p10 野球で遊ぶぬい

 シャワーでさっぱりしてから母の部屋を覗くと、碧生あおいがまたピュッピュッと鋭い音をたててバットを振っていた。ぬいの体で誰かと試合したりするんだろうか。ヒデアキは少し気になった。

 練習するのは、試合でチームを勝利に導きたいから。ヒデアキのモチベーションはただそこにある。

 碧生はどうなんだろう。千景の他に友達とかいるんだろうか。ぬいがたくさんいて、一緒にゲームしてたら楽しそう……

 そんなことを考えていたら碧生が素振りをやめてトコトコと寄って来た。


「朝の写真、加工してくれないか」

「そだね、ツイートの準備しよう」


 ツイートにベストの時間まではまだ間があるけど、今日はシンタローが早めに帰ってくるらしいから夕飯の準備もしたい。

 千景はというと母の部屋の隅で黙々とパソコンに向かって、小さなキーボードで何かを打ち込んでいた。邪魔しないように、ヒデアキと碧生はダイニングに移動した。

 ヒデアキがスマホで写真の加工をする様子を、碧生はまた横から覗き込む。


「ボール弁当、思ったより地味か?」

「派手ではないよねえ。ごはんが真っ白だからかなあ」

「映えって難しいな」

「でも僕この写真、好き。碧生くん、バットでおにぎり打とうとしてるみたいでおもしろい」


 思わずふふっと笑うヒデアキの隣で、


「明日はフルプロのキャラ弁にしよう」


と碧生。

 「フルプロ」正式名称「実況フルパワープロ野球」は30年ぐらい前から色んなプラットフォームでシリーズが続いている有名な野球ゲームソフトだ。2頭身に簡単な顔の選手を操作してプレイする。可愛いビジュアルがキャッチーで、野球ファン以外にも人気が出た。ゲーム内容は非情に緻密に作り上げられている。実在のプロ選手の能力的特徴が的確に分析・再現され、キャラに固有のモーションもかなりのバリエーションがあって楽しい。


「碧くんもフルプロやってるんだ?」

「あとでいいものを見せてやる」

「?」



***



 その「いいもの」というのは……

 碧生が母の部屋の床の上にあるジュラルミンの立方体に近づいて、小さなスライドドアのような部分を開けた。


「XRボックスだ。覗いてみてくれ」


 そう言って中に入って行く。


「えっくすあーる……って、VRとかARとかの?」


 ヒデアキは言われた通りに、寝っ転がって小さな扉から中を覗いた。何も入っていないように見える。


「ああ。これでフルプロの世界に入れる。何度かバージョンアップしてゴーグル不要になった」


 碧生が小さな手の中で何か操作して、箱の中は明るくなった。映像でできた東京ドームが広がっている。観客も入って賑わっていた。

 トランペットと太鼓の応援歌がフェードインして響く中、フルプロの2頭身のキャラが現れてマウンドに上がった。


 実況も聞こえる。「さあ、スコアアタックが始まろうとしています! 挑戦するのは今季好調の松神まつがみ

 ピッチャーがデフォルメの動きで振りかぶってバーチャルのボールが丸い手を離れた。

 碧生がお気に入りのバットを振った。軽快な音がして打球が飛んでいく。


「体の動きを読み取ってフルプロのキャラと対戦できる」


 歓声に掻き消されないように、普段大人しい碧生の声も自然と大きくなっていた。


「なにそれ楽しそう! これ、碧生くんが作ったの?」

「いや、これは複雑だから兄さんとナツミに手伝ってもらった」


 2球目。打球は伸びる……が、ホームランには届かない。


「ヒデアキと対戦できたらいいのに。今はぬいサイズにしか対応してない」

「僕がバット振り回すの、広い部屋じゃないと危ないからねえ。外だったらいけるかな」

「ゲーム用のちっさいバットもあるぞ。けどやっぱり本物がいいよな」


 ワイワイ言いながら10球のスコアアタックで遊んでいると棚の上の方から、


「うおあーーー!」


と千景の声がした。ヒデアキは起き上がって棚の上の方、千景のパソコンスペースを覗いた。


「ごめん、うるさくして」

「ああ、いや、休憩しようと思ってな」


 千景は椅子から降りてにゅにゅっと伸びをしていた。そして空飛ぶタオルに乗って「XRボックス」の方に降りていく。


「碧生、キャッチボールするか」

「する!」



***



 マンションで共用のルーフバルコニーは意外と穴場だ。夏休みだから子どもが遊んでいることもあるけど、今は運良く誰もいなかった。

 碧生だけじゃなく千景もバット……のような棒を持って空飛ぶタオルに乗っていた。


「これはな、碧生が作った、そのへんの木を削ったバット」


と千景は自分の持っている棒をヒデアキに示して見せる。


「バランスが全然ダメだった……」


と碧生は眉間にきゅっと皺を寄せる。


「俺は振り回せりゃなんでもいい」


 ヒデアキも一緒に素振りをしようと自分の金属バットを持っていた。千景はニンゲンとぬいが並んで素振りしてる様子をおもしろそうに写真に撮ったり、自分も素振りをしたり、碧生とキャッチボールをしたりしていた。小さなボールを投げ合う練習や、打撃練習の守備役にヒデアキも参加した。

 そうして3人で遊んでいると碧生がほんの一瞬だけどニコッと目を細めて笑顔になった。ちょっと嬉しくなる。碧生は普段そんな気を許した顔して笑わない。

 千景は「酷い目に遭った」って言ってた。気になってネットで調べて、でも全部は読めなかった。

 ぬいたちは「設定」なんて他人事みたいな顔してるけど、そういう風に怖い記憶が心の底に植え付けられているなら、自分だったらもう世の中に心を開けない。

 なのに碧生は「ニンゲンをしあわせにする」なんて一生懸命だ。それは尊い志だけど、まっすぐすぎてなんだか切ない。せめて写真ぐらい、もっと上手に手伝えたらいいのになあ、なんて考える。



 そんな風にして、ぬいと過ごす時間はのほほんと過ぎて行った。











【そして再び8月31日】


 そういうわけで、色々なことがあってからの、夏休みの最後の日なのだった。

 可愛い朝ごはんの写真をツイートし、眠そうなシンタローを迎えのタクシーに押し込んで見送った後、ほぼ入れ替わりで父が帰ってきた。


「お父さん。早かったね」


 ヒデアキはぬいと一緒にツイッターをチラチラ見ながら食器の片づけをしていたけど、


「ヒデくん。今日どういう予定」


と尋ねる父の声があまりにも疲れていたから、自然と手が止まってしまった。


「午後から部活行く……」

「お葬式の準備をするから、今日は家にいなさい」


 言葉を遮って言いつけられてヒデアキは息をのんだ。凍りついたみたいに体が動かない。父も、


「シンタローにも連絡しないと」


と言うだけ言って俯いたまま動かなくなった。


「お葬式って誰の」

「お母さん」

「なんで」

「ヒデくんねえ……ちゃんと言わなかったけど、お母さんのと『思われるもの』っていうのは……」


 そのまま全てが沈黙した。

 言ってくれなくていい。ヒデアキだって本当は最初から知っていた。


「トーブでしょ」


 淡々とした声に父が顔を歪ませた。


「知ってた。夢で、お母さんに会ったから。鑑定中って言ってたの、やっぱりお母さんだったんでしょ」


 夢の中、晴れた夏空のもとに現れる母は最後に見たときの、シルバーグレーに空色の星の模様の服を着て、有名な「ニケの像」と同じ形をしていた。ゲームで見たことがあるからヒデアキはその形の「ニケ」をよく知っていた。勝利の女神の名前だ。頭部と腕がない。

 そうして神様になった母はヒデアキが目を覚ます時間まで色んな話をした。

 毎朝別れ際には、いつもの出張の時と同じことを言い残した。


「ご機嫌よく待っててくれたら、お土産買って帰るからね。ヒデくんの好きな、飛行機のお菓子だよ」

「お母さん。僕もう子どもじゃないよ」


 ヒデアキは不服を申し述べたけど、それでも母の望みなら「ご機嫌よく」しようと決めていた。自分が不機嫌になってみんなで旅行に行けないまま、夏が終わりそうなのを後悔していたから。


「お菓子はいらないから早く帰ってきて」


 そうして待ってただけだ。願えば叶えてもらえると信じて。もう子供じゃない、なんて全然嘘。

 父は傷つきながら、何が起きたのか情報を探して走り回っていたし、兄は悲しみを抱えたまま必死で未来に食らいついていってた。


「おとうさん」


と呼んでも何も返ってこなかった。お父さんが泣いてる。ずっとずっと泣きたくて心が重たかったに違いない。だったら今日、こうして少しだけでも楽になってくれるといい。明日からもきっとずっと涙が溢れてくるのは終わらないから。

 だからせめて今日は、自分だけは泣かないとヒデアキは強く心に誓う。


「迎えに行った方がいいのかな。それか、送ってもらえるのかな」

「ああ……迎えに……、迎えに行こうか一緒に」


 掠れる声で答える父のそばに、小さなぬいたちがいつものジト目で黙って佇んでいた。フェルトの肩が並んで震えていた。

 みんなと一緒に悲しくなって泣かないように慎重に、ヒデアキはそっと言葉を吐きだす。


「うん。お葬式の準備、しよう」

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