離れ、喉のつまりが少しだけ消えた。
「どうやって過去へ想いを伝えるのかしら?」
「……企業秘密っていうことにできませんかね?」
「あら、この期に及んで冗談を言えるだなんて。中々肝が据わっているのね」
蕪木はわざとスライダーを前後に動かし音をたてる。長くも短くもなるカッターの刃がいつ自分に刺さるかも分からなくて、背中だけではなく頬にも汗が滴る。
「神様の力なんだよ。って言ったら信じてもらえるのか?」
「……あなたに同じこと頼んだ人たちは、あらそう。と信じたのかしら?」
「いいや、全員疑っていたよ。正直、聞いといて勝手に怒りだすやつもいたし、興味本位で聞いてくるようなやつらも。まあ、そういうやつらはやり直したくなるほどの後悔をまだしていない、幸せな奴らだけどな」
「…………」
自分の言葉にどこか思うことがあったのだろうか、初めて蕪木は口を閉ざした。そのため、自分は振り返ろうとしたのだけれど、あくまで蕪木は許してくれるつもりはないらしくスライダーを前に動かして自分を制止する。
「それで、いったい何故そんなものがあるのかしら。何より、何故あなたがそんなお人好しな行為を行っているのかしら?」
「後者は分からん。正直、前任の人間に薦められて以来ずっとやっているってだけだよ。そして前者についてだが……後悔し続けた心への
「救済措置」
そう呟くと、少しの間口を閉ざした蕪木。
振り向くことができないから正確なことは言えないけれど、おそらく何かしら考えているのだろう。
「証拠はあるのかしら?」
「今すぐには無理だ。正直、図書室を仲良く利用している仲として信頼してくれって言うしかねえな」
「そのようね。ただあなたと仲良くした覚えは一切ないけれど」
「言葉の綾じゃ」
「言葉の綾だったとしても寒気がするからやめてほしいわね」
「寒気のせいで手元が狂ったとか言わないでくれよ」
間違っても刺そうものなら軽傷じゃすまないし、罪も重くなる。
「あなたの言う神様に会う。というのは?」
「それができるなら今すぐそうしてやるさ。だけど、残念ながら神様はとことんわがままでね、一人で会いに来るよう言つけられているんだわ」
「そう。じゃあ、無理ね。何の証拠もないのに信じられないわ」
そう言うと蕪木はあっさりとカッターを引き、踵を返した。どうやら図書室の出入り口に向かって歩き出したらしい。
突然のことに自分は拍子抜けをしたが、振り返り蕪木を呼び止める。
「待てよ。これで良いのか? 何よりおれを脅迫しといて」
「? 何のことかしら」
「何って、お前は遂さっきまでおれを脅迫して」
「いないわよ」
蕪木は自分の言葉の返答代わりに掌にカッターを乗せ、自分の前に差し出す。
そのカッターには……刃が入っていなかった。
つまりは、脅迫も何もかも全て自分の勘違い。自分が勘違いしてべらべらと蕪木に対してしゃべってしまったということだ。
「あなた、意外と想像力豊かなのね。本当にカッターを突きつけられるとでも思ったのかしら?」
「っ」
「わたしは刃物なんて突きつけてない。あなたは勝手に脅されていると思っただけ。だから、この話はもう終わりよ」
「なっ! 待てよ」
蕪木に近づこうと一歩踏み出した瞬間、蕪木も一歩自分へと近づき持ち手だけのカッターを自分の鼻先へと突きつける。
思わぬ行動に自分はたじろいでしまった結果、自分は背中を本棚にぶつける。更に、その衝撃で落ちてきた本が頭に当たった。
「っ~!」
頭を押さえ痛がる自分。それを見て攻撃する気が失せたのか、蕪木はカッターをスカートのポケットにしまう。そして、
「忘れてさえくれれば、それ以上何も必要ないわ」
と言い残すと自分を起こそうともせず図書室から去っていった蕪木。
自分は行き場のない悔しさから落ちてきた本を床に投げつけようとして止める。そして大きく息を吐きくと、そのまま天を仰いだ。
どうやら自分は狐に。いや、もっと美人で質の悪い、
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