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ナツミの部屋に、
アヤトは自分の部屋で資料整理を始めて、
不規則な生活をしている兄のことが、碧生はちょっとだけ心配だ。
まあ、ぬいの体では健康を崩しようもないけど。
兄さんは睡眠をコントロールできて、すごいな。……なんて思っている。
今日も天気がいい。
さっき白衣のぬい服を洗い終わって干して、そのあとニンゲンたちの服も洗うために洗濯機を回した。
手持無沙汰な静かな時間。
ナツミの部屋で小さな音で仏鈴を打って、碧生は
儚い響きの中で思い出す。
あの日。
これといって特別なことのない、いつものようにちょっと楽しく、ちょっと退屈だったあの日。
昨日も今日も明日も、そんなとりとめもない毎日が永遠に続くと思っていた。
──フォロワーっていうの、なんかしっくりこないんだよねえ。いっつも「いいね」くれてるのは……チカちゃんとアオちゃんの友だち。
──……? ナツミの友だち、だろ?
──うーん……私の友だちでもあるけど、それだけじゃないよ。もし私がいなくなっても、写真を届けてあげてね。チカちゃんとアオちゃんがいる限りは、ずっと。
ニンゲンはどうして死んでしまうんだろう。
一緒にいてもっと話をしてほしかった。ぬいは、ニンゲンを幸せにするために生まれてきたのに。
音は空気の振動。
伝わるだろうか。
碧生の声は微かな波動になり、静寂の骨を震わせる。
「ナツミ。おれ、これからも友だち、増やす。ずっと大切にする。ヒデアキと一緒に」
***
黒板に数学の証明問題が書かれている。
「錯角が等しいので、直線BCと直線DFは平行……」
ヒデアキの手元にはペンに擬態したBluetoothマイクが置かれていた。授業の音声が碧生のもとに送られている。
本当は千景から虫型カメラを借りようと思ったのだが、
「あのカメラ、家からは操縦できないから、置きっぱなしになるだろ。もしも設置とか回収とかしてるとこを見つかって、そんで着替えやなんかを盗撮してると思われたら、ヒデアキはタイホされて変態盗撮中学生のレッテルを貼られるぞ」
と恐ろしい警告を受け、碧生もかなり引いてしまって、相談の結果音声だけを送ることにしたのだった。
授業は和やかに続いている。
「……よって三角形ABCと三角形ADFは相似……」
ヒデアキは思い出す。
高瀬先生が送ってくれた、お母さんのマンガ。アカチャンの碧生が千景のことばっかり呼ぶ話。
似たような映像を見たことがあるのだ。
自分は1歳ぐらいでシンタローは小学生だった。
大分の「おじいちゃんち」に行ったとき、小さな空港で記録されたムービーだ。
「しん!」
とアカチャンの高い声がして、カメラがそちらの方向に動いた。
「あ! おれのこと呼んだ!」
今の背丈の半分ぐらいのシンタローが無邪気に喜んでいる。
「ェエエエ──!? 最初に呼ぶのって、ママじゃないのぉ!?」
と母。こちらも子供みたいに無邪気に残念がっている。
あの頃は研究所の仕事に戻るほんの少し前で、一番がんばって子育てしていた時だ。
「ママだよぉ~。まーまーでーすーよー」
と懸命にアピールしているが、
「ぅ? あいあい」
「がーん。あしらわれた……」
「ヒデくん。パパは? パパだよー」
とカメラのすぐ近くで低い声。撮影しているのは父なのだ。
アカチャンのヒデアキがカメラを見て、指差すみたいに手を伸ばす。
「しん」
シンタローがその横から声をかけた。
「おれは?」
ヒデアキは声のした方を向く。
「しん」
「ママは?」
「……? あぶっ」
「……今日は名前だけでも覚えて帰ってくださいね」
母は真顔で新人芸人の挨拶みたいなことをアカチャンに頼んで、
「まあ、シンくんとパパは、見た目同じだもんねえ」
「「いや、同じではないでしょ」」
とシンタローと父の声がハモっていた。
***
夕方。
ぬいたちがそれぞれの仕事に勤しんでいる時間、アヤトは自分の部屋に一人でいた。
鍵付きの棚をそっと開ける。
引き出したのは1冊の本だ。
表紙には可愛いフォントの「R15」の文字。公序良俗に反するおそれがあるため15歳未満は見ないでくださいね、という意味。15歳未満の皆がそれを理解しているかは定かではないが。
これが、ヒデアキたちが探していた例の「アンソロ」だった。
黙っていたが実は結構前に献本が届いて、ここに隠されていたのだ。
ヒデアキたちが「感想が届いた」と騒いでいたのは、先週末あたりから一般読者の手に渡ったからだった。
鍵付き棚には2人分の秘密のコレクションがまとめて収納されている。
でも鍵なんてかけるから、隠す必要ないものまで秘密になってしまう、なんて考えなくもない。
この棚に物を入れるたび、ナツミとは「何かあったときには、積み荷を……積み荷を燃やして」のネットミームをふざけて言い合っていた。
(燃やせるわけないんだよなあ)
今はマジメにそう思う。
本の中身がどうこうじゃない。
これは、ナツミが生きた証だ。
だだっ広い荒野みたいなこの世に灯を見出し、心が踊り、欲があり、愛があった。
アヤトに課せられた使命は2人分の秘密を守ること。
そのために、それなりに長生きすること。
いつか時が来たら、この鍵は……
「ただいまあ~」
と声がしてヒデアキが帰ってきて、本棚には何事もなかったかのようにそっと鍵がかけられた。
***
第2話「ぬいと鍵付きアカウント」終わり
第2.5話「ぬいと、ていねいなくらし」につづく
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